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【衝撃の疑惑!?】呂布、実はヘタレ武将説

 

 

これは焦げまんじゅうが史書を曲解した末にたどり着いた、くだらない妄想の一種の終着点です。

 

本来の呂布に関する考察は、こちらをご覧ください。

 

 

 

さて、私、正史三国志(と言っても日本語訳のほうですが)の呂布伝を読んでから、とある疑惑(というか妄想)を抱えておりました。

 

まあ先にネタバラしをしとくと、実際はただのこじつけですが……抱え落ちするのもなんかもったいない気がするので、ここで暴発させようと思います。

 

 

今回の話題は、無双の猛将・呂布、まさかのヘタレ説です。

 

 

 

………………。

 

はい、いきなり滑り散らかした気がしてどうにも落ち着きませんが……せっかく話題に出してしまったのです。この際、私が呂布をヘタレではないかと疑うに至ったエピソードを、彼の生涯と照らし合わせて追っていきましょう。

 

 

 

 

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魔王にガチビビリ

 

 

 

呂布ははじめ、丁原(テイゲン)という人物に武勇を感激され、非常に深い寵愛を受けていました。

 

しかし昭寧元年(189)、呂布は突如として丁原を裏切り、殺害。彼の手勢を掌握すると、裏で糸を引いていた董卓(トウタク)の元に向かいます。

 

 

これも「董卓にビビった」というヘタレエピソードにしようと思えばできましたが……まあさすがにそこまでのこじつけはやめにしておきましょう。

 

 

 

さて、話は戻って……初平2年(191)、諸侯は反董卓連合軍を結成し、彼が政治を牛耳る洛陽へと一斉に攻め寄せてきました。

 

この時に呂布は胡軫(コシン)という武将と共に、もっとも脅威となる孫堅(ソンケン)の抑えに出陣したのですが、呂布はなんと、大嫌いな胡軫を騙し、強力な相手である孫堅に無防備な状態でぶつからせて敗走させてしまいました。おい何やってんだ

 

 

そのせいで、孫堅軍は一度徐栄(ジョエイ)に敗北するものの臆することなく進軍。ついに洛陽に迫っていき、追いつめられた董卓は都・洛陽を放棄して西の本拠地付近である長安に逃げ込んでいきました。

 

 

こうして追い詰められた董卓は、疑心暗鬼からかいよいよ乱暴な振る舞いに歯止めが利かなくなってきます。そしてついには、呂布にも些細なことでキレて手戟(シュゲキ:投擲用の小さな戟)を呂布に投げつける事すらあったのです。

 

 

しかもタイミングが悪いことに、呂布は当時、董卓の侍女の一人と絶賛熱愛中。はい、董卓の女といわゆる不倫状態にあったのです。

 

 

……はい、この時の呂布、史書によれば気が気ではなかったとか何とかで、もうどうしようもないくらい内心ビクついていたそうな。

 

 

「ヤバい……これバレたら董卓に殺される……!」

 

 

そんな思いから、呂布はなんと、董卓に反感を持つ過激派筆頭格の王允(オウイン)という人物に、「俺、実は董卓に殺されそうになったんだ」と相談を持ち掛けます。ちょっとー!?おーい!!

 

ビビりまくった呂布から泣く泣く相談を受けた王允は、呂布にこのような提案を持ち掛けます。

 

 

「ああ将軍、災難でしたな。実は現在、董卓を殺すための謀略を巡らせておりまして……。これが成功すれば、将軍は助かるどころか、天下を救った英雄にもなれますぞ」

 

 

さすがの呂布も「義理の親を殺すのか」とためらったものの、「命の危険が迫っているのに、苗字が違う親子関係を心配する者がいますか!」という王允の一喝に、ついに呂布は「殺ってやるぞ!」と奮起。一刀の元、董卓を斬り捨てて王允派に正式に組み込まれたのでした。

 

……が、後に董卓軍残党によって王允らは襲撃を受け、都は大混乱に。呂布は敗北し、「長安と運命を共にする」と都に残った王允を置いてそのまま逃げ去る事になったのでした。

 

 

 

ちょっとコメント

 

まあ命の危険があるのならば、普通に考えてこの裏切りもやむ無しといったところ。

 

しかし、普通の将軍ならともかく呂布がやったというのが、なんというか、うん。仕方ないにしてもイメージとはちょっと違ってきますね。

 

 

とはいえ……個人的にはそれよりも、嫌いな上司である胡軫を嵌めてわざと敗走させたところが、呂布のヘタレっぽさというか小物臭溢れるエピソードとしてのハイライト。ぶっちゃけ、呂布の限界が明らかになった気がします。

 

 

