歩隲 子山


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歩隲 子山

 

 

生没年:?~赤烏10年(247)

 

所属:呉

 

生まれ:徐州臨淮郡淮陰県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 A- 目立たない文官のイメージがあるが、主戦場裏で軍を率いて活躍した記述も多い。実は名将タイプ。
武力 D+ 武力は不明だが、名声だけはある呉巨をぶっ殺したり独自軍閥を作ろうとしたり、胆力は並外れているようだ。
知力 A 博識かつ多芸多才で策略にも通じる。鷹揚な性格が野心のための演技だったとしたら……怖すぎる。
政治 A 孫覇派の重鎮にして、陸遜亡き後の丞相。孫覇側が悪く言われる理由の約半分は、彼と全琮が地固めの暇無くさっさと逝ったせいだと思っていい。
人望 C 貧乏上がりにもかかわらず清貧を貫いた人格者。しかし後世の歴史家の受けは他の孫覇派ともども悪く、当時も張昭や潘濬から警戒されていた。

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歩隲(ホシツ)。字は子山(シザン)。世の中には政争で負けた、後世で記載されるところの悪の組織に属した人物は、ことごとく悪人か空気にされてしまう悲しい宿命を背負っています。

 

 

歩隲もそんな後世の負け組に属したばかりに存在を抹消、あるいはとことんまで薄いものとされている人物の一人。

 

陸遜(リクソン)の後を継ぐ形で(というか政争で勝ち取って)丞相(ジョウショウ:総理大臣級の重役)を勝ち取っているにもかかわらず、ぶっちゃけ現在では空気です。

 

 

しかし実際は些細なことを歯牙にもかけない大物風の雰囲気を纏っており、実力も相応という、呉に無くてはならない重要な人材のひとりでした。

 

今回は、そんな歩隲の伝を追って行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

呉の暗雲、そして……

 

 

 

 

呉の建国によって沸き立つ孫権領内でしたが、その絶頂期も長くはありませんでした。

 

相次ぐ重臣や親族の死により国主・孫権の判断に大きな狂いが生じ始め、やがて国内の安定をも脅かすようになるのです。

 

 

その序章ともいえるのが、呂壱事件。

 

 

孫権は呂壱(リョイツ)という人物を任用し、人事監査の重役に置いたのです。

 

 

呂壱は重箱の隅をつつかのような徹底弾圧を行って、気に食わない相手や政敵を次々と弾圧。多くの家臣が罷免や降格という処分を受け、政治体制に大穴をあけてしまいます。

 

この有り様を見てある者は孫権に呂壱の悪行を上訴し、特に怒りを覚えた者はわざわざ呂壱を殺しに行こうとしたとまであります。

 

 

歩隲もこの時、孫権に対して呂壱の悪行を摘発。顧雍(コヨウ)、陸遜諸葛瑾、潘濬(ハンシュン)らの名を挙げ、彼らを中心であるとして重く用いるようにとも諫言しています。

 

 

 

とまあこのような動きによって孫権は呂壱を処刑、ようやく政治は正常化の兆しを見せますが……孫権自身が明けてしまった穴は大きく、直後に孫権が政治的意見を求めた際には誰もがハッキリ意見を言うのをためらうようになりました。

 

歩隲もこの時意見を求められましたが、「私は軍人だから政治家に回してください」と逃げるような返答をしています。

 

 

呂壱事件により、大きな亀裂が入ってしまった主従の絆。これは後に、更なる問題を引き起こすことにもつながるのです。

 

 

 

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二宮の変と丞相就任

 

 

 

呂壱事件の解決により、呉は表面上は上手く穴もふさがった形になりましたが……心身ともに損耗しきった孫権に、さらなる試練が降りかかってくるのです。

 

次に呉を襲ったのは、後継者問題。皇太子の死後嫡男不在となった呉では、後継ぎをめぐって政争が勃発。

 

 

元々三男の孫和(ソンカ)で半ば後継ぎが決定していたのですが、そこに四男の孫覇(ソンハ)が周囲に推されて名乗りを上げたのです。

 

結果、揚州土着の名士を主流に構成された孫和派と、主に疎開してきた外様名士で構成された孫覇派で主導権争いに発展したのです。

 

 

 

歩隲はこの時、外様名士の一人として孫覇派に所属。陸遜らと対立関係になり、激しい潰し合いの不毛な讒言合戦に発展し、多くの重臣がこのあおりを受けることになったのです。

 

そんな中、政争を優位に進めていたのは孫覇派。彼らは土着名士やそれに組する孫和派重臣たちを次々と左遷に追いやり、ついにはそのトップに立つ陸遜をも排除に成功。

 

そのまま陸遜が病死すると、ついに歩隲は丞相に就任。孫覇派の勝利という形で一応の決着を収めたのです。

 

 

こうして呉の最高位に上り詰めた歩隲は、西方に20年ほど滞在していたこともあり、蜀でも畏敬の目で見られるほどの多大な名声を得たとされています。

 

しかし時は残酷な物で、丞相となった翌年の赤烏10年に病没。

 

