賀斉 公苗
生没年:?~黄武6年(227)
所属:呉
生まれ:揚州会稽郡山陰県
賀斉(ガセイ)、字は公苗(コウビョウ)。前まではまったく無名の「誰それ?」武将だったのに、ニコニコ動画の劉禅(リュウゼン)が大活躍する某動画で神のごとき活躍を披露。
一躍「賀斉神」として多くのファンを抱えることになった、対異民族戦線異例の有名武将の一人ですね。……といっても、その人気はまだまだ限定的な物ですが。
今回は、そんな賀斉の伝から彼の活躍を拾っていきましょう。
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反乱潰すマン大地に立つ
賀斉はそこそこの家系の出だったようで、父親は県のトップ、伯父は有名な学者という立ち位置の人物だったようで、最初は剡(セン)県のトップを代行という形で行っていました。
が、この時、斯従(シジュウ)なる役人が、影響力のある土豪の出であるのをいいことに、任侠気取りで悪さばかり働いていたのです。
賀斉はこれを聞いて斯従をひっ捕らえようとしますが、さすがに部下はそれをよしとせず、「奴を捕らえれば、必ず周辺が黙っていません」と必死で賀斉を止めようとしました。
……が、賀斉はそんな周囲の制止を聞くと、逆にマジギレ。「めんどくせェ!!」と言わんばかりに斯従の元に向かい、彼の一派を残らず叩き斬ってしまいました。
当然それを聞いた斯従の一族らは、賀斉に対し怒り心頭で、千人以上の兵を束ねて役所へと殺到。剡県そのものを敵とみなして復讐戦を仕掛けてきましたが、なんと賀斉はこれに対して官吏や住民で構成された民兵隊を指揮し応戦。斯従の一族らをボコボコに叩きのめしてしまったのでした。
この武勇伝はあっという間に周囲に広がっていき、山越(サンエツ)の異民族間では賀斉はすっかり有名人に。役所でも賀斉を反乱討伐のエキスパートとして起用して紛争地帯に放り込むようになり、賀斉もそんな期待に応えて、わずか1年で任地周辺の反乱を終焉に導いたのです。
『晋書』によれば、元の姓は「慶」。しかし、これは皇族の祖先と同じ名前。そこで、彼らに配慮して苗字を賀と改めたとされています。
対不服従民エキスパート
建安元年(196)に孫策(ソンサク)が王朗(オウロウ)を倒して周辺を治めるようになると、賀斉も彼に推挙される形で官吏に登用。そのまま王朗派の残党である反乱組織との戦いの場に投入させることにしました。
この時、反乱組織のリーダーは賀斉の威名を知っており、賀斉に対して降伏しようという動きを見せていました。が、そんな弱腰のリーダーに怒りを覚えた過激派が彼を殺害。過激派は一枚岩となり、賀斉ら討伐隊の兵力を圧倒。正面から戦っても勝ち目がないと判断し、賀斉はしばらく彼らの様子を観察することに。
さて、こうしてしばらく自体が膠着した孫策軍と反乱軍の戦いですが……やはり一枚岩に固まったとはいえ、所詮は即席。後に過激派同士でも内輪揉めが起きるようになり、派閥間の連携が難しくなりつつありました。
その状態を見定めた賀斉は、ついに重い腰を上げて反乱軍と交戦。わずか一戦で反乱組織を壊滅させ、恐慌の末に一派は皆賀斉に降る事になったのでした。
また、孫策が急死して弟の孫権(ソンケン)の時代になると、その3年後の再び反乱が発生。建安8年(203)、賀斉は討伐隊を率いて反乱の中心地帯である建安(ケンアン)を奪取、そこに役所を置いて、会稽郡の各県に五千ずつの兵を配備して反乱に備えるようになりました。
しかし、まだその周辺は不服従民の本営が複数点在。予断を許さない状態でした。
そこで賀斉は、元は同僚であった丁蕃(テイハン)という人物に、不服従民の本営を監視、牽制するよう指示。しかし、丁蕃はプライドから元同僚の賀斉の言う事を無視。
