董昭 公仁
生没年:永寿2年(156)~ 青龍4年(236)
所属:魏
生まれ:兗州済陰郡定陶県
董昭(トウショウ)、字は公仁(コウジン)。節操無しと言われているため、どことなく陰険でどうしようもないくらい卑怯な印象が深い人物ですね。
というか、そもそも名前自体知らない人も多いのではないでしょうか?
で、正史の記述を追ってみると……うん、策謀の数々はまさにブラックそのもの。
しかし、同時に認めた人には一定の義理は果たしてくれる、そんな「節操無し」とも思えない部分もチラホラと伺えました。
多分、国や大義、熱い志などでなく、個人への忠誠に従うタイプの人なのでしょう。この辺、なんだか賈詡に似ているような気が……
袁紹配下でも策謀策謀
董昭は初め、孝廉(コウレン:儒教的地方賢人推挙システム)に推挙されて役人として各地を転々としましたが、やがて袁紹(エンショウ)によって召し出され、参軍事(サングンジ:軍事参謀)として仕えることとなりました。
こうしてひとまずの主君を得た董昭でしたが……時は乱世。安息は長くは続きません。
やがて袁紹も、勢力としてははるかに上手の公孫瓚(コウソンサン)と戦うことに。このため領内は不穏な空気に包まれ、袁紹軍の不利を悟った多くの群臣が公孫瓚に寝返ろうとするという由々しき事態に陥ったのです。
そんな中、董昭は袁紹によって、郡ごと寝返ろうとしていた鉅鹿(キョロク)郡の太守に任命されます。
もはや郡ごとの寝返りはほぼ確定。そんな危険な郡の平定を任された董昭は、早速袁紹からの命令文を偽造。
「袁紹に逆らった者は私刑。ただし殺すのは本人の身に留め、その家族は罪に問わないものとする」
この偽造書を掲げ、董昭は即座に裏切り者を全員処刑し、周囲を大いに畏怖させました。それから、怯えていた周辺地域の畏怖に尽力。短期間でこの騒ぎを平定して見せ、袁紹の舌を巻かせて見せたのです。
これによって董昭を気に入った袁紹は、今度は裏切り者により太守が殺されてしまった魏(ギ)郡の統治を任せることにしました。
するとここでも、董昭は持ち前の知略を以って策を実行。
万単位という恐ろしい数の敵対勢力に対して敵の各軍に董昭との内通を疑わせる離間の計を発動させ、隙を突いて各個撃破してしまったのです。この時の活躍たるや、2日のうちに3回も戦勝の報告が入ったほどだとか何とか。
曹操に出会うまで
2度における難局打破により袁紹軍内での地位を確実なものとした董昭でしたが、弟の士官先が袁紹といがみ合っている人物であったために、袁紹軍おなじみの(!?)讒言の被害に遭い、出奔。
今度は漢王朝の直臣になることを願い西進しますが、その前に河内(カダイ)に割拠していた張楊(チョウヨウ)によって引き留められ、今度は彼の臣下として動くことになりました。
さて、こうして想定外の主君に仕えてからのある日のこと、張楊の元に、お隣の曹操軍から使者が送られてきました。その用向きは、「曹操が長安にいる漢帝への挨拶へ向かうため、使者の領内通行を許してほしい」という物。
曹操と言えば、当時はまだまだ成り上がりの弱小勢力。そんな未知数の勢力とは、張楊もよしみを結ぼうとは考えていなかったのでしょう。最初から断るつもりで、董昭にこの話を持ち掛けてみました。
しかし、董昭の意見は真逆。まだまだ弱小とはいえ天下を股に掛けた英傑の風格を曹操に見出していた董昭は、張楊の気持ちとは逆に、まだまだ曹操が弱いうちから手を結ぶように進言。さらには曹操の事を帝に推挙するようにとも献策したのです。
張楊は、「まあ董昭が言うのならば」と使者の通行を許し、その上で帝に曹操を推挙。さらに董昭も董昭で、曹操のためにと帝を保護していた李傕(リカク)、郭汜(カクシ)らに手紙をしたため、それぞれに丁寧なあいさつを伝えました。
建安元年(196)に帝が長安を脱出すると、董昭は河内から離れて朝廷に合流し、議郎(ギロウ:皇帝の近侍官の一つ)の官位を送られました。
しかしこの時、帝の護衛を承っていた面々は仲が悪く、お互いいがみ合っている始末。その中には山賊同然で、本当に好き勝手しているような面々もいたという有り様です。
これでは帝の安全もままならない。そう考えた……かどうかは定かではありませんが、この状況を憂いた董昭は、護衛をしていた諸将の中でもひときわ軍が急きようでありながら、一番人気のない楊奉(ヨウホウ)に対し、とある手紙を送り届けることにしました。
その手紙というのが、なんと董昭自ら、曹操を騙ってしたためたものだったのです。
「帝を元々の都にお返しし守ろうという将軍の姿勢に心を打たれました!
