全琮 子璜


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全琮 子璜

 

 

生没年:建安3年(198)?~赤烏12年(249)?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡銭唐県

 

 

勝手に私的能力評

 

人物伝・呉書 全琮 隠れた名将 陸遜 二宮の変 悪人 善人 事なかれ主義? 名将 重鎮

統率 S- 魏との戦での戦功は計り知れず、呉でも屈指の名将といって差し支えない。まあ、二宮の変のせいでその評価も否定されることが多いが。
武力 B+ 陳寿曰く、勇気と胆力を秘めていた。実際に前線指揮官としても普通に大活躍している。
知力 A- 龐統曰く「頭が悪い」とのことだが、戦いにおける計略は一級品だろう。ただし、保身や処世は残念の一言だったようだ。
政治 B 政治の話はあまり聞かないが、少なくとも後手に回った状態から陸遜を憤死させるくらいの政戦能力はある。
人望 C+ まさに当時屈指の、知勇兼備の名将。しかし二宮の変でやむを得ずとはいえ孫覇側についたこと、嫁がよりによってあの孫魯班であることから、悪の元凶、ひいては無能の烙印を押されることも……

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全琮(ゼンソウ)、字は子璜(シコウ)。死後子供が魏に降伏したり、本人も悪女の代表格として知られる孫魯班(ソンロハン)を娶ったり、二宮の変では後世ヒーローとして人気を博す陸遜(リクソン)と対立したりなど……

 

正義と悪という構図が明確に書き分けられた現代の書物においては悪役に当てはまる人物になってしまった人ですね。

 

 

当然、歴史を語る場面や創作においては、モブ役か陰険なクズ役かの二択に分類される彼ですが、正史を見るとその評価がどれだけ悪意に曝されているものだったかがわかります。

 

 

今回は、そんな悪役の宿命を背負った全琮の伝を見ていきます。

 

 

 

 

 

 

二宮の変での全琮の動き

 

 

さて、ここは全琮伝ではスルーされている部分ですが……少し二宮の変と呼ばれる孫権の後継者争いでの全琮の動きを見てみましょう。

 

 

まず、この争いは孫権の嫡男である孫登(ソントウ)が早死にしたことに端を発しています。

 

 

陸遜、顧譚(コタン)といった土着名士を中心とした面々が孫和(ソンワ/ソンカ)を支持していました。

 

それに対し、全琮は揚州以外出身の外様名士が中心となった孫覇(ソンハ)一派を率いていたのです。

 

 

 

 

とはいえ、全琮も初めはどちらにも与せず、争いを避けるように考えていたことが陸遜伝で語られています。

 

というのも、後継者争いの前触れとして、宮中や周辺の臣下たちが、孫和、あるいは孫覇に対して忠誠を誓い、一族の者を送り込んでいたのです。

 

 

全琮はそんな事態を憂慮して、荊州の陸遜に手紙で相談を持ち掛けますが……その時に返って来た返事が以下の通り。

 

 

「あんたの息子が悪い。息子殺さなきゃあんたの家は滅ぶよ」

 

 

陸遜……。まあ実際に息子の全奇は孫覇派として暗躍しており、この言ってることは後々的中するわけですが……そもそも陸遜は名門の出。相談するにしても、全琮とはスタンスが違い、すでに孫和派の人物だったのです。

 

 

これに何かが吹っ切れたのか、全琮は先述の通り孫覇派のトップリーダーとして行動。

 

恩賞をほとんど出さないなどの嫌がらせを受けたことを口実に、孫和派の顧譚らについて讒言を行い、流罪に処するなど、いつしか全琮は骨肉の争いの中心で活動するようになっていました。

 

 

その後、陸遜を憤死させるなど政争には勝利しますが、全琮の死後に状況は一変。

 

この争いは孫和孫覇の両成敗という形で決着がつきましたが、なおも続く名士層の血みどろの抗争の中で、陸遜の息子である陸抗(リクコウ)が、父・陸遜の名誉回復に成功。

 

その後もドロドロの処刑、讒言祭りが続く中、全琮の息子たちは最終的には敵地に取り残されて孤立する形となり、まさかの魏への降伏という形で全氏の争いは決着。

 

 

敵対した陸遜が英雄視されたことと、息子たちの暴走という二つの悪条件が重なり、全琮の評価は地に落ちてしまったと言っても過言ではないでしょう。すごい人なのに……

 

 

 

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人知勇を兼ね備えた逸材だが……?