ちなみに呂布と密通した侍女ですが……これが後に貂蝉(チョウセン)という名で三国志演義に出て、その大胆な脚色と共に名が知られて中国四大美女にまで数えられたと言われています。

 

最後の逃亡に関しては……『英雄記』には敵方の猛将・郭汜と一騎討ちをしてボコボコにのしたと書かれており、この辺はさすがの武勇といったところですね。

 

 

 

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そうそうこわぃ(´・ω・`)

 

 

 

その後、いろんな群雄たちにお世話になりながらも長居できなかった呂布でしたが……曹操軍の陳宮(チンキュウ)なる人物から、ある誘いがかかります。

 

「もう曹操にはうんざりです!あなたを主君に兗州(エンシュウ)で反乱を起こしたいので、是非お越しください!」

 

 

呂布はこの話を快諾し、さっそく兗州に突入。曹操の留守を見計らって根回しした陳宮らの策謀により、兗州のほぼ全土はあっという間に呂布のものとなったのです。

 

さて、こういう反乱したての地域というのは、一応は味方した豪族もまだまだ新君主のお手並み拝見をしている最中。求心力的にも戦力的にも、地盤は固まっていないものです。

 

そのため、本来ならばこういう場面は攻勢に回ってでも、鎮圧に来た軍勢を追い返さないと周囲も従ってくれないのは明白です。

 

 

……が、ここで呂布がとった手段は、本拠である濮陽(ボクヨウ)への駐屯、籠城。前線の砦などを使って曹操を手早く追い返すのではなく、優位に驕ってかちょっとビビったか、本拠の濮陽で曹操を迎撃しようと考えたのです。

 

しかしまあ、これで撃退できたのならば、この戦術は悪いものではありませんでした。

 

 

が、この時は旱魃やイナゴの発生による不作の時期であり、もともと兗州を奪ったばかりで蓄えが無かった呂布軍は、その影響をモロに受けてしまったのです。

 

呂布軍は一時期こそ曹操軍を追い詰めたりもしたものの、結局飢餓には勝てず曹操軍と休戦。地固めができないままの呂布軍は、曹操軍に地力の差で負け始め、両軍戦争状態に戻ると連戦連敗を繰り返し、ついにはせっかく奪った兗州から叩き出されてしまったのでした。

 

 

 

ちょっとコメント

 

 

まあ、うん。結果的に曹操を追い詰めたから良しといったところか。この時曹操は落馬して手のひらを火傷したとか、一度呂布軍につかまったけど機転で逃げたとかいろいろ言われていますね。なんだかんだ、呂布軍の抵抗はかなり激しかったようです。

 

しかし、前線の要害を使わず城に籠って迎撃となる……、どこで聞いたか、私はある言葉を思い出してしまいます。

 

 

「慎重な者は国境付近に多く兵を配備する。臆病者は首都近郊に兵を配備する」

 

 

正直、呂布=ヘタレと結びついてしまった要因の一つはこの言葉のせいです。

 

 

 

陳宮も怖いよね

 

 

 

さて、こうして敗走した呂布軍は、徐州(ジョシュウ)に勢力を持つ劉備(リュウビ)のところに厄介になりますが、そう時の経たないうちに決裂。出陣中の隙を突いて、なんと劉備軍の本拠である下邳(カヒ)を奪ってしまいます。

 

これにより、呂布は再び群雄として独立。勢力を得ることになりました。

 

 

そしてここからは『英雄記』の話ですが……

 

 

建安元年(196)何者かの企てで、呂布のいる政庁は突如として襲撃を受けました。呂布は誰がやったかわからなかったものの、着るものも着れぬまま厠の天井から脱出。妻と共に味方の陣に逃げ込んだのです。

 

 

この時に都督の高順(コウジュン)が呂布の証言から犯人を突き止めたことと、反乱軍に所属していた曹性(ソウセイ)の離反により、首謀者である郝萌(カクホウ)が討たれて無事に反乱は鎮圧されました。

 

 

しかし、ここで反乱軍から離反した曹性から、「裏で陳宮が糸を引いていました」という情報が入ってきたのです。

 

この時、陳宮は顔を真っ赤にして慌てたため、周囲は「ああ、こいつマジだな」と察したとされます。……が、呂布は陳宮を罰することをせず、そのまま不問としたのです。この時の呂布の言が、

 

 

「ほら、こいつウチの大将だから」

 

 

いやもう意味が分からん

 

 

ちなみに呂布、このあと曹性から「将軍は神のご加護を受けて無敵でいらっしゃるから無理と伝えたんですがねえ」という言葉をもらい、上機嫌に「益荒男とはお前のことだ!」とご満悦で、郝萌軍の指揮をそのまま預けたのでした。

 

 

 

ちょっとコメント

 

 

はて、呂布はなぜ陳宮を罰しなかったのでしょう。一応考えられる線では、

 

1.陳宮やその裏にいる袁術が怖かった

 

2.陳宮を殺して体制が変わるのが怖かった

 

3.そもそもこの話自体が後付けの創作

 

 

このいずれか。「怖かった」という理由しか思い浮かばないのは、呂布をヘタレと見てしまう私の目が曇っているからでしょうか?

