朱桓


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朱桓 休穆

 

 

生没年:光和元年(178)~赤烏2年(239)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡呉県

 

 

 

 

朱桓(シュカン)、字は休穆(キュウボク)。呉の初期を支えた勇将にして、軍の要ともいえる人物の一人ですね。

 

呉は往々にして血気盛んで男伊達を好み、忠義に厚いもののプライドが高い……そんな人物を多く輩出しています。朱桓はその中でもとりわけ……まあなんというか、濃いです。というか率直にヤバい人です。

 

そのプライドの高さたるや、実際に癇癪に巻き込まれた死人が出るほど。でも忠義を尽くすべき主君としたがってくれる兵には優しい。なんとも両極端な人間性が、史書の記述から伺えます。

 

 

今回はそんな朱桓の伝を見ていきましょう。

 

 

 

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孫権ところの名将軍

 

 

朱桓の伝の始まりは、孫権(ソンケン)が将軍として勢力を得た瞬間。ちょうど孫権は兄・孫策(ソンサク)の急死を受けて慌てて次期当主の座についた直後であり、大規模な人材登用や孫権自身の影響力拡大が急がれていた時勢ですね。

 

朱桓は孫権の誘いを受けて、後に名をとどろかせる名将らの一人として仕官。側仕えを経て、やがて余姚(ヨヨウ)県のトップとして幕府の外に赴任していきました。

 

 

朱桓が赴任した時、余姚は大規模な疫病に苦しめられ、農耕者の不足で飢饉状態という危険な状態でした。

 

朱桓はこの惨状を見ると、すぐに医薬品の手配を開始。外部から医療器具の買取を大々的に行うと同時に住民に向けて炊き出しを行い、疫病と飢饉の両方に対処したのです。

 

 

おかげで住民たちの被害は大規模な物にはならず、すっかり朱桓は住民たちの人気を得ていったとか。

 

 

その後、今度は盪寇校尉(トウコウコウイ)として二千の兵を預かる指揮官に任命されます。県の政治家からエリート軍人への転向ですね。

 

こうして軍人としてスタートを切った朱桓の最初の任務は、手持ちの兵力を増強するための募兵活動。異民族の影響力も強い東端の呉(ゴ)、会稽(カイケイ)二郡で散在する兵士を集めて回り、1年かけて軍の規模を1万以上にまで増強します。

 

そして集めた兵を率い、今度は孫権の本拠にもほど近い丹陽(タンヨウ)、鄱陽(ハヨウ)郡の異民族反乱軍を鎮圧。周辺地区を荒らして実際に戦死したり捕虜になった長官も出るほどの大規模反乱でしたが、朱桓はこれらをあっという間に鎮圧、併呑してしまったのです。

 

軍事的才覚がこの戦いで認められ、朱桓は後に卑将軍(ヒショウグン)、新城亭侯(シンジョウテイコウ)として、当時まだ少なかった将軍の席を得ることができたのでした。

 

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魏の名将をボコす者

 

 

 

さて、続けて朱桓が活躍したのは、黄初2年(222)に魏の曹丕(ソウヒ)が呉への大規模遠征を敢行した時です。

 

病死した周泰(シュウタイ)に代わって濡須の前線基地に投入された朱桓の身分は、その戦線の総大将。おそらく、記載されていない裏でいろいろと戦功を重ねたのでしょう。

 

 

さて、この時の相手は、魏が誇る最高峰の名将、曹仁(ソウジン)でした。曹仁は巧みな情報戦で朱桓を圧倒し、迎撃軍を分断。翻弄された朱桓は、わずか5千という兵力で数万の曹仁軍を迎え撃つという状況に陥ってしまったのです。

 

絶望的な状況下で、兵たちもすっかり恐慌状態。しかし朱桓は撤退せず迎撃することを決定。兵たちに以下のように号令しました。

 

 

「勝敗は指揮官の優劣だ。俺は曹仁に劣っていると思うか?兵法にある勝敗は、条件が同じである場合を前提として語られている。
我々は山岳と山々に囲まれた地で、十分な休息を得た上で、行軍で疲弊した軍を相手にするのだ。曹仁ごときでは話にならん!」