 

 

 

……とまあこういう悪役の親玉みたいに言われる全琮。その性格もさぞや悪いものだろうと思われることが多いですが……実はかなりの善人

 

 

陳寿の評には、

 

慎み深く素直な性格。相手の気持ちを汲み取りながら意見し、反対意見を述べるときも相手を罵倒することは決してなかった。

 

重役でありながらも驕った態度とは無縁で、謙虚な姿勢を貫いた

 

 

とあります。要するに、謙虚で素直。至って善良で、讒言や誹謗中傷とは縁のないはずだった人物であることが伺えます。

 

 

 

裴松之も別伝では「こんな悪人について語ることなどない」とバッサリ言っちゃってますが……評価の分かれる「商売用の米を勝手に恵んだ」という一件では、「全琮ごとき小物が善意などで動くわけがない。きっと名声欲しさだ」という言葉に対しては

 

確かに親の所有物を無断で配るのは人道上問題があるだろう。

 

しかし、許可を待つほどの時間がない状況下で即座に人命を優先させたのは褒められてしかるべき行動だ。これが名声のためのコスっからい考えだと断言するのは、彼の本意から逸れた意見ではないだろうか

 

とも述べています。

 

 

また、『呉書』にも彼の人格に対して追求した一面があり、

 

勇気と決断力を備えていた。

 

敵と当たるときは我が身を考えず突撃するが、総指揮にもなると一転して冷静、慎重に行動して万全を期し、小さな利益に釣られるようなことはなかった

 

とされていますね。

 

 

 

しかし、どうも同時に八方美人でもあったようで、少し身の振り方や保身、面子といった部分に極端に疎いというか……相手の事を考えられても自分のことが考えきれず、その結果不幸を招き寄せた節もあります。

 

その最たる例が、やはり二宮の変での一連の動きと見ていいでしょう。

 

 

よりによって、実力は文句なしとはいえ息子の敵対者である陸遜に助けを求め、その結果自身が争いの渦中に飛び込む羽目になったのも、保身の才が重臣にしては欠けすぎていたのが原因と言えるでしょう。

 

 

他にも、『朱桓伝』では、極端にプライドの高い朱桓が作戦行動をめぐってブチギレした時に、全琮は弁明として「孫権様のご指示を胡綜(コソウ)が伝言してきた。その内容があの作戦だ」と述べたため、朱桓は暴走して胡綜を殺しに行き、彼をかばった側近と行動を諫めた副官を斬り殺す大惨事となったこともあります。

 

 

このように、全琮は機略や智謀にこそ優れていても、自らに押し寄せる不幸や災厄に対する危機管理能力が欠けていたと言えるかもしれません。

 

 

その結果に、彼と友人になった龐統は、彼をこう評しています。

 

 

全琮はまさに時代を象徴する英傑の一人。施しを好んで名声を敬う一大人物だが、知力はそこまで高くない

 

 

こうして保身能力やその場での事態収拾能力といった観点で見てみると、龐統のこの評価は言い得て妙と言えるかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/01/03 14:09:03

 

 

 

 

 

善人全琮

 

 

全琮の一家は、父親が元政府官僚という事もあり、裕福な豪族の出でした。父親は孫策(ソンサク)が江東平定に乗り出すと真っ先に彼に仕え、以後の全家は、孫一派の庇護の元で安寧を得ることに成功したのです。

 

 