 

さらには孫覇派のリーダー格であった全琮(ゼンソウ)も相次いで亡くなったため孫覇派は壊滅。ついには土着名士らが力を盛り返し、後年、その孫である歩濬(ホシュン)を除く一族郎党が処刑されるという憂き目にあってしまったのでした。

 

 

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沈着な性格、規範となる態度

 

 

 

三国志の生みの親である陳寿は、彼の事を以下のように評しています。

 

 

人を受け入れる器量と規範となる行動により、有能であるとみなされた。

 

 

また、徐州出身の外様名士の代表格としても扱われており、当時の名声の高さが伺えます。

 

 

 

その性格は冷静沈着で鷹揚。器量が大きかったため、ポーカーフェイスなよくわからない人でありながら、内外をしっかりとまとめ上げる統率力を持っていたのです。

 

贅沢にも特に興味がないようで、丞相になってからも生活は質素倹約。書物を手放さず一族子弟にも勉学を教え、住み家も衣類もその辺の学者と変わらない物だったそうな。

 

 

『呉書』には、器量と冷静さの他に、多芸さについても触れています。

 

といっても逸話は無く、「哲学や諸芸に、右に出る物がいないほど広く深く精通していた」と書かれているくらいですが。

 

 

 

とにかく、政争のどさくさではあるものの、一国の宰相になる位の人物だったのは間違いない……かもしれません。

 

 

しかし、どうにも敵が多かったような記述も多く……もしかしたら、周囲からはあまりよく思われていなかったのかもしれませんね。

 

 

 

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土着名士陣の敵?

 

 

 

自身も優れた才があるとともに、多くの忠臣を名指しで主君らに紹介したりと、歩隲の行動だけを見るととても敵を作るようなものには見えません。

 

しかし実際はそうでもなかったようで、特に格式の高い名士らからは印象があまり良くなかった可能性があります。

 

 

例えば、呉の股肱の臣代表格といえる、同じ徐州出身の張昭(チョウショウ)。まあ歩隲だから不快に思ったかどうかはわかりませんが……彼は息子が歩隲の推薦で軍人になった時、明らかに不快感を示しています。

 

 

また、歩隲が軍備強化を願い出た時には、潘濬は彼の名声と勢いを警戒して孫権に却下を願い出ていたのです。

 

 

極めつけは、彼の妻の態度について。歩隲自身は丞相になっても禁欲的な生活をつづけたのですが……やはり凡人は転がっている金と名誉を無視できないもの。
彼の妻や妾たちは夫と違ってきらびやかな衣類を身に着けて着飾っていたらしく、それが理由で歩隲への反発も少なくなかったそうな。

 

 

 

このように意外と敵が多いかもしれない歩隲。もしかしたら、はじめから気の強い土着の名士を排除しようと考えていたのかもしれませんが……所詮は陰謀論の枠を出ない推測です。

 

彼はいったい、そのポーカーフェイスの裏で何を思い、何を考えていたのでしょうか?

続きを読む≫ 2018/07/02 14:12:02

 

 

 

 

苦学者歩隲の在り方

 

 

 

 

歩隲の生まれた徐州(ジョシュウ)は、その当時は大変な激戦区。数多の群雄が攻め寄せ、奪い合い、結果として多大な戦禍にさらされていたのです。

 

そんな状況ゆえか、多くの名士らは南へと流れて疎開。平穏な天地を求めて故郷を後にする人が続出したのでした。

 

 

歩隲も、荒れ果てた故郷を捨てて南へと逃れたひとりで、たまたま同い年で仲の良かった衛旌(エイセイ)と共に南の地へと逃避。しかし他の名士と違って人脈も名声も持ち合わせていなかったため、貧乏生活を余儀なくされていました。

 

その生活たるや、作物として瓜を育てて売り出し、昼間は底辺職の肉体労働に精を出し、夜になってようやく残り少ない体力と時間を勉学に割けたと言われています。

 

 

そんなある日、2人は東の端にある会稽(カイケイ)郡に移住。その地で幅を利かせていた焦征羌(ショウセイキョウ)なる人物に挨拶伺いに行き、育てた瓜を献上してご機嫌を取ろうと考えたのです。

 

……が、焦征羌は2人の来客を知りながらもあえて無視して昼寝を開始。

 

そして長時間待たせた後に、今度は直射日光の入り込む場に敷物を敷いてそこに座らせ、自分は豪勢な料理を食べながら2人には質素な料理しか振舞わず……とにかくとことんまで見下した応対を徹底したのです。

 

 

衛旌はこのぞんざいな扱いに耐えがたい屈辱と怒りを覚えましたが、一方の歩隲はケロリとした顔でバカにしたような態度を見送り、そのまま何事もなしに帰らされたのです。

 

 

平気な顔をした歩隲に対して衛旌は「あんな馬鹿にした態度を何故平気で耐えられる?」と問い詰めましたが、歩隲は別段普通の顔をしてこのように答えたのです。

 

 