 

 

かくして、朱桓はこの難局に意気高く望むこととなりましたが……結果は大勝。弱兵を演じて敵をおびき寄せ、敵を二方向に誘い込んで各個撃破してしまったのです。

 

この時、城とは別にある中州の砦を攻撃した常雕(ジョウチョウ)を討ち取り、さらに敵将王双(オウソウ)を捕縛。曹仁の息子である曹泰(ソウタイ)の陣には火攻めを行ってとやりたい放題の大勝利で、敵軍の犠牲は四桁にも上ったとされています。

 

 

 

また、黄武2年(228)にも、敵大将曹休(ソウキュウ)が偽の投降に騙されて領内に深入りした際にも、陸遜(リクソン)や全琮(ゼンソウ)らと共に出撃。全琮とそれぞれ三万の兵を率いて曹休軍を急襲し大破させています。

 

この時曹休は仕返しに一戦仕掛けようとしますが、それを見た朱桓は、曹休生け捕りの策を提案。

 

「皇族で大任を背負っているというのに、大したものではありませんな。あれならばもう一度戦っても結果が知れていますし、退路も大方予想がつきます。私に一万を預けていただければ、退路を断って奴を捕らえてみせましょう」

 

結局この案は採用されず、曹休は辛うじて逃走するという結果となりましたが……朱桓が大勝利に貢献したのは間違いありません。

 

 

翌年の黄龍元年(229)、呉帝国が建国すると、朱桓は前将軍(ゼンショウグン)に昇格し、仮節(カセツ:戦犯者を独自判断で処罰できる権限)を得、さらには北方の青州(セイシュウ)を治める州牧(シュウボク:1つの州の長官)にまで任命されることになったのです。

 

 

その後も朱桓は、呉の軍事の要として働き続け、その過程で気持が暴走してとんでもない凶行を行ったりもしましたが……まあ、呉、ひいては三国志を代表する名将の一人にふさわしい人物だったことは間違いないでしょう。

 

 

赤烏2年(239)に病気で死去するまで呉の孫権に尽くし続け、病に倒れた際には多くの部下や領民がその死を嘆きました。

 

これほどの高官にもかかわらず家には貯えが全くなかったことから、孫権は国庫から葬式費用を負担したのでした。

 

 

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人物評

 

 

さて、そんな呉有数の名将朱桓の人物評ですが、陳寿はこのように記しています。

 

思いあがって偏狭なところがあったが、勇猛で武勲を良く立てたことで知られ、生を全うした。

 

 

まあ実際の評価は文脈的に前後する部分がありますが、おおよそこんな感じ。同僚や周囲への態度がアレな人物ではあったものの、勇敢で武略に優れ、たとえ劣勢であったとしてもそれを跳ね返す力があった人物です。

 

その威名は敵陣にもよく届いており、撤退中の呉軍に追撃を仕掛けようとした敵将が、殿軍の指揮を執る朱桓の姿を確認しただけで怯えて出撃を取りやめたほどとか。

 

 

さて、では、その内面について、以下にいくつか記していきましょう。

 

 

彼は非常に部下思いで、朱桓の軍勢はプライベートがしっかり保証される、当時では珍しいホワイトな職場だったとされています。補助は手厚く血縁者にまで及び、朱桓自身のポケットマネーから給料が支給されることもしばしばで、葬式費用がなかったのもこういう使い方をしたせいだったのです。

 

また記憶力も抜群で、一度あった人の顔を覚えておくのが特技だったと言われています。

 

この特技を使って、直属の軍政官や兵士の名前も完璧に記憶。数にして一万とされていましたが、彼らとその妻子の顔まできっちり覚えていたのですから、兵士たちも力を尽くすわけです。

 

 

……が、問題点は偏狭な一面もあったこと。

 

これは、史書にも朱桓の性格として以下のように書かれており、部下への聖人ぶりとは打って変わって呉でも問題になっていた事が伺えます。

 

自分の間違いを認めず、人の下につくのが嫌いで、軍中で思い通りにならないとよく癇癪を起した。

 

上司としては最高の聖人ですが、同僚や部下としてはこれほどの危険人物もそういない、なかなか稀有な人物だったようです。

 