さて、そんな家に生まれた全琮。ある時、父親から指示され、米を売り払って別のものを買ってくるという取引の任務を与えられました。

 

 

しかし全琮はどういうわけか、行くときに大量にあった米も買ってくるように頼んだ物も持たないまま、完全に文無しの状態で帰ってきたのです。

 

 

 

当然、父親は立腹。散々怒鳴り散らされる羽目になったのですが……実は事情がありました。

 

 

この時、全琮が取引に行った街では飢饉が起こっており、そのため米の値段も高騰し、名士も民も飢えに苦しんでいたのです。

 

それを見かねた全琮は、取引用の米をすべて町に寄付。速い話が、仕事を放り投げて町ひとつを救っていたのです。

 

 

 

まあこの行動を損得を無視して仁者の道を進んだ善行と見るか職務放棄の悪行と見るかは人によってマチマチですが……ともあれ、後でこれを聞いた父親は、全琮の非凡さを改めて認識。我が子の将来を楽しみにしたとか。

 

 

その後も、全琮は自分を頼って戦乱から逃げてきた名士たちを、家財を傾けて援助。最終的に全琮を頼って来た名士一家は、実に数百世帯にも及んだと言われています。

 

こういった慈善活動もあり、全琮の名声はうなぎ上りだったそうです。

 

 

 

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孫権軍のエース格

 

 

さて、その後孫権(ソンケン)によって校尉に任じられた全琮は、数千の兵を預けられて、呉の南を荒らしまわる山越(サンエツ)の異民族討伐に加わり、功績を上げます。

 

そして大々的な募兵を行い、屈強な兵士1万を余りを集め、その後は対曹操(ソウソウ)の前線基地の一つにもなる牛渚(ギュウショ)に駐屯。それからしばらくは史書に名を出していませんが、その間に偏将軍(ヘンショウグン)にまで位を上げています。

 

 

 

建安24年(219)、同盟勢力の将でありながら水面下で敵対していた関羽(カンウ)が北に軍を向けると、全琮はその機会に関羽を背後から攻撃するよう画策し、孫権に献策します。

 

この時は計画が外部に漏れるのを恐れた孫権は全琮の意見を無視することにしましたが……後々、孫権は満を持して関羽討伐に乗り出し、見事に捕縛、処刑に成功します。

 

 

これによって西方の厄介事が一つ片付い孫権はそのまま祝宴を執り行いますが、その場で全琮は孫権に呼び出され、「今回の成功はお前の献策に依るところも大きい」と全琮の働きを喜び、陽華亭侯(ヨウカテイコウ)の爵位に封じられることとなりました。

 

 

 

黄武元年(222年)に魏の曹丕(ソウヒ)が大攻勢を仕掛けてきた時も、全琮は一軍を率いて参戦。

 

敵軍の略奪に対し常に警戒を怠らず、焦れた敵が数千の軍勢を動かしたのを見極めて先行した軍に攻撃を加え、敵将を討ち取る大手柄を上げることに成功したのです。

 

 

これには孫権もホクホクで、改めて綏南将軍(スイナンショウグン)に昇進。爵位も上がり、銭唐候(セントウコウ)として生まれの地に土地を与えられました。

 

 

こういった活躍もあって、黄武4年(225)には違反者の処罰権限である仮節を与えられ、九江(キュウコウ)太守に任じられ、黄武7年(228)には陸遜や朱桓(シュカン)らと合同して魏軍の曹休(ソウキュウ)を撃破。完勝に近い形で勝利したのです。

 

 

 

この頃、しばらくおとなしかった山越の不服従民が孫権の背後で再び反乱軍を結成。

 

全琮は山越が暴動を起こしている郡に赴任、反乱鎮圧の任務を授かりました。

 

 

さて、こうして鎮圧を任された全琮ですが、ここでの彼は武力行使の類は行いませんでした。

 

 

「反乱は、先行きが不安だから起こるのではないか」

 

