【王朗伝2】慈愛溢れる義憤の人


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【王朗伝2】慈愛溢れる義憤の人

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

どうにも簒奪者、あくどい人間、凡人という評価が定着してしまっている王朗ですが、正史では魏を代表する政治家として、その政治力と内面を大きく評価されます。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、王朗を以下のように評しています。

 

 

 

文才学識が豊かで、鍾繇や華歆と並んで一代の英傑であった。

 

 

また儒家らしく人道や道徳に基づいた考えや方策を好み、法務の重役である大理を務めた時には、罪状に疑問があれば軽いほうの罰を選んだとされています。

 

 

『魏書』ではその辺をもう少し突っ込んだ評価がされており、以下のような人物評があてがわれていますね。

 

 

見事な才覚と学識を持っていたが、その態度は謹厳実直で品行方正。婚姻の際にも親戚からの祝いの贈り物を受け取らなかった。

 

また恵み深くも憤慨家としても知られており、世間の中で評価が高いのに貧者を憐れまない者を堂々と非難していた。そして自身の財産から施しを行う際も、特に困窮している者を優先的に補助した。

 

 

どうにも政治家としても一流ですが、それよりも道徳家や人道家といった面が強い人物のように見受けられます。なんだかんだ健全な政治の世界では、ある程度の善良さは欠かせない資質のひとつになってくるのでしょうね……。

 

 

 

さて、ここからは王朗のちょっと面白い話。

 

 

 

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適切な態度は難しい

 

 

 

まずは『魏略』からの出展。

 

曹操はある時王朗に対して、「会稽にいた時は米をかなり節約してたようだな。俺にはとても真似できん」とからかい半分にちょっかいを出しました。
しかし王朗は曹操に対し怒るでもなく、「ほどよい態度でいることは難しいな……」と意味深にぼやいて嘆息したのです。

 

 

真意を測りかねた曹操は、思わず「え、何?」と訊き返してきたので、王朗はその後に言葉をつづけました。

 

 

「いやなに。あの時の私めは、すべきでもないのにわざわざ贅沢を禁じて倹約に努めました。対して今日の殿の態度は、節約すべき時にしていないとでも申しましょうか」

 

 

その後の顛末は書かれていませんが、余計なちょっかいを出してカウンターを食らった形になった曹操は、いったいどんな顔をしたのか……。

 

 

 

また、後に孫権曹操と和睦、臣従して大量の贈り物を届けてきた時に、曹操は王朗に手紙について質問しました。この時に王朗は以下のように受け応えたのです。

 

孫権はこれまでの敵対行為をうまく言い逃れし、膝を屈して二心を抱かぬと申しておりますな。真情は文辞にあらわれ、効験は勲功に示されます。呉はこれから魏に支配されるでしょう。揚州の呉勢力都市を陥落させれば荊州、そして益州への道が開かれます。これで天下の趨勢は決まり、慶事は続くでしょう。聖旨を賜った時には、手を打ち拍子を取りました。心にたまっていたことを言葉に出来なかったものですからな」

 

 

 

 

 

王朗ネットワークと諸葛亮

 

 

 

当時の儒学者は各々の間でネットワークを構築しており、勢力間を超えて広い交友を持っている者も中にはいました。

 

王朗もその中の一人で、呉の重臣で同じ徐州の出身者である張昭(チョウショウ)や人物評論家の従弟で各地を放浪した許靖(キョセイ)らとも手紙のやり取りをすることがありました。

 

 

特に許靖との手紙の逸話はなかなか涙を誘うもので……王朗は劉備の死を知り、近辺報告と共に蜀の降伏を勧める手紙を送った者の返事は返ってくる様子も無し。

 

何故かと思った王朗でしたが、実は許靖は手紙が着いた頃には亡くなっていたというもの。

 

 

あくまで職務上の降伏勧告がメインの手紙でしたが……旧友が死んで手紙が一方通行になっていたと知った王朗は、果たして何を思ったでしょうか。

 

 

 

 

さて、そして一方の諸葛亮との話題ですが、これは『諸葛亮集』にあります。

 

王朗はある時、他の魏の重臣と共に、諸葛亮に降伏勧告の手紙を送りました。

 