しかし、今は悪人どもがはびこる乱世。賢人こそが帝を補佐し国を盛り立てなければなりませんが、一人の身ではとても不可能なこと。
聞くに、将軍は兵はお持ちでもそれを養う兵糧が足りていないご様子。
ならば私は、あなたに物資の援助をいたしましょう。そこであなたは兵を以って、朝廷の中心となられよ。
お互いの足りぬ場所を補って、苦楽を共にしようではありませんか!」
こんな手紙を受け取った楊奉は大喜び。
他の群臣に対して曹操を頼る事を進言し、さらには董昭と共同で曹操の忠心を帝に上奏。
董昭の一連の活躍によって、曹操は鎮東将軍(チントウショウグン)の位と、そして亡き父の爵位であった費亭侯(ヒテイコウ)の爵位を賜ったのです。
なお、これら一連の動きによって董昭も符節令(フセツレイ:符節台の長官。徴兵や処罰権などに関する書類の管理職)へと格上げされました。
さて、その後、いいようにヨイショされた楊奉はどうなったかというと……勇猛で脳筋という典型的な猛将の弱点を突かれ、董昭の献策に従った曹操に出し抜かれて漢帝を引き剥がされ、大義名分を失って山賊へと成り果てたところを曹操に本拠地すら奪われた果てに、袁術(エンジュツ)の元へと逃げ延びていったのでした。
まさに詭計とも言うべき、心理を利用した策に特化した董昭。その真価が発揮された一連の事件でした。えげつねぇ……
曹操傘下の暗黒軍師
建安3年(198)、董昭は曹操によって河南尹(カナンイン:河南の太守みたいな役割。交通の要衝であったため特別扱いされてこの呼び名……らしい)に昇進しましたが、ここで事件が発生。なんと、元の主であった張楊が部下の手により死亡。
さらに張楊配下であった人物らは曹操から勢いの強い袁紹側に寝返る事件が発生したのです。
この状況を打破すべく曹操から命を受けた董昭は、なんと元の仲間たちの元に単身で説得に出向。張楊配下の中でも特に大身の、長史(チョウシ:事務局長)薛洪(セッコウ)や河内太守の繆襲(ビョウシュウ)を曹操側に引き戻すことに成功。董昭はさらに冀州牧(キシュウボク)へと位を上げました。
そして翌年の建安4年(199)に、曹操は配下であった劉備(リュウビ)に一軍を預けて独立行動をとらせました。
この時劉備の内面を見抜いていた謀臣らは曹操に警戒を促していましたが、董昭もその中の一人で、「劉備は大志を抱き、さらには関羽(カンウ)と張飛(チョウヒ)といった猛将らも抱えています」と曹操に注意喚起していました。
そして案の定、劉備は曹操に反乱を起こして徐州(ジョシュウ)で独立。曹操は慌てて自身で討伐軍を率いて劉備を倒しに向かいますが、この時に董昭を徐州牧(ジョシュウボク:徐州の長官)に任命し、その後袁紹軍の顔良(ガンリョウ)が攻撃を仕掛けてくると魏郡太守に転任し、曹操と共にこれを撃破。
さらに時が流れて袁紹が死去すると、その息子が守る本拠地・鄴(ギョウ)の包囲にも参加。この時、袁紹に魏郡太守を任されていた袁春卿(エンシュンケイ)なる人物を、彼の父を曹操の配下に召し寄せて人質にとって手紙を送り、袁春卿を降伏させています。
その後諫議大夫(カンギタイフ:帝の顧問・教育役)となった董昭は、鄴平定後に烏丸を討伐する曹操軍の後方支援役として曹操に策を献上。
海運を使った兵糧輸送により困難な「強行軍の補給物資確保」という偉業を成し遂げ、司空軍祭酒(シクウグンサイシュ:いわゆる軍師。亡くなった郭嘉の後任)、さらには千秋亭侯(センシュウテイコウ)の爵位を賜ることとなったのです。
政治的判断もできるんです
後、董昭は曹操の政治的、外交的な策謀にも加担している事が本伝からも見て取れます。
まず、五等爵(ゴトウシャク:公・侯・伯・子・男の五段階の爵位。西洋のものとはまた違い、これは儒教の経典に基づくもの)という、古代の偉人たちが編み出した爵位制度の復活、導入を提案。
これは言ってしまえば、「曹操は古代の英傑に並ぶ傑物である」という示威行為であり、効果は絶大な反面それに見合う力がなければ周囲から猛反発を受けて国が傾きかねない判断でした。
そのため曹操はあまり乗り気の反応はしませんでしたが、董昭は「今や曹操様の働きと忠心たるや、過去の偉人にも匹敵します。この手の話はさぞや耳ざわりの悪い事かと存じますが、それでも申し上げないわけには参りません」と強く主張。
