【孫策伝2】雄躍からのフリーフォール


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【孫策伝2】雄躍からのフリーフォール

 

 

 

 

 

江東平定~グッバイ袁術

 

 

 

劉繇を群雄として成立しないほどに叩き潰した後、孫策の元で戦った周瑜は、一度ここで戦線を離脱しています。

 

周瑜伝によると、孫策軍に駆けつけた周瑜は、実は長江を渡った北にいる叔父に挨拶伺いに行く最中に偶然近くに居合わせただけだったとか。

 

 

孫策の方も、「後は自分でもなんとかなる」と確信し、周瑜を送り返したとのこと。なんだか少し意外ですね。

 

 

 

さて、ともあれ……こうしてようやく活動の基盤を手に入れた孫策は、次の狙いとして東の呉郡と会稽郡に狙いをつけ、太守を追い払ってこの土地を奪おうとします。

 

 

 

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この時、各郡の太守の他に厳白虎(ゲンハクコ)なる者が1万もの大軍を率いて呉の付近に駐屯しており、呉景らはまず脅威となる厳白虎討伐を企てますが、孫策はこれに反対。

 

 

「厳白虎ごとき野盗の類、いつでも潰せます」

 

 

そう豪語した後朱治(シュチ)に呉郡平定を任せ、自身は川を渡って会稽郡攻撃を断行。戦争能力はともかく、後に曹操の元に流れ着いて出世することになる大器・王朗(オウロウ)を撃破し、朱治も呉郡太守の許貢(キョコウ)を追い出したことで付近の制圧を完了。

 

そして丹陽太守を自称して孫策に抵抗していた元劉繇配下の太史慈(タイシジ)を撃破しこれを傘下に加え、後に厳白虎も打ち破る等、急速な勢いで各地を平定していきました。

 

 

 

そして肝心なのは、占領後の統治活動。形の上袁術軍配下として動いていましたが、それでも元々その場にいた役人を追い払ったことに変わりはなく、官吏をそのままにするのは危険という状態でした。

 

そのため孫策は占領した軍の官僚はすべて入れ替え、反乱の危険性を潰すことに専念。

 

 

さらに自身は会稽太守を兼任し、肩書上袁術の純粋な配下であった呉景らを袁術の元に返し、各郡の太守に自らの息がかかった者を任命。さらには徐州から張昭(チョウショウ)、張紘(チョウコウ)といった独自の参謀を抱え込むなど、着々と自身の勢力の地盤を固めていきました。

 

 

 

 

そして 建安2年(197)に袁術が皇帝を自称したのを機に満を持して独立を宣言。袁術を非難する文書をしたためて絶縁を発表し、完全に一群雄として独り立ちを成し遂げたのです。

 

 

『江表伝』ではこの辺りで朝廷から使者が来て、孫策を騎都尉(キトイ:近衛兵長)の位と父・孫堅が持っていた烏程侯(ウテイコウ)の爵位を授け、会稽太守に正式に任じるという詔を伝えました。

 

しかし孫策は「会稽太守を兼任するなら、騎都尉では軽すぎる」としてそれとなく上の官位を希望してみたところ、使者は自己の権限で明漢将軍(メイカンショウグン)の位を孫策に授けることにしました。

 

 

そしてその詔を奉じ、袁術討伐に参加。この反袁術の軍事行動は呂布(リョフ)や陳瑀(チンウ)といった群雄との共同での行動でしたが、陳瑀は孫策がある程度軍を進めたところで、祖郎(ソロウ)や厳白虎ら反孫策の面々を内応させ、一斉に襲撃させるよう計画。早い話が、裏切りの騙し討ちを企んでいたわけですね。

 

 

しかし孫策はこれに気づいて陳瑀軍を強襲し撃破し、捕虜4千人を得たとか何とか。

 

 

ちなみに陳瑀は、『山陽公載記』によると袁紹に逃げ延び、そこそこの地位に就いたそうな。

 

 

 

ともあれ、こうして反袁術の旗色を明白にした孫策は、袁術の叛逆討伐に燃える朝廷に貢物を届けて従属の意を表します。

 

そして曹操にも目をつけられ、彼からの懐柔策として朝廷に働きかけて討逆将軍(トウギャクショウグン)の位、そして呉侯(ゴコウ)の爵位を孫策に送られてきました。

 

 

さらにこの頃、周瑜も後に呉の重鎮となる魯粛(ロシュク)を伴って孫策の元に帰参し、さらには袁術配下として働いていた孫賁や呉景らも彼を見限って孫策に合流。孫策の群雄としての力は、着実に高まっていったのです。

 

 

 

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勇躍の裏の暗雲

 

 

 

建安4年(199)に袁術が病没すると、その勢力は完全に滅亡。彼の子飼いであった劉勲が幅を利かせるようになり、孫策の元に向かおうとした袁術軍残党を捕縛し財宝を奪うなど、その勢力を飛躍的に高めていくことになります。

 

 

それを聞いた孫策は本格的に劉勲討伐を計画しますが、まずは騙し討ちにするため、本音を隠して劉勲と同盟。

 

 

へりくだった態度で「あくまで私の方が立場が下ですよ」とアピールした上で、「付近の上繚(ジョウリョウ)には大規模な宗教結社が存在します。その地を攻め、傘下に加えてしまうのはいかがでしょう」と提案。

 

 

そして劉勲が孫策の提案に乗って全軍を上繚を攻撃した劉勲の軍勢を見て、いよいよ行動を開始します。

 

 

孫策はすぐに劉勲との同盟を破棄し、彼の本拠地に向けて昼夜兼行で強行。一気に攻め落とし、劉勲勢力を滅亡に追いやったのです。

 

 

