娘・関銀屏の話から見る関羽の外交下手な性格
関羽(カンウ)の娘、関銀屏(カンギンペイ)。その出所は関羽伝にて出てきた名もなき関羽の娘で、民間伝承によっていろいろと設定が付け加えられていますね。
もっとも、正史における関銀屏は名前すら知らぬまま、ただ関羽伝の一文にて軽く触れられているだけですが……そんなちっぽけな逸話からも見えてくることがあります。
関羽の外交下手。いや、もっと言えば社交クソくらえの人格とでも言いましょうか。
簡単に言えば、建前や社交辞令が言えない(言わない)、自分が最強の自負にどこまでも正直な人だったように見受けられます。
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関銀屏について
さて、関銀屏の概要に釣られを調べて来た方のために、軽く民間伝承における関銀屏を見ていきましょう(とはいえ、ネットと初心者用解説本の胡散臭いコラムからの引用ですが)。
関銀屏は関羽の3番目の子であることから関三小姐(カンサンショウシャ)などとも呼ばれており、生まれながらにして大変色の白い子でした。
ちなみに銀屏という名前の名付け親は、叔父である張飛(チョウヒ)。関銀屏は父親の関羽だけでなくこの張飛にもかわいがられ、そのまま真珠を贈り物にされるほど愛されたとか。
そんな関銀屏は、成長して女性として成熟してくると、聡明でありながら武勇にも優れた才女へと成長。某シリーズのような筋肉バカ天然で愛らしい性格というよりは、しっかり者のようなイメージで伝承には残っているようですね。
しかし、そんな折に呉の孫権(ソンケン)が突如背後から襲ってきたことにより死亡。関銀屏は無事に逃げ延びることができますが、悲しみのあまり食事すらとれず、張飛からの気遣いすらはねのけるほどに心身とも衰弱してしまいました。
その心根に強くある思いは、父の仇討ち。やがてなんとか立ち直った関銀屏は凄腕の武人である趙雲(チョウウン)に武術を師事し、もともとの要領の良さもあってみるみる上達していきます。
が、結局その武勇は仇討ちに活かされることはなく、諸葛亮(ショカツリョウ)の南蛮征伐に自ら随行し(この時、「国勢的には孫権より反乱討伐が重要課題です」と答えてます。賢い!)、そのまま南中の地に留まることになって生涯を迎えたとされています。
そのため、関銀屏の逸話は、主に雲南省の一部地域で未だに残っているとか何とか。
敵に大義を与えてアボン
さて、関銀屏の話はこんなところでよいでしょう。
では、今回のメインの話題である、「関銀屏(面倒なので以後こちらの表記で記載)の話」を通じて関羽の性格を見ていきましょう。
以下は、三国志の関羽伝(ちくま文庫による翻訳済)にある一文です。
ふむ……。孫権がわざわざ関羽に単独交渉を申し入れた理由も不明ながら、関羽も関羽で外交的には最悪の事をしでかしてます。
まず、独断で勝手に孫権の申し出を却下したことが問題。
孫権にとっての同盟相手は関羽でなくその兄の劉備(リュウビ)であり、関羽はあくまで一方面軍の司令官に過ぎません。
当然そうなれば上の認可が必要で、関羽は感情的になるあまりそれを無視して独断専行をとってしまったことになりますね。
その上で、さらに侮蔑して叩き返したのであれば余計アウトです。
これはもう、孫権を劉備どころか自分よりも格下と考えていると言ってもいい問題行動で、人を見下しやすい関羽の問題点が明るみに出てしまったと言って差し支えありません。
よりにもよって、この時関羽率いる荊州の文官トップである潘濬(ハンシュン)とも、その仲は最悪。
彼のみならず糜芳(ビホウ)や傅士仁(フシジン)ら劉備から派遣された助っ人や名士勢とも決定的な亀裂があり、おそらくこの時の関羽は外交的アドバイスができる人間をすべて見下し、また彼らも関羽にわざわざ助言などしたいとも思わず、しても聞いてすらもらえなかったのではないでしょうか?
いや、さすがにこの辺は推察(もとい妄想)ですが……俺様気質のあまり良い身分の人間や同格を下に見たい悪癖が何らかの形で作用した可能性はあると思われます。
この話は架空?
もっとも、いくら何でもこの対応は非常識。というわけで、関羽を擁護する声の中には「この話はそもそも創作のガセネタを拾った陳寿が書き記した」とする説があります。
他の面々ならばともかく、関羽が義兄(正史では兄のようなもの)の劉備をないがしろにした行動を取るのかどうかが疑問視されているわけですね。
実際のところ、私の個人的な意見としても、劉備を無視して好き勝手する関羽というのはいささか想像がしづらいです。
……が、それでも、関銀屏の婚姻のくだりは嘘であるという話がにわかに信じがたい自分がいます。
というのも、この話が書かれているのは、孫権の呉主伝や呂蒙伝といった呉の伝記ではなく、よりによって蜀の関羽の伝。
まあ国賊の類いはあえて悪く書かれるのが恒例ですが……陳寿は政治の関係で魏と晋を表向き神のごとく信奉するような書き方をしていますが、実際には蜀をなんとか持ち上げようと奮戦していた様子が伺えます。
そんな中で蜀の崇拝すべき先主劉備の弟分である関羽を、そんないらん記述をつけ足してディスらなくても、糜芳や傅士仁はじめ嫌いな連中への対応だけで嫌な奴感を晋に見せるのは十分なはず。
本当にそんな話を付け足さなければ厳しいにしても、それは呉主伝辺りに付け加えればいいだけの事。わざわざ関羽伝に話が載っている辺り、やはりやらかした可能性が濃厚なのではないでしょうか?
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部下には慕われたんだけどね……
さて、そんな同僚や同盟相手に対してゴミを見るような目で応対した関羽でしたが、意外にも自分より明らかに格下といえる連中には滅茶苦茶優しく、以外にも関羽直属の軍内ではかなり慕われていました。
はてさて、とすればあの性格は「自分がもっとも有能でなければ」という自負と焦りが生んだ態度か、はたまた真正のジャイアニストゆえの子分愛か……
何にせよ、外交の場においても「自分が一番」という意見を曲げることができず、結局一流の腹芸士である孫権にまんまと悪党として攻撃を加える大義名分を手渡してしまった関羽。
何とも信じられないほど衝撃の話ですが、最後の最後には食料に困窮したあげく、「どーせ敵だから」とばかりに呉の領地で略奪を働いてしまっていますね(呂蒙伝より)。
元々手に画鋲を仕込んで握手をしかねないくらいのギスギス関係であった劉備と孫権。そのちょうど地理的に中間にいた関羽がこうしてまんまと呉の大義名分づくりに乗っかかってしまったのが、劉備らの荊州失陥の主な要因のひとつです。
そんな関羽の性格(というか短所)を外交能力から紐解いて表すと、
問題を沸騰させることにおいては、現代の電気ケトルが湯を沸かすのに勝る
と。
まあ演義だと近寄りがたい偉人(やってることは正史以上にDQNだけど)な関羽にも、このような致命的弱点がありました。
それを端的に表現した逸話が、娘の関銀屏と孫権の息子の懇談破局の逸話と言えるのではないでしょうか。
とはいえ、そんな関羽の傲慢さを「どうしようもない奴だな」と見るか、「あの関羽が親しみやすくなった」と見るかはその人次第。
何にしても、完璧な人ってのはやはりいないものですね。
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