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甘寧の年齢について考えてみる

 

 

 

甘寧の事績に関する記述は、こちらをご覧ください。

 

 

 

甘寧(カンネイ)、字を興覇(コウハ)。ぶっちゃけ字はDQNネームと思っていい。まあ、この時代は無上将軍とか何とか平気で名乗る人もいるので、その辺をつつくのはよしておきましょう。

 

さて、今回は、呉を代表する生年不詳の荒くれ武者・甘寧の年齢についてちょっと考えてみたいと思います。

 

 

本当は考察のメニューにぶち込めばよかったのですが……あまりに考察と呼ぶには事実確認ばかりなのとザックリしすぎな点。そして甘寧像をぶち壊しかねない事などから、暴走側のカテゴリーに入れさせていただきます。

 

 

 

 

 

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まずはメディアでの甘寧を……

 

 

 

さて、考える前に、まずは三国志メディアに登場する甘寧の年齢をちょっと覗いてみましょう。

 

まず、もっとも間近な三國無双シリーズでは、3時点での設定年齢は23歳。その後もシリーズを跨いでも若者然とした顔立ちに変化は無く、おおよそこれくらいだと思ってよいでしょう。

 

 

他のメディアにおいても、出で立ちは暴力団関係者を連想する若者風、あるいは、壮年の男性と言った物が主。たまに例外はありますが、冷静だったり正統派の猛将だったり、荒くれらしさが抜けただけで、結局青~壮年くらいの見た目であることは間違いないでしょう。

 

 

というわけで、おおよそ想像できる甘寧像は、以下の通りに集約されますね。

 

 

・20~35歳くらいの間で描かれることが多い。

 

・肌を露出してる場合は刺青とかもしちゃってるヤクザだが、たまーに普通の感じの甘寧もいる。

 

 

さて、前置きが長くなりましたが……とりあえずこれらの要素を踏まえた上で、甘寧の若かりし日の事績を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

益州時代のアレコレ

 

 

 

まず甘寧が益州を離れた理由ですが、これは益州の主である劉璋(リュウショウ)に反乱を起こしたのが原因とされています。まあ甘寧伝の本文には、本の虫になってインテリ化した後にふらっと益州を出たような書き方をしていますが……今回はこの反乱説を信じてみましょう。

 

とりあえず甘寧が関与している可能性が考えられる反乱は2つ。まず興平元年(194)に反劉璋によって引き起こされた反乱と、建安5年(200)に趙韙(チョウイ)が引き起こした州民反乱ですね。

 

 

前者は『英雄記』に書かれた反乱であり、甘寧の名も末端に記載があります。また、後者のものは荊州の人間から略奪を受けた益州人がキレて趙韙の主導の元に起こしたもので、こちらは後に呉の将となる李異(リイ)も参加していることが見受けられます。

 

 

もう名前があるのならほぼ確定でいいんですが……ここは限界まで若く見積もってみましょう。

 

 

まず、甘寧は益州でヤクザをやっていたのが20年余り。本に親しんだのはその後であり、もうこの時点で30代も半ばに差し掛かっているはず。しかも呉書ではヤクザになる前は会計報告の役人をしていたとあるので、もう少し上かもしれませんね。

 

 

つまり、どれだけ生まれが遅くても、建安5年(200)、つまり曹操(ソウソウ)が袁紹(エンショウ)と官渡でガチってる時には、40歳が手に届くような年齢に差し掛かっていたと言えるのです。

 

 

 

 

英雄記を信じるともうヤバい……

 

 

 

と、史書を無視して若く換算しても、呉に着くころには40歳を超えてそうな勢いの甘寧ですが……先述の通り、『英雄記』によれば反乱に参加したのは興平元年(194)のこと。

 

つまるところ、先ほどの換算からさらに5~10歳くらいプラスした年齢が、甘寧の実年齢である可能性が非常に高いです。

 

 

 

……怖いですが、もっとはっきりした数値を見てみましょう。

 

官吏となって辞める⇒20年余りのヤクザ時代⇒読書三昧⇒反乱⇒逃亡

 

とまあ、ここまでの経歴をぎゅっと絞ってだいたい25年とします。そして、官吏に任官されたのを、数え年で15歳と計算(これでも異常に早いですが)。

 

 

えー、この時点で、194年時点では40歳。つまり、数え年換算だと生まれは155年、当時の元号で永寿元年。

 

これ、曹操と同い年です。

 

 

つまりこの計算をそのまま考えると、甘寧は曹操袁紹あたりとほぼ同世代、下手すると数歳年上という可能性も出てきてしまうわけです。/(^o^)\ナンテコッタイ

 

 

そこから劉表(リュウヒョウ)、黄祖(コウソ)と不遇の時期を過ごすのが10年余り。甘寧、呉に使えるようになったのは予測に照らし合わせると50歳くらい。下手すりゃもっと上。

 

 

とまあ、こんな感じで、若々しい筋肉で暴れ回る爽快な猛将・甘寧は、あっという間に老将と言える存在に……。このまま還暦くらいの年齢で唍城一番乗りや決死部隊を率いての奇襲作戦におもむいたのだから、まったくもって恐ろしいものです。

 

 

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おじいちゃんが不貞腐れるにしてもだね……

 

 

 

さて、そんな曹操が疲れから耄碌を始めるころに絶頂期を迎えた甘寧ですが……彼がおじいちゃんだとして、ひとつ「これギャグだろ」と思えてしまう逸話があるので、それをちょっと思い出しながら締めたいと思います。

 

 

陳寿から「粗暴ですぐに人を殺した」と言われる老害ヤンチャな爺さんの甘寧ですが、ある時、ブチギレて料理人を殺そうとしたという事件がありました。

 

この逸話は甘寧伝の人物評と共に載せておりますが……まあ、結論から言いましょう。

 

 

呂蒙(リョモウ)に「殺すなよ」と釘を刺された甘寧は、知るかとばかりにその料理人を縛り上げて射殺。キレた呂蒙に殺されかけるも不貞腐れ、突如現れた呂蒙ママによってなんとか和解するという話になっています。

 

 

 

ええ、なっているのですが……。

 

 

まず、老成したいい歳の爺さんが許せないとはいえ縛り上げて射殺というのがどうなのか。そして何より、呂蒙が剣を片手に押し掛けてきた時も、上半身裸で寝そべって日光浴。呂蒙がキレながら呼びかけても無視して起き上がろうともしませんでした。

 

まあ、これで呂蒙を完全無視しているだけなら、まだ老害らしいエピソードのようにも言えるのですが……なんと甘寧、母の呼びかけで正気に戻った呂蒙が優しく声をかけると、突如嗚咽を漏らして泣き始めたのです。子供か!

 

 

 

まあ中年になるまでヤクザとして暴れまわり、その後も誰からも半ば認められず、呉に入ってからも優遇なのか不遇なのかよくわからない日々を過ごしたのが甘寧という人物。

 

 

もしかしたら、優しく受け入れられる居場所というのは、幼いころから欲しくても手に入らなかった物なのかもしれませんね。

 

 

 

……まあ、それにしても60過ぎの爺さんの態度ではないとは思いますが。

 

 

 


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