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呉範 文則

 

 

生没年:?~黄武5年(226)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州会稽郡上虞県

 

 

 

 

呉範(ゴハン)、字は文則(ブンソク)。この時代には占いや未来予知、神通力といった力は今以上に信奉され、それらが仕える人物は非常に重宝されることがありました。

 

この呉範という人も、占いによる未来予知という摩訶不思議な力によって重宝された人物の一人です。

 

孫権(ソンケン)もその力に魅了され、どうすれば占いの精度がそこまで高いのか興味を持っていたそうですが……結局呉範はそれを教えなかったため、現代にその方法は残っていません。

 

 

さて、今回はそんな呉範の伝、追ってみましょう。

 

 

 

 

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風水占術を極めし者

 

 

 

当時の中国は儒教の学問を究めることが出世の王道でしたが……一方で人物評や占術をはじめとする一風変わった芸風で上を目指すという道も作られていました。

 

そんな中で呉範がたどったのは、占術による名士としての栄達でした。彼は当時ではレア技能であった歴術を習得。さらに風向きなどから未来を予知する『風占い』に熟達し、地元の会稽(カイケイ)郡ではすっかりおなじみの有名人となったのです。

 

そしてついに呉範はその手のエキスパートとして漢帝国の中央から招聘をうけ、都・洛陽(ラクヨウ)に行くことに!……なったのですが、この時はすでに乱世。呉範は都に向かおうにも迎えず、結局断念してしまったようです。

 

 

 

ちなみに『後漢書』では、陶謙(トウケン)が趙昱(チョウイク)なる人物をなんとしても陣営に引き入れようとしたとき、呉範にも「趙昱を説得してくれ」と頼んだようで、彼もまた趙昱に陶謙の元へ向かうよう促しています。

 

この時も趙昱は断ったのですが、後に陶謙はキレて「お前来なかったら罰するよ」と権力行使に出て無理矢理趙昱を出仕させたとか。

 

 

もしかしたら、このまま趙昱が断り続けたら危険と予見したのかもしれませんね。

 

 

 

後に呉範の住む一帯は孫策(ソンサク)の領内に組み込まれるようになり、孫一門の影響下に。呉範はその弟・孫権(ソンケン)がその勢力を率いるようになると、その配下に取り立てられることに。

 

そこでも占いの能力は冴えに冴えていたようで、事あるごとに占いを的中させ、呉範の言う通りの事件や災禍が発生したと言われています。

 

 

 

 

この人ガチや……

 

 

 

建安12年(207)、孫権は宿敵の黄祖(コウソ)を討つべく軍を進発させようとしました。しかし、呉範は反対し、歴術の結果と合わせて以下のように述べたのです。

 

 

「今回の黄祖討伐は得るものが少なく、やめたほうが良いでしょう。それよりも来年は吉兆が見えます。おそらく荊州の主・劉表(リュウヒョウ)が死に、国が滅びます」

 

 

孫権はこの意見を棄却して黄祖を攻めたものの、住民を強制移民させるだけで大きな戦果は無し。しかし翌年には黄祖の主である劉表が本当に病没し、それに前後して黄祖を攻めたところ本当に黄祖軍を打ち破ったのです。

 

この時には呉範も同行していたようで、戦う前から勝利を予見して祝賀を述べたほか、夜闇に紛れて逃げた黄祖を追う時にも「まだ遠くには行っていません」と断言。果たして黄祖は明け方に捕まえることができ、孫権は親の仇を見事に討つことができました。

 

 

そして劉表が滅んで孫権軍の災難が去り、それからしばらくした建安17年(212)にも、再び呉範は占いによる予見を行います。

 

「劉備(リュウビ)が益州の土地を狙っていますが、再来年にはこれらすべてを併呑するでしょう」

 

この時孫権は、将軍の呂岱(リョタイ)から「劉備は軍を分散させて戦っており、勝つ見込みは薄そうです」という報告を受けており、孫権はそちらの意見を信用。呉範を難詰しますが、「呂岱将軍は見える範囲の人を、私は見えない天の理までを話しています」と返答。

 

果たして建安19年(214)、劉備は益州を奪って我が物としたのでした。

 

 

建安24年(219)に劉備と決裂してその将軍である関羽(カンウ)を追い詰めた際、関羽からは降伏するという旨の使者が届きました。

 

