【王朗伝1】激動の大臣


このエントリーをはてなブックマークに追加

【王朗伝1】激動の大臣

 

 

 

 

 

徐州の俊英

 

 

王朗は当時博識な学者として知られており、当時最重要視されていた経典の数々に通じていると評判でした。

 

そのため、漢王朝より郎中(ロウチュウ:宮殿の門番や皇帝の身辺警護)の職を得、その後甾丘(シユウ)の県長に昇進。

 

 

しかし折しも自身の恩師が亡くなったため、喪のために官位を捨てて里帰りし、その後も朝廷から招聘を受けたものの拒否。しばらく故郷で喪に服していました。

 

 

 

そんな折、徐州に割拠していた陶謙(トウケン)の推挙を受けて役職に復帰し、陶謙の補佐官としてしばらく動くことになったのです。

 

しかし、その後しばらくとしないうちに漢王朝の朝廷内では大きな混乱が発生。やがて大きな戦乱となって朝廷を中心に世は混沌としていました。

 

この事態を見た王朗は、同僚の趙昱(チョウイク)と共に陶謙に進言します。

 

「群雄らにこちらの意を誇示するには、朝廷に忠誠を示すのが最上の手。使者を送り、王命を賜るべきです」

 

 

陶謙はこの言葉にうなずき、すぐに趙昱を使者として派遣。陶謙は安東将軍(アントウショウグン)の位を得て、趙昱と王朗もそれぞれ太守の任を任されたのです。

 

 

さて、王朗が太守として向かった任地は、はるか南東で疎開した名士も多い土地である会稽(カイケイ)。陶謙の元を離れた王朗は以後会稽太守としてその地に勢力を張りますが……これが激動の始まりだったのです。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

激動する人生

 

 

 

さて、こうして会稽太守として辺境統治を行うことになった王朗でしたが、揚州をめぐる大きな戦乱に巻き込まれ、とんでもない大敵を相手取ることになってしまいました。

 

――孫策(ソンサク)。

 

 

破竹の勢いで領土を拡大していく孫策軍は、建安元年(196)、ついに王朗の任地である会稽に目を向けたのです。

 

 

功曹(コウソウ:人事部長?)の虞翻(グホン)は並外れた強さを持つ孫策には勝てないと判断し、王朗に逃亡を勧めましたが、王朗はこれを真っ向から拒否。

 

「漢王朝より土地を任された以上、街の保全に尽力するのは当然である」

 

 

かくして兵を集めて孫策軍と一戦を交えた王朗でしたが、勢いに乗る孫策軍の前に敗北。結局街を追われて海を渡る羽目になりましたが、その先の東冶(トウヤ)で孫策軍に再び捕捉され、大敗を喫してしまったのです。

 

かくして王朗は孫策への降伏を決意し、これまでの敵対を謝罪。孫策も人格的に優れ学識豊かな王朗を殺すことはできず、そのまま問責だけで釈放されました。

 

 

しかし、勢力も財産も失った王朗は一族を連れて放浪。困窮の中で少ない分け前を一族で分け合い、貧困にあえぐ中でも道義を忘れない立派な態度を心掛けたとされています。

 

 

 

そんな苦しい生活を余儀なくされてしばらくの建安3年(198)、曹操から突如招聘がかけられ、苦しい中で王朗は北へと帰還することに決定。

 

旅費も満足に持ち合わせていない事もあって北への旅路は困難を極めましたが、長江や海を行ったり来たりすること数年、ようやく王朗は曹操の元に到着し、彼に仕えることが叶いました。

 

 

曹操は王朗をすぐに諫議大夫(カンギダイフ:帝の政治顧問)とし、さらに自身の軍事参謀に任命。その後魏が建国すると、軍事参謀の役職はそのままに魏郡の太守を兼任。

 

その後も小府(ショウフ:財務長官)、奉常(ホウジョウ:宗廟管理や儀礼の執り行いの責任者)、大理(ダイリ:最高裁判所長)等といった高官を歴任。魏においても有数の人物として数えられるまでに至ったのです。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

魏国の内務トップエース

 

 

 

曹丕(ソウヒ)が曹操の後を継ぐと、御史大夫(ギョシタイフ:副総理大臣)に昇進。さらに安陵亭侯(アンリョウテイコウ)として領地もあてがわれました。

 

そして曹丕の興味が大きく自身の得意分野でもある経典の内容を引用しつつ、民をいたわる統治を第一にするよう進言。徳者と名高い王朗の真骨頂ともいえる言葉づかいで曹丕に慈愛を説きました(人物評にて掲載)。

 

 

曹丕が帝位に上り魏王朝を打ち立てると、王朗は司空(シクウ:本来は法務大臣だが、ここでは副総理を差す)に転進。そして楽平郷侯(ラクヘイキョウコウ)に爵位も上がりました。

 

 

 

一応は魏の属国となっていた呉が蜀に攻められて夷陵の戦いが勃発すると、曹丕は蜀にとどめを刺すために呉への救援軍を送ることを検討ましたが、王朗は孫権がまだ動いていない=自分たちが劉備と戦うことになる事、そして雨季で戦える時期でないことを理由に消極的な姿勢を見せました。

 

 

その後黄初3年(222)には孫権と決裂。この時も曹丕孫権を攻め滅ぼそうと大規模な遠征を企画しましたが、王朗はこれに反対。

 

「現時点での出陣はまだ軽率で、民たちも大義名分を理解しないでしょう。孫権の不審が明らかになるのを待ち、然るのちにもっと計画を練ってから攻めるべきかと」

 

 

しかし曹丕は出陣し、そのまま結局敗北して戻ってくることになったのです。

 

 

 

また、曹丕の在任中に「優れたものを推挙するように」との勅令があり、王朗は楊彪(ヨウヒョウ)なる人物を曹丕に推薦。自分はこれをいい機会として隠居を決め込み、病気を理由に楊彪を自分の役職に代わりにつけたのです。

 

しかし、曹丕はこれに納得せず、「賢才推挙を命じたのに、賢才が去ってどうするのか」と王朗の復帰を要請。

 

 

結局楊彪は高官として取り立てられましたが、王朗はそのまま元の役職に復帰しました。

 

 

 

 

その後曹丕の息子の曹叡(ソウエイ)が帝位につくと、王朗は蘭陵侯(ランリョウコウ)として、合計1200戸の食邑を抱える大身の侯爵になりました。

 

また、曹叡が宮殿増設や修理などに力を入れているのを見て、労役の軽減と費用削減を提言。その後、ほとんど栄誉職となっていた司徒(シト:内政関連の大臣。かつては三公のひとつだった)に転任し、実質的に半隠居の身となったのです。

 

 

そこからはほとんど政治面の前線を退いたようですが、後継に恵まれなかった曹叡に対し憂慮心配する旨の上奏をして感謝される等、政治とはまた違った見せ場を得ていました。

 

 

しかし、すでに年老いた王朗がその後何かの活躍を救ることはなく、太和2年(228)に死去。成侯と諡され、その後は子の王粛(オウシュク)が継ぐことになりました。

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

【王朗伝2】慈愛溢れる義憤の人
ただの国賊扱いとか遺憾でござる

ホーム サイトマップ
お問い合わせ