「今の俺たちは身分も金もない、言わば何も怖いところのないモブキャラだ。そんな奴らがビビッてご機嫌取りの挨拶に来たとあっては、あんなデカい態度を取られるのも当然だろう」

 

 

焦征羌は荒くれ者であり、その部下たちは好き勝手振舞う血の気の多い輩。

 

だからこそ、歩隲たちはわざわざご機嫌取りに来たのです。その目的を忘れてプライドだけで行動しても、良い事は何もない。歩隲はその事実をしっかりと認識し、目的を忘れず行動していたのです。

 

 

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辺境・交州へ

 

 

 

後に歩隲は、孫権(ソンケン)によって呼び寄せられ、主記、後に海塩(カイエン)県の県長に就任。さらに孫権が位を上げると、その配下である歩隲も東曹掾(トウソウエン:この場合孫権直属の事務・人事担当者)として中央に再び勤務することに。

 

そして建安15年(210)、歩隲は鄱陽(ハヨウ)郡の太守を経て、その年のうちに今度は交州(コウシュウ)刺史(シシ:州の長官)として、千人の武装兵とともに不穏な雰囲気の漂う辺境の地へと向かったのです。

 

 

さて、この時の交州はというと、士燮(シショウ)なる人物と、劉表(リュウヒョウ)の差し金で太守として赴任してきた呉巨(ゴキョ)という人物が勢力を張っていました。

 

歩隲が来ることで、この2人は一応孫権配下に加わる動きを見せましたが……やはり辺境で勢力を持っているだけあって独立心が強く、なかなか思うように統治が進みません。

 

特に呉巨に関しては動きはかなり不穏であり、場合によっては歩隲を追い出すか殺してしまう可能性すらあったのです。

 

そんな空気を感じ取った歩隲は、あえて呉巨に対して親密に接し、油断を誘発。そしてある時、会見の場に呼び寄せてそのまま斬り捨ててしまったのです。

 

 

歩隲の強固な姿勢を見た交州全土は震え上がり、実質的に交州支配者であった士燮も孫権に正式に帰服。この時からシルクロードを通じた交易路を開放し、呉には珍品が届くようになったと言われています。

 

 

さらにこの威名は隣の益州南部にまで届いており、雍闓らは孫権軍に帰順して当時の主であった劉備(リュウビ)に反旗を翻したのです。

 

 

この功績を以って、歩隲は将軍職を賜り、さらに広信侯(コウシンコウ)の爵位を与えられました。

 

 

 

 

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歩隲帰還

 

 

 

延康元年(220)、歩隲は呂岱(リョタイ)と交代で安定した交州を去ることになり、荊州南部の長沙(チョウサ)に移りました。この時、歩隲を慕ってついてくる者が1万にも上ったとされます。

 

また、当時の荊州は劉備との戦争状態により、そこに居つく異民族も劉備の侵攻を噂に聞いて不穏な空気を醸し出していたのです。

 

 

そこで歩隲は、荊州南部の反乱鎮圧の任を受け、反抗勢力を掃討していきます。後にいう夷陵の戦いの裏で歩隲は反乱の芽を摘んでいき、後に孫権軍が勝利した後もなお反攻を続ける勢力も残らず平定したのです。

 

 

そして黄武2年(223)、歩隲は右将軍(ウショウグン)、左護軍(サゴグン)に就任。同5年(226)には仮節(カセツ:戦犯者の処罰権)が与えられ、漚口(オウコウ)の地へしばらく駐屯することに。

 

 

また、孫権がついに帝に即位すると、歩隲も驃騎将軍(ヒョウキショウグン)・冀州(キシュウ)牧に任命され、陸遜の後を継ぐ形で都督として西の抑えを担当することになったのです。

 

しかしそう長くないうちに、魏を倒した後の領土配分で冀州は蜀の領地と決まり、冀州牧は解任されています。

 

 

また、皇太子である孫登(ソントウ)から「どの地にどんな賢才がいるのかを私はよく知らない。荊州の人材を教えてくれないだろうか」と訊かれると、歩隲はすぐさま荊州で功を上げた人材の名前を箇条書きで指名。

 

それぞれの人物の平時の行動と特徴を書き連ね、古典にある例を挙げて「英雄、賢才を使いこなすことに心を注いでいただければ天下万民の幸福です」と激励の言葉も書き加えて返信したのです。

 

 

この時名前が挙がったのは、諸葛瑾(ショカツキン)・陸遜・朱然(シュゼン)・程普(テイフ)・潘濬(ハンシュン)・裴玄(ハイゲン)・夏侯承(カコウショウ)・衛旌・李粛(リシュク)・周条(シュウジョウ)・石幹(セキカン)ら。正直、聞いたことのある名前とない名前が半々といったところでしょうか。

 

 

その中でひときわ光る名前が、程普。記述のある人物は彼を除いて全員存命中で、また手紙の目的や内容からしても、死んだ人間がノミネートされるのは若干の違和感があります。

 

……つまり、この時程普は生きていた?

続きを読む≫ 2018/07/01 21:02:01
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