 

 

ちなみにここに出てくる高順ですが、この事件の後で完全に呂布から疎んじられ、最後には血縁者である魏続(ギゾク)の下につけたとされています。

 

高順自身は反乱を止めた側ですが、ここで諫言した記述もなし……もしかしてですが、陳宮を罰したくないあまり脳内の記憶が改竄された……?

 

 

ベッタリ寄り添うような曹性の言葉に気を良くする辺り、可能性は…………

 

 

 

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最期もヘタレ節全開?

 

 

 

さて、その後もしぶとく頑張ってきた呂布ですが、建安3年(198)、ついに曹操軍に追いつめられるようになります。

 

この時も本文にある記述ではないとはいえ、陳宮の「前線で迎撃しましょう」という意見を退けて籠城を選んだ話には事欠きませんが……こんなのは序の口です。

 

 

ザックリと、呂布がとったとされるヘタレ行動は以下の通り。

 

 

1.曹操軍の猛攻に追いつめられると、曹操に「降伏するからそんなに攻撃しないで!」と告げた(魏氏春秋)

 

2.袁術の救援を得るため、嫌がる娘を布にくるみ、縛り付けて袁術に差し出そうとした(英雄記)

 

3.曹操に命乞い(本文・英雄記)

 

 

いろいろ台無しだよ!

 

 

ちなみに命乞いの逸話ですが、本文によれば、陳宮が内通者に捕らえられたことで自ら降伏。縄がきつかったので「緩めてくれよ」とお願いするも拒否されるという始末。最後には曹操に対して、

 

「殿は今、最大の敵である俺を下しましたぞ!これで殿が歩兵を率い、俺に騎馬を預けてくだされば、とうとう天下に敵がいなくなりますな!」

 

とまあ、必死に命乞い。ちなみに殿と言ってるところがミソ

 

 

曹操は一瞬気持ちが揺れましたが、劉備によって「丁原、董卓を裏切った奴を信じるのですか」という言葉に我に返り、「テメェが一番信用できねーんだよ!」と喚き散らすもむなしく縊り殺されてしまったのでした。

 

 

英雄記に関してはもっとひどく、曹操に論破されてなお食い下がって自分を売り込み、最後には曹操でなく劉備に縄を緩めるよう頼む始末。

 

 

 

……まあ、我が身の危険が迫るとこうなるのもわからなくなりませんが……日本の暴虐ながらも堂々とした武人像を描く呂布がこのザマなわけで、ちょっと衝撃を覚えますね。

 

ちょっとコメント

 

 

ちなみに裏切った人物の中には、呂布の血縁者である魏続がいます。おお、もうどこまでも……

 

なお戦いになる前、陳登(チントウ)という人物が曹操に内通していたのですが……ここでも自分を討っていた陳登らに激怒するもおだてられて気を良くする呂布の姿が、あろうことか本文に書かれています。

 

 

他にも劉備と仲違いした時に袁渙(エンカン)なる人物に劉備の悪口を散々書かせようと脅しかけたり(袁渙伝)、侯成(コウセイ)を怒鳴りつけて疑心暗鬼にさせたせいで裏切られる羽目になったり(九州春秋)と、なかなかコミカルというか小物くさい記述がチラホラと……

 

 

 

 

最強の武人がこの有り様である

 

 

 

なんだか書いているうちにヘタレから次第に小物にシフトしていった気がしますが……ともあれ、呂布のヘタレ疑惑がある事績はこんなところですね。

 

特に袁術への貢物として娘を縛り上げる記述は、見た瞬間吹き出してしまいました。これがあの呂玲綺の元ネタなんだから、もうなんというか……おお……

 

 

ぶっちゃけ、やってることは調子のいい時は威勢が良くて駄目になると途端にヘタレる、お調子者の山賊気質。終始一貫していた董卓と違い、こちらは性格面での擁護をあまり聞かない辺り完全にお察しです。

 

 

董卓、曹操、陳宮……最強の武を持つ割には天敵も多く、あまりの小物くささとヘタレた時の残念さが憎めない呂布。こんな人物が黒山賊1万余りを数十騎で蹴散らしたとか、信じられない強さを誇っているのだから、世の中は面白いものです。

 

 

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