【孫策伝3】 人物評 逸話
人柄、人物評
陳寿による三国志の本伝では、孫策の人柄について以下のように語られています。
容姿に秀でており、談笑を好んで、闊達で人の意見をよく聞き入れた。
優れた気概と実行力を備え、勇猛鋭敏な事世に並び無く、非凡な人材を取り立てて用い、その大きな抱負は中国全土を圧倒する者であった。
呉の国の基礎を作ったのは、紛れもなく孫策である。
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つまり、明朗快活な性格であると同時に有能な人の意見をよく聞き入れるだけの懐があり、しかも大望と覇気を備えていたと。さらには人を引き入れる強力なカリスマ性も持ち合わせており、まさに乱世に生まれるべくして生まれた英雄とでもいうべきでしょうか。
実際にやってのけた江東制覇の偉業は、並の武将にはとても短期間でできるものではなく、さらには追い払った劉繇、許貢、王朗らはそれぞれ正式な太守としての大義名分もあり、さらには劉繇や王朗に至っては独自に伝が立てられるほどの能力も備えていたわけで、決して踏み台程度に軽く捻り潰せるような相手ではなかったはずです。
それを、よもや数年と言わずにやってのけるとは……
またカリスマ性に関してもかなりのもので、彼の元に集まった武将や文官らはそのほとんどが呉の中核を担っています。
孫策個人に仕官した主立った人物を挙げてみると、張昭、張絋、秦松、陳端、蒋欽、周泰、陳武、凌操、呂蒙、虞翻……なかなか壮観……というかモロに一級線がほとんどですね。この中で伝が立てられず目立たないのは秦松、陳端くらいか……
これらの将らは、孫策死後、孫権の代になっても重きを成しています。
一方で、陳寿はこんな評も残していますね。
孫堅ともども性格が軽はずみせっかちだったために、身を滅ぼし志はついえてしまったのだ。
孫策の急成長は、まさに当人の並外れたカリスマによるゴリ押しと優れた才略と、孫策自身に起因する部分が非常に大きいものでした。
そのため孫策を嫌ている者がいた場合、その反発や恨みは半端なものではなく、それが孫策の占領した江東の内で常に燻っていたわけですね。
当然そのままにしていてはあまりに危険なため、孫策は反発勢力の粛清や締め出しという強硬手段で一応の安寧は得ますが、それでも反孫策の気炎は収まらず、粛清のさなかで許貢という大物を殺してしまったことにより、復讐劇のトリガーが引かれてしまったことになります。
当然、粛清という強硬手段が悪いわけではありません。そうでもしないと、この手のカリスマに対する反発は収まることはないでしょう。しかしこの場合、恨まれていることを自覚し、暗殺者には十二分に用心すべきだったはずです。
しかし孫策は、あろうことか単独行動をとり、刺客による暗殺の絶好の機会を与えてしまい、そのまま襲われて命を落としてしまったのです。
そして厄介なことに、その並外れたカリスマは、その後は大きな反動として呉という国を苦しめていくことになったのです。
反動の内容は、例えば孫策の死により希望を失って内通や立ち退き未遂が発生したり、呉の最晩年の辺りでも孫策の残光を妄信する輩が出てきたり……とにかく、さまざまな影響を呉に与えています。
まあ、この辺りは孫権や周瑜らの奮闘もあってほとんどが未然に防がれていますが、孫権は兄の孫策と比べて小さく映り、それが悪影響を与えたのではないかと推測できる部分も史書には多いです。
これまでみんなが依存してきた偉大なるカリスマが、ある日突然ポックリ亡くなってしまったわけですから、やはりそのダメージは計り切れなかったと言ってもよいでしょう。
なんであそこで死んだんや……
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孫策の死にまつわる逸話云々
孫策の死は、正史本伝では「単騎外出したところ襲われた」とありますが、他の歴史書とか小説とかを見てると、結構いろいろあるんですね。てなわけで、孫策の死亡に関する逸話を少し列記していきましょう。
1.于吉という仙人がいたが、于吉の人望は孫策異常であり、危険な存在だった。そこでイチャモンをつけて于吉を殺した。すると于吉の呪いが発動し、あちこちで現れる于吉の幻聴に発狂して死んだ(捜神記、三国志演義。江表伝にも于吉を殺した描写のみあり)
2.狩りにふらっと出かけた時に、殺した許貢が雇っていた三人の食客に遭遇し、主の仇とばかりに襲われ、暗殺を見破るも頬に矢を受け、異変に気づいた従者がその場に駆けつけたのはその後だった(江表伝)
3.曹操が柳城(リュウジョウ)征伐(正史では孫策死後数年後に行われたのに……)に兵を動かしたときに大司馬を自称。そのまま武勇を恃んで曹操の本拠地を狙おうとしたが、準備不足が祟って死ぬことになった(九州春秋)
4.負傷した際に医者に診てもらうと、「ギリギリ致命傷は免れたけど、百日は安静にしないと死ぬよ」と言われたものの、鏡で顔を見るとふがいなさやら苛立ちやらが爆発して鏡を地面に投げつけ、力んだことで傷が裂けてその日の夜に亡くなった(呉歴)
捜神記や三国志演義は小説だから完全スルーしてしまうとして……なんだかどれもバラバラで、よくわかりませんね。
なお、3の説ですが、志林を書いた虞喜や注釈者の裴松之にボロクソに叩かれていて、これまた見てる分にはなかなか愉快←
ちなみに于吉仙人は江表伝にも登場し、やはり孫策に殺されていますが、孫策自身の死には直接関与していないというスタンスですね。
于吉が殺された後の信者は、あまりに信奉しすぎるあまりヤンデレ化して、「于吉さまは死んだと見せかけて仙界にお帰りになられたのだ」とかトンデモな理論を以って、それ以降も于吉信奉を辞めなかったとか。
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どうして長沙桓王?
孫策の諡号は、皇族本流に本来与えられるはずの帝ではなく、ワンランク下の王。
陳寿はこれを、「孫権の兄への敬意は不足しており、道義に欠けていた」と批判していますが……孫盛という人がこれに対してなかなか面白い反論をしていたので最後に記載……
孫策はその慧眼を以って、遠くない未来に勢いが落ち目を迎えることを見抜いており、そのため弟に一切を任せることで以後一切の禍根を断ち切ろうとしたのではないか。
また孫権は孫策の息子をあまり厚遇しなかったが、これは貴賤の区別をはっきりつけ、あわよくばという群臣の思いを封殺し、内乱を未然に防ぐ手段だったと思われる。
なるほど……。確かに、孫呉は一枚岩ではなく、特に孫策という巨大なカリスマを失ってからは内部で対立している印象も多く受けます。
孫権も身勝手な暴君だとか実は暗君だとかいろいろと言われていますが、その裏では兄・孫策の偉大過ぎる事績と強烈なカリスマに引っ張られる国内を吹っ切らせ、自分の統治をうまく運ぶために色々やっていた部分もあるのかもしれませんね。気分屋なのは否定しないけど
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