呂範 子衡
生没年:?~黄武7年(228)
所属:呉
生まれ:豫州汝南郡細陽県
呂範(リョハン)、字を子衡(シコウ)。どうにも知名度が低く、「誰この人」感が否めない将の一人。
かくいう私も、ここ最近までは名前と軽い概要程度しか知らない人物でしたが、よく見るとまだ帝国でもなかった呉で大司馬(ダイシバ)までのし上がった人なんですね。
大司馬というと、いわば国防長官のさらに上にいる人という立ち位置。ぶっちゃけ、船を流されることと贅沢だけが取り柄の人物には、決してなれない職業なのです。
さて、今回はそんな不明の人物、呂範の伝を追っていきましょう。
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呂範の才覚
呂範は若くして町の役人となりましたが、その立ち位置はあくまで小役人。とても名家や有力者と言えるほどのものではなかったようです。
そんな呂範はある日、良家の大変美しいお嬢様に一目惚れ。すぐに彼女に求婚しに、家まで押し掛けることになりました。
が、劉(リュウ)氏と名乗るその家は、おそらく皇族かそれに連なる血筋。彼女の母親は小役人の呂範程度が生意気だと猛反対する始末。呂範はそんな母親の反応に困り果てていましたが……思わぬところから最大級の援護が飛んできます。
「この男、小役人程度の器ではあるまい」
そう口を開いたのは、なんとお嬢様の父親。彼は呂範を優れた人物だと見抜き、そのまま娘をくれてやったのでした。
さて、嫁取りに大成功した呂範は、奇しくも父親を亡くして亡命してきた孫策(ソンサク)と出会い、才覚を大きく評価されます。
一方の呂範も彼に何かしらシンパシーを感じたようで、孫策から招かれるのを待たずして自分から仕官。食客百人を引き連れて孫策配下に加わりました。
こうして孫策軍となった呂範の最初の任務は、彼の母である呉氏(ゴシ)の呼び寄せ。呂範はさっそく使者として呉氏の元に向かいますが……折悪く周辺を治めていた陶謙(トウケン)に捕捉され、勘違いから捕縛。拷問にかけられてしまいました。
しかし、呂範が囲っていた私兵たちが陶謙の勝手を許さず、なんと彼の元から呂範の身柄を強奪。なんとか逃げおおせることができました。
その後、呂範は孫策の数少ない純粋な配下として行動。共に弱小組織としての苦労を味わいながらも進んでいき、孫策もいつしか呂範に一族同然の信頼を置くようになっていったのです。
江東制覇
さて、後に孫策が庇護者である袁術(エンジュツ)の指示を受けて盧江(ロコウ)を攻撃すると、これに従軍。続けて孫策が自身の独立をかけて江東制覇に乗り出すと、呂範も軍を引き返して随行しました。
そして揚州(ヨウシュウ)のトップに鎮座していた劉繇(リュウヨウ)の武将である、張英(チョウエイ)と于縻(ウビ)を撃破。周辺地域を制圧し、自身はそのまま占領地のトップとしてその地に居座り、孫策の躍進をサポートしたのです。
かくして、孫策はやがて劉繇らを蹴散らし、江東一帯を制覇。呂範は孫策から感謝のしるしとして兵2千と騎馬50を受け取り、宛陵(エンリョウ)県の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)に就任。丹陽(タンヨウ)の不服従民を蹴散らし、後に呉に戻って軍の指揮官である都督(トトク)に任じられました。
建安2年(197)、同じ敵を共にする同盟者の陳瑀(チンウ)が突如孫策を裏切り、敵対勢力の厳白虎(ゲンハクコ)と結んで呉郡(ゴグン)太守を自称。孫策に敵対してきました。
呂範はこの時も、孫策が厳白虎を征討する裏で陳瑀討伐軍を率い、彼と激突。陳瑀配下の軍団長を討ち取る手柄を上げて、陳瑀の勢力を駆逐することに成功します。
その後も呂範は、孫策に従って祖郎(ソロウ)や太史慈(タイシジ)といた敵対勢力の平定に尽力。征虜中郎将(セイリョチュウロウショウ)となり、後にも黄祖(コウソ)への攻撃や不服従民討伐でも軍を率いて活躍しました。
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孫呉の次代
こうして孫策の腹心として活躍をつづけた呂範でしたが、建安5年(200)、その耳に訃報が届きます。
孫策、暗殺者の手にかかり死亡。
呂範は急ぎ葬儀の場に駆けつけると、その地位を継いだ孫権(ソンケン)に引き続き仕えることに。そしてその後、孫権が黄祖討伐のために動いたときは、呂範は留守番役として本拠地の守りに当たっています。
とはいえ、ここで呂範が孫権に服従を誓った形跡は無く、いきなり黄祖討伐時の留守番役として名が挙がっています。つまり、孫権に仕えるのに難色を示したか、あるいは日和見をした可能性もあり。
203年に不服従民を討伐した記述もあり、干されたわけではないようですが……
建安13年(208)に曹操(ソウソウ)が大部隊を率いてくると、呂範は迎撃部隊のひとつとして参陣。いわゆる赤壁の戦いにも、1武将として参加しています。
この時にも呂範は少なからぬ活躍をしたようで、裨将軍(ヒショウグン)、彭沢(ホウタク)太守に就任。彭沢の他にも、柴桑(サイソウ)、歴陽(レキヨウ)も知行所として与えられました。
後、平南将軍(ヘイナンショウグン)となって柴桑に駐屯。建安24年(219)には留守番役としてガラ空きになった本拠を守って建威将軍(ケンイショウグン)となり、宛陵侯、丹陽太守に。
孫権が本拠を移す間、建業を中心とした東の戦線をほとんど丸々呂範に任せたのです。