そう考えた全琮は、まず郡内の賞罰を明確にし、政治体制の透明化に着手。それが終わった後に、今度は大々的に宣伝工作を行い、反逆者たちの心の不安を取り除くことで再び指揮下に取り入れようと目論んだのです。

 

 

して、その目論見は大成功。賞罰が明確化し、宣伝によって良い噂が広まったことにより、不服従民は次々と帰順。数年の間に1万人余りの住民を支配下に加えることに成功しました。

 

 

孫権は全琮による暴徒鎮静化の報告を大いに喜び、再び彼を牛渚に駐屯させ、衛将軍(エイショウグン)、左護軍(サゴグン)となり、さらに徐州(ジョシュウ)牧として、魏軍を北に追いやった後にはその領土である徐州を任地にする旨を約束したのです。

 

 

 

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重鎮として

 

 

今は形だけとはいえ徐州牧となった全琮の信望は、この頃すでに並み居る重臣の中でもかなり上位……孫権からの信頼も張昭(チョウショウ)や劉基(リュウキ)といった側近と同等程度だったようです。

 

その証拠に、徐州牧就任と共に、孫権の娘である孫魯班を娶った辺り、孫権がどれだけ全琮を手元に置きたかったかがわかります。

 

 

黄龍2年(230)年、孫権は夷州(イシュウ:台湾……らしい)と珠崖(シュガイ:現在の海南省)の土地を占拠、配下に組み込もうと考えました。

 

孫権はこの計画を前もって全琮に相談しますが、全琮はこれに反対。

 

 

「確かに、占拠すること自体は難しくないでしょう。しかし、あの土地は海を隔てた向こう側。文化も違えば、異文化は時に毒となります。疫病によって損害を受けることは想像に難くありません。益を得られる確率は、おそらく万分の一でしょう」

 

 

しかし孫権は、全琮の意見を受け入れず遠征軍を発令。異国の地に軍を差し向けてそれぞれの地を占領することに成功しましたが、全琮の懸念通り疫病が蔓延。結局、戻ってこれた兵は多くて2割。ほとんどの兵士が亡くなり、孫権もこの行動を後悔する結果となったのです。

 

後にこの話を孫権が振ると、全琮は「あの場でおべっかを使うのは逆に不忠であると判断しました」と述べたとか。

 

 

 

 

さて、少し飛びまして嘉禾2年(233)。全琮は総兵力5万の兵を引き連れ、敵地である六安(リクアン)の地を訪れました。この時、「敵の大軍が来た」という事で六安の民たちは皆逃げ散り、どこかに行ってしまったのです。

 

全琮配下の将たちは、すぐに逃げた住民を負って確保すべきだと進言しましたが、全琮は首を縦に振らず、「ここで追いかけても大した利益になるまい。それどころか、迂闊に動けば危険にもつながる。ここで行動しなかったことから罰を受けることになっても、国益を損なうことはできんよ」と答え、結局人民を捕虜にすることはしなかったのです。

 

 

 

赤烏4年(241)には大都督に就任し、魏への侵攻に参加。二方面からの大規模攻撃で、全琮も一方の侵攻軍の総大将としてこの戦いに臨みました。

 

しかしこの時は蜀からの協力は得られず、呉単体での攻撃となり、苦戦を強いられます。

 

 

全琮の軍も序盤こそ水攻めで敵を撃破し、兵糧庫も焼き払って捕虜を得る等善戦しましたが、魏軍が万全の状態に近づくにつれ劣勢に追い込まれます。

 

最終的には会戦によって中郎将の秦晃(シンコウ)が戦死するなど追い込まれ、結局撤退を断念しました。

 

 

 

後々、赤烏9年(246)には右軍司馬、左軍師に就任。が、同12年に全琮は死去。後は息子の全懌(ゼンエキ)が継ぐことになりました。

 

 

 

   【全琮伝1】有能善良なハイパー武将   【全琮伝1】有能善良なハイパー武将

続きを読む≫ 2017/11/29 11:22:29
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