その性格を表す話として、史書の”本文”に以下の逸話が載っています。

 

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危険なプライドの塊・朱休穆

 

 

 

朱桓が前将軍なった後のある時。全琮を総大将として魏軍に攻め入った呉軍でしたが、なかなか進展がなく戦いは膠着状態にもつれ込んでいました。この時、総大将は全琮出会ったものの、実際は孫権からの指示を受けた胡綜(コソウ)という人物が取り仕切っていた様子。

 

そんな折、呉軍は膠着状態を打開しようと、別動隊を設けての奇襲作戦を行おうと動きます。

 

 

……が、そんな折、全琮に食って掛かった男がいました。お察しの通り、朱桓です。抗議を行っていた朱桓は、全琮との言い争いの上で完全にヒートアップして、半ば発狂状態に陥ってしまったのです。

 

そんな折、実際にそうだったのか責任転嫁か、全琮は「これは殿の指示を得た胡綜の提案だ」と朱桓に言い返したとか。朱桓が怖くなって逃げたのか、始めは胡綜の名を伏せてたものの感情的になって思わずポロリと出してしまったのかは、史書に書かれていません。

 

 

いよいよブチギレた朱桓は、胡綜をぶっ殺すという発想に至ります。そして胡綜に人をやって、「俺が殺る」と告げて側近に隠れるように命じますが……朱桓が外に出た時、胡綜の姿はどこにもありませんでした。

 

自分の副官が、胡綜に告げ口をした。これでいよいよ怒りの火が爆発した朱桓は、自身の副官をその場で一刀両断。さらに朱桓を諫めに出た副官も叩き斬るという蛮行を働き、気が触れたとしてそのまま都に帰宅、数ヶ月間養生を理由に引きこもったのでした。

 

 

ちなみに孫権は朱桓の才覚を惜しみ、この件を不問。医者をやって精神を落ち着かせるサポートを行い、数か月後に朱桓が現場復帰する際にも激励の言葉を送りました。

 

 

『呉録』では、孫権に杯をささげた朱桓は、孫権に髭を撫でさせてほしいと懇願。孫権は身を乗り出して朱桓に髭を撫でさせてやると、朱桓は「今日、虎の髭を撫でられました」と述べて孫権を大笑いさせています。

 

 

とはいえ、この事件は後世の歴史家も眉をひそめるところ。

 

三国志の注釈に引かれている資料を手掛けた孫盛は、彼を「自由を行う主君でもこれはダメだろうに、部将や宰相ならなおのこと。心のままに人を殺すのと気持を抑えて刑罰を緩めるのでは、どちらが失うところが大きいのか」とまあ、思いっきり否定しています。

 

 

 

 

朱桓の下女は飛頭蛮?

 

 

 

『捜神記』では、朱桓と妖怪の謎の邂逅が描かれています。

 

ある時朱桓は、下女の一人の寝室に侵入。いわゆる夜這いを敢行しました。しかし、見れば寝ているその女、頭から上が無いではありませんか。

 

「おおお俺は殺してないぞ!?」

 

あらぬ疑いをかけられてなるものかと、朱桓は結局夜這いを中止し部屋へと全力で撤退。翌日には首無しで死んでいたはずの下女が部屋へとお湯を運んできたため、、「あれは夢なんだ!」と無理矢理納得することにしました。

 

 

しかし後日、今度は家でボヤ騒ぎが発生。みんな集まって慌てふためく中、例の下女は一人だけ遅れてその場にたどり着いたのです。

 

……が、その下女、なんと首なしの自分の胴体をかつぎ、耳を羽のようにパタパタとはばたかせながら迫ってくるではありませんか。そしてゆっくりとその場に降り立つと、頭は胴体にパイルダーオン。何事もなかったかのように下女は目を覚ましたのです。

 

 

その下女、いわゆる飛頭蛮という妖怪で、人里に密かに紛れ込んでいたのです。

 

朱桓はこの事を誰にも口に出しませんでしたが、さすがにちょっと怖くなったのでその下女は解雇。以後、飛頭蛮の姿を見る事はありませんでした。

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 7巻

 

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