『江表伝』によると、この前後では勢力の急激な増加に劉勲軍の兵糧事情が間に合わず、食料面で大きな不安があったそうです。

 

そこで豫章太守であった華歆(カキン)に兵糧提供を依頼しましたが、この時豫章付近でも兵糧不足のため、ほとんど成果は上がらず。

 

 

そのため、最後にはいっそのこと略奪のために兵を差し向けますが、諸勢力は倉庫をカラにして逃亡したため、無駄足に終わりました。

 

 

そんな折、父の仇である黄祖(コウソ)討伐に向かっていた孫策でしたが、劉勲が動いて本拠地に不在と聞き、伏兵に劉勲を待ち伏せさせた後、自身は周瑜らと共に劉勲の本拠地である皖(カン)を即座に襲撃。

 

この襲撃に驚いた皖城はすぐに降伏し、孫策らは大量の捕虜を獲得。その中には袁術や劉勲の妻子や楽奏隊、さらに意外なところでは後に孫策らの妻になる大橋(ダイキョウ:演義では大喬)小橋(ショウキョウ:演義では小喬)だとか、さらには孫権の側室となった歩夫人(ホフジン)などもいたとか。

 

 

これでどうしようもなくなった劉勲は黄祖に救援を要請しましたが大敗。結局曹操を頼って北に落ち延びていきました。

 

 

 

曹操もこの勢いには警戒し、「北に袁紹がいるのにあんな奴相手にしていられるか」と、再度孫策の懐柔を開始。お互いの娘をそれぞれの血族に嫁がせた上、弟の孫権や孫翊(ソンヨク)に官爵を与えて特退待遇するなど、あらゆる手を尽くそうとしているのが伺えますね。

 

 

勢いに乗る孫策はこの曹操の懐柔を快く受ける裏で、曹操不在の許都を襲撃する計画を練り上げますが……そんな勢いに乗る孫策の裏で、彼の急激な勢力拡大に対する反動も、また表面化しつつあったのです。

 

 

 

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早すぎる最期

 

 

 

 

曹操袁紹と官渡で争い、長期戦になっている裏、孫策曹操の背後を突いて一気に攻め滅ぼすべく、ひそかに兵を訓練させ、部将たちにも極秘の仕事を与え、順調に準備を進めていました。

 

 

しかしそんな中、孫策は突如として刺客に襲われ、その命を落とします。享年26。まさに激動の太く短い人生の、何とも唐突な幕切れでした。

 

 

 

この時孫策を手に掛けたのは、雄飛の足掛かりとして滅ぼした群雄の一人である許貢が囲っていた食客と言われており、大きく飛躍する裏で反感や恨みも多数買っていたのもまた事実のようです。

 

 

『江表伝』によると、許貢は生粋の朝廷臣下であり、飛躍する孫策を警戒。彼をあの項羽になぞらえ、「地方に放っておくのは危険です。高官を与えて中央に召し抱えておくべきでしょう」と上奏。

 

この時の上奏文を孫策側の官吏が入手して孫策に見せたところ、孫策は許貢に会って直接どういうことか訊くことに。

 

しかし孫策の質問に対し、許貢は知らぬ存ぜぬと上奏そのものを否定したため、孫策は許貢を敵と判断し、絞首刑に処しました。

 

 

これの他にも孫策が敵対勢力を粛清によって鎮圧していた様子は様々な文献に記されており、その強固な手段は江東の頑固で独善的な風潮に合わずに散々恨まれた様子が伺えますね。

 

 

また、孫策死亡の異説として于吉(ウキツ)なる仙人を殺したことによる祟りという説もいくつかありますが……何が正解なのやら……。

 

 

 

 

ちなみにこの許都襲撃計画ですが、三国志評を行った晋の孫盛(ソンセイ)は、「敵対勢力も多く、しかも上流に黄祖がいるという不安定な情勢で遠く離れた許を襲撃するのは無理がある」とし、裴松之も許都襲撃の記述にはその毒舌をいかんなく発揮しています。

 

 

というわけで、「実は孫策行っていたのは、これまでひそかに苦杯を舐めさせられていた陳登(チントウ)襲撃の準備なのではないだろうか」という説も濃厚だったり。

 

 

 

ちなみに死因は、父孫堅と同じく単独行動をしていた事により襲撃を許してしまったため。二代目(というか三代目?)当主お前もか

 

 

 

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なお、刺客に襲われた際は致命傷を負いながらも何とか逃げ切り、張昭をはじめ群臣の前で遺言として孫権を次期当主に据えるように伝えています。

 

 

この時、孫策孫権に対して

 

 

「単純な武略は俺の方が上。だが、お前には人を盛り立て、この江東の土地を安んじて守っていく力がある。この内治の才は、お前の方が上手だ」と告げ、群臣と共に江東を盛り立てていくよう伝え、息を引き取りました。

 

 

諡は長沙桓王(チョウサカンオウ)。皇帝の直系の諡は普通は皇帝なのですが、まさかの王止まり。しかも息子の孫紹(ソンショウ)も一族として扱われながらもどこか優遇とは言い切れなかったそうな。

 

 

これに関して孫権はいろんな歴史家から叩かれています。まあ個人的にはこの行動は正解かなと思っており擁護論もありますが……そこは長くなるため割愛。

 

 

とにかく、こうして激動のまま人生を終えた希代のカリスマ・孫策。その早すぎる死と圧倒的な影響力は、後の孫権にさまざまな影響を与えることになります(ただし大半は悪影響)

 

 

ともあれ、乱世に生まれ乱世に生きたこの人物が未だに高い人気と魅力を備えているのは間違いありませんし、多くの人が彼を慕い、今なお愛され続けているのは納得です。

 

 

 

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