評価・人物
正史三国志によると、太史慈は七尺七寸(177cmほど)の偉丈夫で、立派な髭を生やすなど容姿に恵まれていたようです。
それと同時に弓術の腕も当時では最高峰のもので、こちらも大いに賞賛されています。
そんな太史慈を陳寿は以下のように評しています。
信義を守ることに一身をかけ、いにしえの人々にかわらぬ操行を持した。
つまり、正史三国志をして「信義の人である」という太鼓判を押されており、大変義理堅い人物であったことが伺えますね。
当然、それらは彼自身の逸話や軌跡から察することができますが……どうにも、この人の場合純粋な信義だけの単純な人物ではありません。
というのも、太史慈は信義と共に大きな野心を持っており、良くも悪くも自身の気持ちに忠実な人物だったのではないかと。
孫策の元に降ってからは大人しくなっていますが、それまでの太史慈の動きは野心高い壮士そのもの。相手への義理は尽くす一方で自身の野望を成し遂げるためのルートを常に計算し、機会を虎視眈々と待つ姿は一介の群雄に劣る物ではありません。
この辺は昨今の三国志マニアたちにも言及されており、必ずしも「信義の人」という単純な評価で収まらないから面白い人物です。
というか、太史慈はヤバい人であってくれた方がこっちとしても想像がはかどって楽しい
さて、そんな太史慈の特徴と言えば弓と野心。
正直活躍時期があまりに短すぎたため、他にこれといった部分が無いのが正直なところですが……それでも、この2つの特徴を表す逸話はなかなか濃いものがそろっています。
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神弓の太史慈
孔融を助ける際、弓の訓練をネタに策を仕込んだことから、太史慈は弓の名手という印象が強いです。
当然これは正史三国志でも言及されており、「矢を射れば百発百中」とその実力は手放しに賞賛されています。
太史慈が孫策に降って後、彼と共に賊軍の討伐に赴いたときの話です。賊軍の一人が砦内にある櫓の上に上り、散々に口汚く罵って孫策らを挑発してきました。
敵は砦内の安全地帯におり、とても弓で狙うなど普通ならば不可能な距離があったのですが……なんと太史慈はそのまま矢をつがえ、わめき続ける賊に向けて発射。
この時敵は梁に手をかけていたのですが、太史慈の放った矢は彼の手に命中。そのまま撃ち抜いて、敵の手を櫓の梁に縫い付けてしまったのです。
これには包囲していた味方からも大絶賛。太史慈の行動は敵味方の士気を大きく左右したことでしょう。
これだけでなく長柄を使っても孫策と互角、さらには暗器である手戟にも長けていたわけですから、太史慈の武勇はまさしく規格外だったのでしょう。
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野心家・太史慈の最期
役人同士の上訴合戦では上奏文を破り捨てるという大チョンボで勝利し、母親の無茶ぶりにも乗り気で応えた太史慈。
しかし、その行動をかいつまんでみると、つまりは自分を認めた孔融、そして半信半疑だった劉繇を見限って独立、負けてようやく孫策の元に落ち着いたというなかなかクレイジーな経歴の持ち主です。
孔融は後に曹操に処刑され劉繇は落日の中で病死と、どちらも群雄としては残念な末路を迎えており、もしかしたら太史慈は彼らの将器を見極めたうえで「俺の力を使いこなせる代物ではない」と切って捨てたのかもしれません。
良禽は木を択ぶなどとも言いますが……太史慈も己の野心を胸に、並大抵の人に仕えることを嫌ったのかもしれませんね。
勇名をとどろかせながらも前半生は君主に恵まれず、孫策の元では活躍を見せる前に亡くなってしまった太史慈ですが……その最期に際して、『呉書』ではとんでもないことを口走って息絶えています。
「大丈夫と生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきものを、大志成し遂げずして俺は死ぬのか……」
今風に言い直すと、「男に生まれたからにはでっかく頂点(帝)を目指すべきだというのに、それを道半ばで……!」といったニュアンスでしょうか。
つまり、孫策という無二の君主でさえも一時的な共闘関係。後々は再び乱世に名乗りを上げて天下の覇権を争う気満々だった……とも思われる一言。
実際に負けはしたものの、一度は空白地帯を糾合し孫策と揚州の覇権をめぐって争った人物。そんな彼の胸中には、常に野心の炎が渦巻いていたのかもしれませんね。
ちなみにこんな危険な事を言っちゃう人物と知っているはずなのに、孫権は彼の死を悼んでいたと伝えられています。
群雄太史慈、旗を掲げ乱世に名を上げる……。
恐らくそのあおりを受けるであろう孫権にとってはたまったものではありませんが、生き長らえて孫家への義理を果たした太史慈がいったいどう動くのか……一度見てみたい気がします。