ナメられたまま終わると後に支障をきたす。そう感じた賀斉は、あくまで自分の意見を無視しようとする丁蕃を殺害。軍全体を恐怖心で締め上げ、以後従わない者はいなかったとされています。
こうして軍をまとめ上げた後に、ほとんどを攻撃隊として統率して周囲の不服従民本営を陥落させ、名のある頭目たちをことごとく降伏、あるいは捕縛。この時に斬った兵士は六千、さらに平定した地区の政治機構を立て直すと1万もの兵を徴兵して帰ったのでした。
これにより、賀斉は平東校尉(ヘイトウコウイ)に昇進。さらに建安10年(205)には、孫権領の東南端から上饒(ジョウジョウ)に進軍してこれを平定。新たに建平県を立てることに成功します。
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賀斉の奇策
建安13年(208)には、賀斉は威武中郎将(イブチュウロウショウ)に昇格。赤壁の戦いや荊州動乱が起こる裏側で丹陽(タンヨウ)、黟(イ)、歙(ショウ)県の不服従民を鎮圧。
後にいくつかの郷が降伏を宣言したため、そのうちのひとつを県に格上げしようとしましたが……黟、歙2県の頭目がこれに反発。それぞれ不服従民を率いて敵対し、砦のある山へ閉じこもってしまいました。
彼らが閉じこもった山は、崖と細く険しい小道しかない天然の要害。普通に攻めようにも、崖の上から落石を行うため攻撃は困難を極めたのです。
しかも、何日と膠着が続く中、将兵から次々と不満が飛び交い、士気は減退するあまり。賀斉はそんな様子を見てこれ以上の対陣は危険と判断し……ある奇策に打って出たのです。
ある日、賀斉は山の周囲を自ら見渡すと、どうにかよじ登れそうな場所を記憶。山登り用のハーケンを作って身軽な兵士たちを集め、彼らにハーケンを手渡してやったのです。
そして夜闇に紛れ、賀斉の送り込んだ百数十人の隠密部隊がひそかに登山。一斉に角笛や太鼓を打ち鳴らさせて、敵軍を大混乱に陥れました。
かくして守りが崩れたところを賀斉らも本隊を率いて山を登り、敵軍を一気に蹴散らして大勝を飾りました。
後にこの混乱があった地域は新たに県を整備され、それらを合わせて新都(シント)郡となり、賀斉は偏将軍(ヘンショウグン)に昇格してそこの太守になったのでした。
また、時期は定かでありませんが……『抱朴子』では、世にも不思議な賀斉の戦い(たぶんさすがに創作)について書かれています。
賀斉は山越の不服従民を討伐に向かいましたが、なんとこの時、敵軍に一切の攻撃が通用せず。武器を手に取っても一切扱うことができず、矢を放っても不思議な力で跳ね返されてしまうのでした。
聞けばこの時、敵軍には呪術師がついており、その術師が刃物による斬撃属性の攻撃を一切シャットアウトしているのだとか。
周囲が絶望的な雰囲気に包まれる中、賀斉だけは打開策を考え、やがて一つの結論にたどり着きます。
「聞けば、その手の術師は斬撃を防げても、別の攻撃を防げないらしい」
かくして賀斉は「打撃攻撃ならば敵に通用する」という理論にたどり着き、堅木で棍棒を作成。力自慢の兵5千にそれを支給すると一斉に突撃し、呪術頼みだった敵軍をあっという間に粉砕。数万を討ち取ってしまったのです。
どういうことだってばよ
建安16年(211)に呉郡の余杭(ヨコウ)で千人余りの反乱軍が結成されましたが、賀斉はこれを瞬殺。ここでも賀斉の提言で余杭は分割され、臨水(リンスイ)県が建立。
建安18年(213)に1万以上の大軍が集まって引き起こされた大規模反乱も、賀斉はあっさりと討伐。兵役に耐えられる者は兵に加え、それ以外には県の戸籍を与えて無事に鎮圧して見せ、奮武将軍(フンブショウグン)に昇格。
