趙雲 子龍
生没年:?~ 建興7年(229)
所属:蜀
生まれ:冀州常山郡真定県
趙雲(チョウウン)、字は子龍(シリュウ)。今なお輝く、三国志の星の一つですね。
イケメン、強い、軍を率いても無敵、性格も清廉潔白で頭も切れると、まさに非の打ちどころのない完璧超人として知られています。
……が、実はその辺りは、実は「趙雲別伝」という、趙雲のための賛歌のような列伝に書かれている内容。
そのおかげで大半の人からはとんでもなく尊敬される一方、通には「そうでもない」と言われ、挙句一部の人からは実際に本伝にある乞う関すら否定され「弱い」と断言されることも……
実際は別伝にあるような神がかりではないものの、堅実で実直、武勇とコツコツと見上げていった功績に間違いは無いとは思うのですが……どうしてこうなった←
ともあれ、この話は置いといて……まずは本伝の記述から追っていきましょう。
劉備軍の堅実な名将
趙雲は元々、北方の群雄である公孫瓚(コウソンサン)に仕えていましたが、当時彼の客将である劉備(リュウビ)と共に公孫瓚の武将を助けに行く際に同行し、そのまま彼の主騎(シュキ:騎兵隊長?)を務めるようになりました。
その後、時は流れて建安13年(208)。放浪の末荊州の新野(シンヤ)に間借りを許されていた劉備でしたが、この年河北を平定した曹操はいよいよ矛先を南に向け、まずは荊州併呑の為に軍勢を差し向けたのです。
荊州を治めていた劉琮(リュウソウ)は、臣下らの意見を聞き入れて曹操に降伏し、劉備は完全に孤立。そのためすぐに南へと逃げることになりましたが……この動きを読んでいた曹操は、精鋭の騎馬部隊を5000のみ率いて先行。ついには長阪(チョウハン)で劉備らは曹操軍に捕捉されて一気に潰走。劉備は妻子を捨てて逃げ延びることとなり、彼の娘2人も、曹操軍に捕縛されてしまいました。
そんな大混乱の中、趙雲は取り残されていた、甘夫人(カンフジン)と後の劉禅(リュウゼン)親子を発見。まだ赤子だった劉禅を胸に抱きかかえ、甘夫人を護衛したおかげで、劉備らは難を逃れることができたのです。
その後牙門将軍(ガモンショウグン)に昇進し、今度は劉備の蜀入りの後、諸葛亮(ショカツリョウ)の指揮下として荊州から西進を開始。益州を守備する軍勢を次々と打ち破り、諸郡を平定していきました。
その後趙雲は諸葛亮本隊と別れ、「益州本拠地である成都で落ち合う」事として、別動隊を率いて周辺平定を続行。
相当な活躍を示したのかはたまた長年の功績からか……益州平定後には翊軍将軍(ヨクグンショウグン)という位に昇進。
建興元年(223)には征南将軍(セイナンショウグン)・中護軍(チュウゴグン)に昇進し永昌亭侯(エイショウテイコウ)の爵位を与えられた後、さらに位が進んで鎮東将軍(チントウショウグン)に昇進。趙雲はこの頃から軍の中核をなすようになっていったのです。
捕捉をすると、本来鎮〇将軍という位は、誤差範囲程度とはいえ征〇将軍よりも格下なはずですが……。蜀では独自の将軍位制度を設けていたのでしょうか?
建興5年(227)には、諸葛亮に従って蜀の前線都市である漢中(カンチュウ)に駐留。その翌年には、かの北伐が開始され、趙雲は鄧芝(トウシ)と共にまだまだ未熟な兵をばかりを率いて、囮として諸葛亮らとは別方面から進軍。敵軍を引き付ける隙に、諸葛亮ら本隊が魏の要衝を落とす算段でした。
しかし、魏の総大将である曹真(ソウシン)はこの作戦を看破し、弱兵しかいない趙雲軍に向けて精鋭部隊をぶつけて総攻撃を開始。まともな兵を率いていない趙雲軍は当然ながら敗北しますが、趙雲はこの時敗残兵をうまくまとめたため、大きな損害も出さずに撤退することに成功しました。
諸葛亮による作戦の失敗、さらにはその愛弟子の馬謖(バショク)による大敗北もあり、敗色濃厚となった蜀軍はそのまま撤退。北伐失敗により主立った将のほぼ全員が降格処分を受けることとなり、趙雲も形の上では「不警戒」という理由で鎮軍将軍(チングンショウグン)へと降格。
その後も北伐は続行する予定があり、趙雲もその武勇を大きく期待されますが……この失敗の翌日、建興7年(229)に逝去。
その死は諸葛亮はじめ、多くの者に惜しまれたそうです。
ちなみに諡号は、順平侯。長らく諡号を与えられたのは、劉備からは法正(ホウセイ)のみ、劉禅の代になっても中心人物となった諸葛亮、蒋琬、費禕だけという状況でしたが、蜀の最末期にようやく他の諸将にも諡号を与えられるようになり、趙雲は関羽、張飛、馬超、黄忠と並んで、その最初の5人となったそうな。
その事から趙雲は関羽らと同列として史書に名を残し、後によく知られる五虎将軍の元ネタとなったのです。
人物評
趙雲は関羽、張飛、馬超、黄忠と共に一纏めにその記述が記されており、彼らと同格と記されています。
もっとも、実際に生前の格は彼らより下。理由はわかりませんが、他四人と比べて余り評価されていなかったようですが……
