朱然 義封
生没年:光和5年(182)~赤烏12年(249)
所属:呉
生まれ:揚州丹陽郡故鄣県
勝手に私的能力評
統率 | A+ | やはり一流の将軍で、兵の心をがっちり掴んだ。防戦やピンチの時の爆発力は圧倒的だが、攻めに関してはどうにも……。一応、一通りはこなせたはず。 |
武力 | A | 江陵防衛の時は死ぬしかないくらいの劣勢の中、魏の陣営を二つ陥落させた。陣が軽く百はありそうなことを考慮するとショボい戦果だが、そもそも状況が状況だけに陥陣営もかくやという武勇伝。 |
知力 | B | 夷陵における対劉備慎重策、孫権から意見を求められるなど、知勇兼備の人物だったと言って良いだろう。 |
政治 | C | 政治でどうしたという話は聞かないが、呂壱事件後の孫権が彼にも意見を求めた。一定の統治能力や大局眼は持ち合わせていたのだろう。 |
人望 | A | 学友、所属派閥無しという稀有な存在で、孫権から重宝された。どの派閥にも顔が利く無所属というのは、何気に呉の中ではかなりレアな人物。 |
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朱然(シュゼン)、字は義封(ギホウ)。孫権(ソンケン)の学友でマブダチ。そして防衛線で神がかり的な活躍を見せるというトンデモ武将の一人なのですが……どうにも影が薄い人物です。
基本的にはその他大勢のちょっと目立つ人。雑魚に少し毛が生えた程度のヘボ武将として長い間知られてきたという不遇の時期を味わっており、現代でも注目されるたびに「こんな雑魚を……」と呼ばれる事もたまーにあるくらい、知名度と人気がかみ合わない悲しい光景も……
しかし、最近では少しずつ風向きが変わりつつある朱然。今回はそんな彼の事績を、列伝から追っていきましょう。
実は呂蒙の後継者!?
朱然は元々は施(シ)という家の子でしたが、母方の兄弟は孫家古参の名士である朱治(シュチ)。彼は自らの跡継ぎがおらず困っていましたが、おそらく何か見どころがあったのでしょう。まだ十三歳の施然を後継ぎにすえることに決定します。
朱治はそのまま孫策に話を通して施然を呼び寄せてもらい、君主ともども厚い礼をもって出迎え、そのまま孫策主導の下で養子縁組を行って、施然は以後、朱然と名乗るようになったのです。
また、孫策の弟とである孫権(ソンケン)とは、机を並べて勉学に励んだ仲でもあります。そんな朱然がいたことは孫権にとっては心強かったようで、孫策死後の動乱の中で朱然をそのまま起用。
十九歳の若さでいくつかの県の長を歴任し、最終的には折衝校尉(セッショウコウイ)という役職と共に5つの県を丸々面倒見る立場へと昇進。後年さらに昇進し、今度は新しく設立した郡の太守として、最終的に二千の兵を率いる立場にまでなったのでした。
さて、呉と言えば不服従民である山越との問題に苦しめられ、終始その対応に追われている側面がありました。一郡を預かる太守となった朱然もとうとう山越討伐の仕事を担うことになりましたが……なんと、朱然は軍を出動させると、この反乱を一ヶ月ほどで平定。
この事で軍事能力を買われた朱然は、後に曹操(ソウソウ)が濡須(ジュシュ)に進軍した際には要地の守備を任され、そのまま偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。さらに建安24年(219)の関羽(カンウ)討伐にて潘璋(ハンショウ)と共に別動隊を率い、関羽を捕らえる役割を担う活躍を見せました。
この功績により、朱然はさらに昭武将軍(ショウブショウグン)に昇格し、呉の大黒柱である呂蒙(リョモウ)からは、「私の後は朱然が適任です」と推され、荊州部隊の本拠地である江陵(コウリョウ)の兵を預かる立場にまでなったのでした。