ほとんど異民族制圧ばかりでしたが、賀斉はすっかり孫権軍の数少ない将軍の仲間入り。異民族討伐が、どれだけ呉にとって大事な事だったかがわかります。
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賀斉神
ここまでの戦績はずっと異民族討伐ばかりだった賀斉でしたが……なんと建安20年(215)、ついに三国志の表舞台にも出撃。孫権自ら率いる十万ともされる大軍の1武将として、手勢を率いて合肥(ガッピ)に攻めかかりました。
が、この時、敵軍を率いていたのは張遼(チョウリョウ)はじめ魏の名将たち。戦力では圧倒していた孫権軍でしたが、敵軍の見事な策に翻弄されて敗北。この時、賀斉の同僚であった徐盛(ジョセイ)も怪我を負わされ、自身の将軍の証である旗を奪われてしまったのです。
賀斉は、そんな絶望的な状況下でも兵を指揮し、なんと合肥の守備軍を跳ね返し、徐盛の旗を奪い返してしまいました。すげぇな賀斉神
その後、曹操(ソウソウ)の計略で再び異民族が反乱を起こすと、賀斉は陸遜(リクソン)と共にこれを討伐。降伏させ、新たに8千人の兵士を迎え入れました。
そして黄武元年、曹操の後を継いだ曹丕(ソウヒ)によって大規模侵攻が始まると、賀斉は再び魏との戦線に参加。この時、味方の船の多くが強風によって転覆、あるいは敵の陣地に漂流して大打撃を受けたのですが、賀斉の軍勢だけは無傷だったとされています。
さらにその後、侵攻してきた曹休(ソウキュウ)の軍を戦わずして追いやったことにより、後将軍(コウショウグン)に昇格。徐州牧(ジョシュウボク)となりました。
その翌年、晋宗(シンソウ)なる人物が呉を裏切って魏へと出奔。そのまま謀反を起こすという事件がありました。賀斉は糜芳(ビホウ)や鮮于輔(センウホ)らを率いて晋宗の反乱を討伐。難なく彼を生け捕りにしたとされています。
後に賀斉は史書からは姿を消し、晋宗討伐から4年後の黄武6年(227)、息を引き取りました。
その子や孫も、優れた人物であったと伝えられています。
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派手派手将軍賀斉神
さて、このように異民族討伐における功績を山ほど残した賀斉。陳寿からは特別な評を受けてはいませんが、「呉の異民族との国境は特に荒れやすく、そんな内患に良く対応した」とされる諸将のトップバッターを飾っています。
そんな優れた将軍である賀斉ですが……その生活態度は大変に華美豪奢なもので、『江表伝』ではとある人物から告発を受けるほどだったとされています。
が、その派手好きも時に真価を発揮するもの。賀斉の場合は特に軍事面で派手好きがプラスに働き、軍器や武具はとびっきり華やかで、特に彼の軍船は山のような威圧感があったとされています。
そんなド派手さは敵軍を威圧し、なんと曹休を戦わずして追い返した事績が本文にまで載っているのだから、恐ろしいものです。
孫権も彼は非常に高く買っており、特に余杭の反乱鎮圧の後には、これまでの功績をたたえて自分の馬車に迎え入れたほどでした。
当時の権力者と同伴するという行為は、実際には手打ちにされるレベルの無礼行為。それを権力者自らが許可するのは、この上ない栄誉だったわけですね。
そんな栄誉をはじめは恐れ多いと拒否した賀斉ですが、孫権は近習に指示して無理矢理馬車の中に賀斉を押し込み、その栄誉をたたえたのだとか何とか。
彼が最後に就いた後将軍という将軍位は、言ってしまえば魏蜀で言う五大将や五虎将軍にノミネートされた人物と同格の証なのですが……後にはそんな称号が存在しないのは残念です。
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