結局曹操はこれを聞き入れて公爵として魏国を建立。さらにその後ちゃっかり王の位にまで登りましたが、いずれも董昭が真っ先に言い出したことだったとか。
その後建安24年(219)に関羽が荊州の曹仁(ソウジン)を攻撃した際には、同じく曹操と敵対していた呉の孫権(ソンケン)から密使が曹操の元に参内。
「共に関羽を討ち果たしましょう。私は南からひそかに攻め上がって救援に駆けつけます故、どうかこの事はご内密に。関羽の油断を突くのです」
この使者からの話を受けた曹操は、群臣らと共に知らないふりをしていようかと思いましたが、董昭だけは逆に、「素知らぬ顔をして、裏でひそかに作戦を関羽にバラしましょう」とトンデモ発言を展開。
面食らっている群臣に対して、董昭はバラすことのメリットを力説します。
「孫権の思い通りに動いていては、奴にしてやられるのは間違いなく、良策ではありません。
それに現在攻められている我が軍は苦境にあり、孫権の動きを知らなければ気が滅入ってあちらに寝返る者も出るかもしれませんし、何よりこの情報を知った関羽が包囲を解いてくれれば、我が軍にもっとも利する形となります。
なに、関羽は剛勇を頼みとする性格の持ち主です。すぐに引くことはありません」
董昭の並べたてた理論に曹操はすぐに納得し、曹仁救援に向かった徐晃(ジョコウ)に、矢文という形で孫権接近の報を敵味方に知らせることにしました。
結果、董昭の狙い通りに味方の士気は上昇。関羽も撤退せず、さらには偶然かこの情報のせいか、徐晃の軍勢に敗北。
さらには孫権の軍に城を奪われて行き場を失った関羽は捕らえられ、その場で斬首されるという形で、曹操軍はこの苦境を乗り切ったのです。
曹丕の代でも相変わらず
曹操が亡くなり曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、董昭は将作大匠(ショウサクタイショウ:宮殿や宗廟といった建造物の造営責任者)、さらに曹丕の帝位即位に際して大鴻臚(ダイコウロ:朝廷に臣従した異民族らの管理を担当。大臣クラス)となり、爵位も右郷侯(ウキョウコウ)にまで上がりました。
黄初元年(221)には、弟が自身の領地の一部を分け与えられて関内侯(カンダイコウ)に封ぜられ、董昭自身も侍中(ジチュウ:帝の側近として、アレコレ助言する。その気があれば意のままに帝を操縦できるアブナイ職)にまで上り詰めました。
そして黄初3年(222)に行われた大規模な呉征伐では、一方面の総大将である曹休(ソウキュウ)が「長江を渡って敵を攻撃したい」という旨の上奏文を提出してきました。
これに対して、董昭は、
「川を渡るのは非常に危険な行動であり、敗色濃厚な作戦です。曹休はそれをわかった上で進言していますが、その下に控える将軍たちは、すでに高官であり、その地位を守るための態勢に入っています。曹休がその気になっても、周囲の将軍たちがその危険を冒そうとはしません。
まあ曹休の独断でそのような判断を下しても、他が着いてこずに意図は容易に崩れるでしょう。が、心配事は陛下のご命令に対しても、同じようなことが起きてしまう可能性があることです」
と所感を述べて曹休の考えが通らないことを懸念します。
かくして、後に突然の暴風で呉軍の陣営に勝手に流れ着き、それを一気に敗走させて優勢に立ちましたが……この時には曹丕や曹休らの願い通りにはいかず、将軍たちが出撃のリスクを恐れて動かないうちに機を逸し、敵援軍の参入を許して作戦は失敗してしまいました。
さらに別方面で夏侯尚(カコウショウ)が江陵(コウリョウ)の城を風前の灯火と言えるところまで追い込んだ際にも、夏侯尚の、後退を考えない攻め特化の作戦を見て懸念を抱き、ふたたび曹丕に上奏します。
「夏侯尚は川を半端にわたり、中州にて一本だけ浮き橋を立てて包囲をしていますな。これでは攻めはよいでしょうが、相手の攻撃に際して急所を狙われては、撤退もままなりますまい。
そもそも人は後退を嫌い前進を好みますが、前へと進む際も後退の危険は頭に入れておくのが一流の将軍でしょう。
もしも中州を渡す橋が壊されてしまっては、取り残された味方は敵に降るしかなくなります。
それに、長江の水かさは増えていっているとか。もしものこともございます。ここは攻めばかりでなくもしもの事を考え、味方の戦力温存に尽くすべきだと思うのですが……」
この董昭のボヤキにハッとして、曹丕はすぐに夏侯尚に勅使を伝達。中州から引き上げるように促しました。