防戦の鬼
ほどなくして、蜀の劉備(リュウビ)が呉に対して荊州失陥の報復を開始。全軍を率いて荊州へとなだれ込んだ蜀軍に領内深くへと入り込まれ、後に夷陵の戦いと呼ばれる一大決戦の様相を呈しました。
朱然も五千の兵を率いてこの戦いに参加。敵軍との長期間のにらみ合いを経て、ついに反撃の機会を得ます。好機と見た総大将・陸遜(リクソン)は反撃ののろしを上げ、朱然も別動隊を率いて出撃。先鋒部隊を打ち破った後、劉備の退路を遮断してそのまま大勝を上げまたのです。
なお、この後に逃げた劉備を追うかどうかで軍議が行われましたが、朱然は敵軍の接近を察知して、追撃には反対を唱えました。
結局は朱然の献策が取り上げられてそのまま呉軍は撤退することになりますが……この時の朱然の判断は正解だったようで、後に魏軍は総攻撃を仕掛けて呉領内の各地に侵攻。朱然が守る江陵にも、主力級の部将が大勢率いる大軍が押し寄せてきたのです。
魏軍は数万の兵を率いて朱然のいる江陵を包囲、何重にも陣を重ねて退路を遮断してしまい、さらには頼みの援軍すらも精強な魏軍を前に敗走してしまいます。
おまけに、タイミング悪く疫病の発生により戦える兵が五千ほどにまで激減し、もはや江陵を守り切るのが絶望的な状況になってしまったのでした。当然、敵はそんな状況の朱然軍を本気で壊滅させるため、毎日のように大量の矢を討ちかけて地下道も掘り進め、あの手この手を使って総攻撃を仕掛けてきます。
が、朱然はその様相を見ても顔色一つ変えずに兵たちを激励。さらに隙を伺って逆に打って出てみせ、敵陣を2つ陥落させるなど逆に魏軍を押し返さんと奮戦します。
また、包囲の末に食料が尽きかけて内通者が出ても、その内通者を探し出して処刑して軍の総崩れを阻止。結局包囲は半年以上続けられましたが、ついに敵軍はあきらめて撤退していき、この絶望的状況を耐え抜いてみせたのです。
また黄武6年(227)に孫権自らの指揮で魏軍を攻めた時も、朱然は参陣。結局攻撃は失敗に終わりましたが、敵の追撃に苦戦する友軍を救援して自らは悠然と撤退し、その力を存分に見せつけています。
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呉の重鎮
黄龍元年(229)に呉が建立されると、朱然は将軍位として最上位クラスの車騎将軍(シャキショウグン)に昇進。さらに右護軍(ウゴグン:護軍は軍団の監督役で、右は左より上位)と兗州(エンシュウ)牧の地位になりますが、兗州牧は「魏を滅ぼしたら兗州は蜀の領土」との取り決めがなされたために解任。
嘉禾3年(234)には蜀との連携によって孫権自ら魏の合肥(ガッピ)に攻め込み、朱然は全琮(ゼンソウ)と共に軍の指揮を任されたのですが……この時運悪く疫病が軍中で発生し、結局は総攻撃の前に撤退という残念な結果に終わっています。
赤烏5年(242)、朱然は再び魏を攻めますが、この時には全軍が散開した隙に魏軍に襲われ、しかも少数兵力のまま退路を断たれるという危地に立たされました。
この時の朱然の戦力は旗本の八百のみで、敵軍は数千。散っている軍を呼び戻す余裕もないという危険な状況でしたが……朱然は旗本を指揮して反転すると、背後から迫る敵軍数千に突貫、これを撃退して敵軍の作戦を打ち破ったのでした。
結局この戦いには撤退しますが……朱然らしい底力が発揮された戦いではないでしょうか。
赤烏8年(245)には敵からの投降者・馬茂(バボウ)によって孫権暗殺計画が行われました。この計画は発覚して未遂に終わったのですが……これに怒った孫権のため、朱然は翌年、意気揚々と報復に出陣。