黄武元年(222)には、魏帝・曹丕(ソウヒ)が呉に対して攻め込める全方位から総攻撃を開始。呂範はこの時前将軍(ゼンショウグン)となって仮節(カセツ:軍令違反者を罰する権限)を受け、1方面の大将として水軍を率い、敵将・曹休(ソウキュウ)の迎撃に当たりました。
が、この時、折悪くも長江では強風が吹き荒れ、呂範ら水軍の船は敵陣側の岸に押し流されたり転覆したりして、数千人の死者が出る大損害を被る事になりました。そのため、呂範は軍を撤退させることにしましたが、諸将の活躍によって巻き返しに成功。揚州牧の任を授かりました。
その後黄武7年(228)には、ついに大司馬にまで上り詰めましたが……すでに呂範の寿命は尽きかけており、大司馬就任の印綬を受け取る前に病死。孫権は兄の代から仕える宿臣の死に涙し、後日墓参りをした時には名前を呼んだっきり言葉が出ないほどだったとか。
長男が早死にしていたため、その後は次男が継ぐことになりましたが……呂範の次男もひとかどの人物で、呂範伝に付伝して活躍が語られています。
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派手好きかつ厳格な人物像
知名度の大半が派手な生活と魏軍相手の敗戦だけで、イマイチ目立たないのがこの呂範という人物ですが……こうしてその事績を追ってみると、やはりかなり優秀な人物であったと言えるでしょう。
格式と伝統を重視する人となりで、特に礼儀や法令を重視していた事が史書でも語られています。
また、結構慎重派な性格でもあったようで、派手好きで身分以上に華美な性格を送る反面、軽薄な行動は控えていたとされていますね。
その性格が伺えるのは、孫策が存命中で、孫権がまだ年若かったころ。
この時の孫権は遊び盛りで好き勝手遊んでおり、呂範にお金をせびるものの、呂範は孫策の許可を常に求めるばかりでお小遣いをほとんどくれませんでした。
そんな孫権がどうしても遊びたい時に取った手段が、公金横領。たまたま話が分かる周谷(シュウコク)なる人物が会計帳簿をつけていましたが、周谷は孫権のためにあえて帳簿を改ざんして手助けをしてやっていました。
さて、そんな孫権が立派に成長し、孫策に代わって呉を治めるようになると……彼が信任したのは、よくしてくれた周谷ではなく、お小遣いをくれないドケチっぷりを披露した呂範。
孫権はガキの頃こそドケチな呂範を嫌っていましたが、国主として信用するなら誰かという話となると、迷わず呂範に軍配を上げ、彼の忠勤と人柄を信任したのでした。
この話は呂範が倹約家ならば美談なのですが……如何せん当の呂範は超贅沢屋。『江表伝』では、似たような傾向のある賀斉(ガセイ)ともどもその豪奢な暮らしを告発されたこともあります。
まあ公私を分けた人物であるとすれば、これはこれでいいのですが……個人的には、自分はよくて他人はダメというふうにも思えてきて内心複雑……
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呂範の智謀
さて、では最後に、呂範の知才に関わる逸話を紹介して終わりにしましょう。
時は建安13年(208)、赤壁の戦いに勝ち、同盟者の劉備(リュウビ)があいさつに来た時の事。
劉備といえば大徳の将軍と言われていますが……それは実は数ある顔のたったひとつ。内心では孫権を出し抜いて自分の戦力を得ようと思っており、そのために孫権を牽制しにやってきたのです。
この事は誰もが気づいてはいましたが……呂範は劉備がせっかく自分から来たという事で、ひとつ孫権に提案。
「この機会に、劉備めを接待漬けにして閉じ込めてしまいましょう」
しかし、孫権は呂範の案を採りませんでした。この時、親劉備派の魯粛(ロシュク)が頑なに劉備を使っての戦略を主張したからです。
……が、後に劉備は孫権と同格になると、その外交環境は一変。孫権はただ劉備にいいように使われただけの形になり、しかも強くなった劉備に対して強固な要求ができなくなってしまったのです。
建安24年(219)劉備に好き勝手され続けていよいよ後がなくなった孫権は、劉備を裏切るという一か八かの手段に出ます。そんな折、孫権は呂範に対してこう口を開いたのです。
「ああ、君の言う通りにしとけば、今頃こんな気苦労はせずに済んだろうに」
これは忠義ともとれる話ですが……『江表伝』には、こんな逸話もあります。
孫策の生前、呂範が都督となる前の話。孫策と碁を打っている時、呂範は唐突に、「私に都督の任をお与えください」と孫策に頭を下げてきました。
「もうお前の身なりは十分立派なものだ。今更都督なんぞになって、こまごました雑務に当たる必要もないだろう」と、孫策。
しかし呂範は「これは妻子や栄光のためではありません」と返し、以下のように力説しました。
「この乱世は一蓮托生。大船に皆で寄り合っているようなものであり、弱い箇所があってよい事はありません。弱点に何かしらの補強を為さないままでは、そこから最後には沈没する憂き目に遭ってしまうのです」
結局孫策はその場でにっこり笑ったまま、何も答えようとしませんでした。
これでは認められることがないと考えた呂範は、退出すると軍服に着替え、勝手に都督を自称。諦めた孫策は、改めて都督の任を授けることにし、かくして軍中は規律と法令によって引き締まる事になったのでした。
于禁(ウキン)や張飛(チョウヒ)のように軍中の引き締め役はどの軍にもいますが、呉では呂範がその役目を背負っていたわけですね。
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