勅使を受けた夏侯尚はすぐに中州からの撤退を開始しますが、橋が一本しかないために撤退は難儀を極め、二手に分かれて執拗に行われた敵の妨害を掻い潜って、なんとか撤退に成功。
この頃、敵将の潘璋(ハンショウ)らは橋を焼き払うために火罠を上流から流そうとして実行間近だったと言われてます。
夏侯尚らが布陣していた中州が長江の突如増水のため水没したのは、撤退から10日後のことでした。もしも董昭のボヤキがなければ、夏侯尚の軍勢は退路を失い、さらには突然の水没に流されて危かったでしょう。
曹丕は董昭のこの軍略に、「過去の名軍師である張良、陳平を見ているようだ」と絶賛し、その軍略に敬意を表したとか。
黄初5年(224)には領土を国替えして成都郷侯(セイトキョウコウ)となり、大常(タイジョウ:儀礼や儀式の総責任者)、光禄大夫(コウロクタイフ:顧問対応とあるが、決まった仕事はない。光禄勲)、さらに給事中(キュウジチュウ:これも顧問対応職)へと転任。
その後曹丕の東征に付き従い、黄初7年(226)には太僕(タイボク:帝の天子行幸や、軍需、交通通信といった他分野を司る大臣)として中央に帰京。
同年曹丕が死去し、その子供の曹叡(ソウエイ)が跡を継ぐと、爵位も楽平侯(ラクヘイコウ)にまで進んで領地も加増。
太和4年(230)には司徒(シト:民事全般を取り仕切る大臣)の代行として動き、2年後の太和6年(232)には正式に司徒に就任しました。
こうして曹家3代の行く末を見守り、その繁栄のために生きた董昭でしたが、青龍4年(236)に、ついにその長い人生を完走。享年81歳。
諡は定侯(テイコウ)とされ、跡を継いだ息子の董冑(トウチュウ)も高官を歴任しました。
人物・評価
董昭は軍事だけでなく、政治や民事、果ては人物眼まであらゆる部分に精通した策謀家でした。
この手の人物は同じ知略家でも、何かしら得意不得意はあるものですが……董昭の場合、まさにマルチな活躍を示す、オールマイティな活躍場所を選ばない人物だったと言ってもよいでしょう。
の割に、これまた偉く影が薄い……。
やはり、曹操の実権強化のために強固な主張をして、その分周囲の恨みを引き受けて穢れ役を買って出たのが主な要因でしょうか。
事実として、漢室に忠誠を使った蘇則(ソソク)らには大変嫌われており、国家という大きな物に忠義を示すをよしとする人物らからは、すこぶる受けが悪いです。
陳寿の評も、郭嘉や程昱らと共に
屈指の智謀の士であったが、荀彧や荀攸らと比べて徳業はなかった
と記されており、それがもとで「こざかしいだけの小悪党」として登場することも多いです。
彼の早めの名誉回復に期待!
最後に、最晩年の、老骨の嘆きともひそかな儒教信奉者の憂いともとれる逸話を紹介し、董昭の解説を終えたいと思います。
司徒となった董昭には、一つの心配事があった。
それは、人材の小人物、軽薄化である。
昔は不正を許さず世をよくしたいという一心で、そういった連中が騒ぎを起こして死刑になったが、今では同類の面々が幅を利かせ、官吏も怖がって刑罰を履行できていない。
「昨今の若者は親孝行も上への敬意もなっておらず、清廉さも上品さもない。徒党を組んで仲間ばかりを押し上げ、自身が気に食わない者は誹謗中傷の嵐で追い落とすばかりではないか。
聞くところによると、『時代は仲間づくりだ。自分たちを理解しない連中には灸をすえて、従順にしてやればそれでよいのだ』と言い合うばかり。
しかもなんだ。自分の子分を朝廷に忍ばせてパイプ作りに励み、栄達の道ばかりを探っているではないか」
そう思った董昭は、すかさず曹叡に思いの丈を上奏。
曹叡も思うところがあったのか、董昭のこの上奏を聞き入れ、諸葛誕(ショカツタン)や鄧颺(トウヨウ)らを即座に罷免した。
今も昔も変わらないと言いますか……平和になったら、こういう輩が幅を利かせて強くなりますよね。
曰く、「それが正義だ」とかね、もう頭おかしいんじゃないかと……
と、愚痴や不満を垂らすと長くなるのでこのくらいにして……
人の心理を利用して罠に嵌める董昭ですが、それはあくまで敵に対してだけ見せる顔。
実際の董昭は、策士特有の薄汚さだけでなく、ある種の一途さのようなものも持ち合わせていたのかもしれませんね。
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