この時も呉範は姿を現し、「降伏などと言いますが、ここには逃亡の気があふれています」と断言。さらに関羽が捕まることと、それが翌日の日中であることも予見し、果たしてすべてその通りになりました。

 

 

他にも、孫権が魏と手を取り合っている時には「魏はやがてこちらと敵対して侵攻してきます」と断じ、また劉備が自ら軍を率いて攻めてきた時には「後に和睦し同盟国となりましょう」と予見。これらもすべて、後にはその通りになったのでした。

 

 

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占術の極意は極秘なのです

 

 

 

 

ここまで占いを見事に的中させてきた呉範でしたが、肝心な占いの方法に関してはまったく誰にも教えませんでした。

 

当然、その態度は孫権に対してもまったく同じ。彼はたびたび占いの極意を孫権から聞き出されましたが肝心なところは一切口にせず、次第に孫権の不興を買っていきました。

 

呉範は孫権から「占いが当たれば列侯に加える」と約束され、最終的には騎都尉(キトイ:近衛兵長)と太史令(タイシレイ:占いや暦法の責任者)を兼任するほどの大身になりましたが、孫権からは最後、ついに嫌がらせに近い行いを受けることになります。

 

 

孫権が呉範を列侯に加える条件となったのが、「干支でいう亥から子の辺りに、土地に流れる王の気と合わさって慶事が起こる」という予言が当たる事でした。

 

そしてこの予言は当たり、庚子……つまり子の都市にあたる延康元年(220)、孫権は呉王に立てられました。

 

 

呉範は宴の時にこの事を話題に出し、孫権も「そんなこともあったね」と諸侯の証である印綬を渡そうとしますが……実はこれは見せかけのパフォーマンス。孫権は呉範を諸侯に加えるつもりはなかったのです。

 

それに気づいた呉範は一切を固辞して印綬を受け取ろうとはしませんでした。

 

 

その後に功績が評定されたとき、呉範は都亭侯(トテイコウ)の爵位を受けることになりました。が、直前になって孫権は「あいつは占いを教えてくれないからなあ」と突如呉範の名前を削除し、功臣から除外。

 

結局、呉範が列侯に加えられるという約束は果たされることが無かったのです。

 

 

黄武5年(226)、呉範は死去。その息子は早死にしていたせいで、結局彼の占いは世に出ることがありませんでした。

 

孫権はこの時「列侯に封じる」という条件で凄腕の占い師を急募で探しましたが、結局それに値するだけの人物はみつからなかったのです。

 

 

 

 

職人気質の頑固者?

 

 

 

正史本文によれば呉範の性格は一本気で己を誇るきらいがあるとされ、いわゆる職人気質だった事が伺えます。

 

孫権に占いの極意を教えなかったのも、自分の占いというアイデンティティが他人に取られて、自分に価値がなくなるのを恐れた結果かもしれませんね。実際に『呉録』にも、このような推察が書かれています。

 

 

さて、そんな呉範は友情に厚く、自分の認めた人物にだけは最後まで変わらない友情を貫いたとか。

 

 

 

ある時、自分の同郷の友人である魏滕(ギトウ)なる人物が罪を得て孫権の怒りを買い、「コイツを庇ったやつは死刑」とまで言い放つという事件がありました。

 

呉範はそんな魏滕に対して、何の得にもならなくとも「一緒に死のう」と言い放つと、頭を丸めて囚人の格好をし、孫権の邸宅に突撃。

 

殺されるからと取次ぎを渋る受付に対して「万一があれば君の子供は私が預かる」と約束すると、ついに孫権の元に向かいました。

 

 

しかし、孫権の碇は収まりようもなく、取次ぎが説明のための言葉を言い終わる前に、戟を投げつけようと構える始末。ヤバいと逃げ去る取次ぎ役。呉範は取次ぎ役が逃げてきたのを確認すると、入れ替わる形で孫権邸に突撃し、そのまま彼の前で土下座したのです。

 

こうして血を流すほどに頭を打ち付け涙ながらに助命を嘆願する呉範を見て、やがて「これ無理だろ」と思われるほどだった孫権の怒りも氷解。

 

 

かくして魏滕は罪を免れ、「良心ですら見捨てたというのに……。こんな奴が友達として一人いれば、もう何人も友人は必要ない」と述べたとか。

 

 

プライドが高いという事はそれだけ味方が少ないとも取れます。占い師・呉範は、だからこそ数少ない友人を大事にしたのかもしれませんね。

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