この時にはまたしても敵軍に背後を取られて撤退ができなくなりますが、朱然は逆に夜襲を仕掛けて敵軍を撃破。これで報復がなされたと撤退していき、喜んだ孫権から左大司馬(サダイシバ)・右軍師(ウグンシ)の官職が与えられることになりました。
このように武働きで孫権を支えた重臣・朱然でしたが、赤烏10年(247)に病を発し、二年に及ぶ長い闘病生活の末に永眠。68歳でした。
孫権は朱然の闘病中には食事も睡眠も平時よりも少なくなり、心配すぎるあまり衣料品を大量に届けてその病状を逐一観察。葬儀においても心を込めて朱然を送り出し、かつての学友の死を悼みました。
朱然に対する孫権の心遣いは、孫権に最も信頼された呂蒙や凌統(リョウトウ)に次ぐものだったとされています。
人物像
朱然は170cmには及ばない小柄な体格でしたが、からっとした気持ちの良い性格だったと言われています。
陣頭で指揮を執って平時でも兵をきちんと統率し、その陣容は変幻自在で敵を惑わすことばかり。また冷静沈着で不測の事態にも動揺することがなかったのだから、動けば手柄を立てるのは当然だとまで本文で言及されています。
生活も慎ましやかで、ゴテゴテに飾るのは軍事に関係する物のみ。私物はすべて質素で、生活態度も品行方正で清潔。そのため、他の二世たちの統率者としての役割も担っていたのです。
そんな朱然を、三国志を編纂した陳寿は以下のように評しています。
朱桓と共に、勇猛で知られていた。
江陵の防衛があるのだから当然でしょうが……やはり朱然の勇名は、魏にも広く伝わっていたようですね。そんな自分をアピールして敵を脅かすために、軍器だけは派手にしたのでしょうか。
ちなみにこの人は名刺を持っていたことが明らかになっており、1984年に墓が見つかった際に多数の副葬品と共に出土。現在では世界最古の名刺として記録され、他の副葬品ともども、三国時代の様式を知るための貴重な資料になっているとか。
現在は朱然の墓の周りはきれいに整備され、博物館の一部として一般公開されているそうな。
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孫権と朱然
上でも何度か記述しましたが、孫権と朱然は大事な学友。それだけに、孫権から朱然への思いも大きかったように見えます。
どの主君にも言えることですが……特に孫権は名士たちの御輿という立場に近く、お互い頼もしい主従であると同時に、牽制し合う仲でもあった事でしょう。
死に際の孫権の待遇格差は、呂蒙、凌統、そしてそれらに次いで朱然といった具合になっていますが、彼らはいずれも、名士派閥の影響が少ない人物。
中でも凌統は孫権の優れた護衛、武人として個人的な敬愛を向けたのでしょうが……呂蒙や朱然は、それと同時にある程度名士らにも顔が利く人物でもあります。
だからこそ、油断ならない君主という立場からすると、こういったしがらみに無関係どころか頼りになる人物。そして早死にしてしまった呂蒙と違って長く自分を支えてくれた朱然には、やはり並々ならぬ感情があったのでしょう。……無論、ただの憶測ですが。
この友情は、呂壱(リョイツ)という酷吏を孫権が信用しきったことで一度ひびが入っていますが、その後を考えると、どうにも持ち直した模様。後年の朱然の働きを見ると、やはり完全に見捨ててしまったとは言い切れないところがあります。
油断ならないものの頼りになる陸遜が亡くなり呉の黎明期を支えた名臣たちも残りわずかになった時、孫権の朱然に対する計らいは以前にも増したものになってきます。
そんな朱然が亡くなった時、孫権が強く悲しんだのは先述した通り。やはり親友であり頼りになる同志に先立たれるのは、歳を取って老成した孫権であってもかなり堪えたのかもしれませんね。
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