 

しかし、諸葛亮はこれを無視し、一切返事を書かず。それどころか劉禅(リュウゼン)に上奏して書いた『後出師表』にて、「王朗らは外敵に対して戦おうとしないクソ雑魚だから孫策に負け、今は孫呉が鎮座することになっているのです」とモロにディスってます。

 

 

何というか憐れ

 

 

ちなみにこのネタは三国志演義にてアレンジして拾われ、王朗は口からザラキ諸葛亮と戦場で舌戦を繰り広げ、国賊と罵られて怒りのあまり亡くなったことになっており、何とも哀愁を誘う展開に……。

 

 

 

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王朗、実は嫌われ者?

 

 

 

徳者と名高い王朗ですが、『世説新語』では同じ列伝に並べられた華歆の咬ませ役として、一人の男を助けた逸話に登場します。

 

 

華歆は王朗らと共に江東から逃げている時、たまたま出会った旅の男は「あなたたちと旅をさせてくれ」と懇願した。

 

華歆だけは「旅は道連れというが、見知らぬ男と運命共同体になれるとは思えん。後で何かあったら見捨てる羽目になるだろうし、いっそ断ったほうが……」と渋ったものの、王朗らは「まあまあ、良いじゃないか」と乗り気で男を旅の列に加え、ともに出立しました。

 

 

しかし少し後になって、その旅の男は井戸に落ちてしまったのだ。

 

王朗らはそれを見捨てて去ろうとしたものの、華歆は「運命共同体とはこういうものだ。一度一団に加えた以上、見捨てるなど道義が許すまい」と言い捨てると、男を救い出してやった。

 

この話によって、世の人は華歆と王朗の優劣を決定づけたのである。

 

 

ちなみにこの話は世説新語よりも前に出来た華歆の子孫による家伝に載っているのですが、そちらでの話は江東ではなく、董卓の暴政によって苦しんでいる都から逃げ出したとき。

 

さらに言えば、華歆と行動を共にしていた面々は名前すら明らかになっていないのです。

 

つまるところ、王朗は話の改竄により、ほぼ深い理由も無しに風評被害を受けたというわけですね。

 

 

華歆を賞賛する踏み台としてちょうどよかったから引っ張られたのか、それとも王朗が宋の時代ではすでに嫌われていた証左なのか……

 

 

 

 

 

 

王朗の徳行論

 

 

 

さて、最後に……王朗のスタンスというか、性格がよく表れている言い分が史書に丸々残ってたようなので、それを流用して王朗伝の解説を終わらせていただきます。

 

 

これは、曹丕曹操の後を継いだ際、王朗が曹丕に対して上奏した文章ですね。

 

嫌われようがボンクラ呼ばわりされようが、王朗が徳者と呼べる人物だったことの表れになるのではないでしょうか。

 

 

「戦乱の始まりより30年以上。未だに乱は収まらず国も民も疲れています。先代様は賊どもを一掃し身寄りのないものに慈愛を与え、ようやく規律が整いました。

 

しかし、まだ遠方には、我々に敵する者らが残っております。

 

そこで、もしも免除などの善政で民をなつかせ、良き行政官が恩恵を施し、東西の畔が整って全土が隆盛になれば、必ず平時より国は豊かになります。

 

 

易は『法をととのう』、尚書は『刑をよく用いる』『一人の善に民が頼る』等と言いますが、刑罰裁判を慎重に行うという意味です。

 

真実を掴めば冤罪で死ぬ者無く、大黒柱が土地の生産力を最大限扱えば飢饉は起こらず、貧窮者や老人が食料支給を受ければ餓死者は出ず、結婚が時機通りに行われれば世を恨む独身者はおらず、胎児の養育が約束されれば身ごもった者も安心でき、労役に育児休暇があれば子が育たぬ事は無く、労役を成人後に限定すれば未成年が家を離れることはなく、半白の者に戦をさせなければ行き倒れの老人はおりません。

 

温情と仁愛によって弱者を救い、福利政策で貧者を助けます。

 

そうすれば10年後に若者があふれる街になり、20年後に必勝の兵士が野に満ちるのです」

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