とはいえ、ここに関しては他の四人(あと劉備時代は格上だった魏延)の軍功が飛び抜けているだけであり、趙雲自身が中核を担えるレベルの将軍だったことは間違いありません。
三国志の生みの親、陳寿は五人全員をまとめて評していますが、欠点についても指摘された関羽、張飛、馬超と違い、趙雲は黄忠と共にこう評されています。
両者が果敢、勇猛によって共に武臣となったのは、劉邦時代の英傑である夏侯嬰(カコウエイ)に似たものだったのではなかろうか
趙雲別伝、驚異の主人公補正
さて、人気となった人物には賛美として散々事績が水増しされまくった『別伝』なるものが立ちますが、蜀では趙雲がその別伝持ちの人物に数えられます。
まあ別伝に限らず、歴史家は好きな人物の記述や嫌いな人物の汚点なんかはとことん盛りまくって、時には根も葉もないでっちあげを用いてまで好き勝手吹聴することも多いのですが……
なんと言っても、この別伝は名前が冠された人物専用の事績誇張というのが大きな特徴でしょうか。
当然実際の事績を元にして誇張された内容のため、すべてが嘘とは言い切れない部分も多いのですが……まあ元の歴史書からして100%真実を書いているわけではなし。そういう物だと思って目を通すのがいいのかもしれません。
では、別伝による趙雲無双活劇を、ザックリと以下に記載していきましょう。
イケメンと劉備の出会い
趙雲は長身のイケメンで、郷里から推挙され、義勇兵を率いて公孫瓚の元に向かった。
当時の公孫瓚は、冀州牧を自称する袁紹(エンショウ)と戦っていたが……実は趙雲の地元は袁紹よりの意見が多かった。そこで公孫瓚がからかって「地元は悪しき袁紹支持してるのに、どうして正義に目覚めて俺のところに来たの?」と趙雲につげた。
すると趙雲は「天下は騒然とし、情報が今だ足りていません。郷里は仁政を敷くものに従うというだけで、どちらを贔屓するわけではありません」とスッパリ。
また、当時公孫瓚の元にいた劉備も常に趙雲を目にかけて評価しており、趙雲も劉備と親交を深めていたが、ある時兄が死亡し、趙雲は地元に帰ることになった。劉備は趙雲の帰郷を聞いて「彼とは二度と会えないだろう」と悟って、趙雲の手を握って別れを告げた。
趙雲も日頃の劉備の厚意を「絶対に忘れません」と告げ、そこで二人は別れることとなった。
それからしばらく後、放浪の末に袁紹の客将に収まった劉備と再び合流。ひそかに募集した数百人の兵と共に臣下に加わった。劉備は趙雲を信用しており、二人は同じ寝室で寝るほどの深い仲となっていた。
その信頼たるや、劉備が敗北し趙雲が行方不明になった際、ある者が「趙雲が裏切って逃げました」と報告すると、劉備は怒ってその者を殴りつけるほどであり、趙雲もその後しばらくして戻ってくるのであった。
さて、劉備は今度は荊州に向かい、対曹操の抑えとして新野に間借りすることになったが、この時、曹操軍が大挙して侵攻。
劉備は伏兵を用いてこれらを撃退したが、その時の捕虜の中に、趙雲と同郷の幼馴染である夏侯蘭(カコウラン)なる者がいた。
趙雲は夏侯蘭の姿を見つけると、劉備に彼の命を助けるように懇願。さらには彼が法規に詳しい者であることから、彼を軍正(グンセイ:軍の風紀取り締まり)に推挙。こうして幼馴染の命を助けた趙雲だったが、妙な疑いを持たれないためにも、これ以降は夏侯蘭には自分から近づくことがなかった。
女に厳しい趙雲?
その後、江南平定の際に、偏将軍(ヘンショウグン)となった趙雲は降伏してきた同姓の趙範(チョウハン)という人物に代わって桂陽(ケイヨウ)太守となっていた。
趙範はこの時、趙雲を懐柔しようと思い、未亡人であり美人と名高い兄嫁を趙雲の嫁に提供。しかし趙雲は断固として辞退。縁談を受けるように勧めたものに対しても、「趙範は一応降伏した形であるが、本心はわからない。天下に女は多くいる以上、そんな危険な縁談を無理に受けることはできない」と語った。
かくして後に、趙範は案の定逃亡。姿をくらませたが、趙雲はそれに対して何の未練も抱かなかった。
劉備が益州平定を始めようという時、趙雲は留営司馬として、奥向きの取り締まりを兼任するようになった。
この頃、劉備の元には孫権(ソンケン)の妹である孫夫人(ソンフジン)が嫁いできていたが、これが傲慢で立場を鼻にかけたとんでもないクソ嫁だった。官兵を大勢率いてやりたい放題、法も守らないと、その悪行はこんな感じだったのだ。
劉備が趙雲にこの仕事を兼任したのは、そんな傲慢な孫婦人をなんとかしてほしいと願ってのことだったのだ。
が、その結婚生活は長く続かず、劉備に出し抜かれたことを知った孫権は怒って孫夫人との離縁を決定。大量の船を差し向けて彼女を迎えに行った。
孫夫人もそのまま呉に帰ることを望んだのだが、なんとこの時、劉備の跡取りである劉禅を連れて帰ろうとしたのである。
この企みは張飛と共に軍を率いて彼女の帰路を遮った趙雲によって防がれ、なんとか阻止された。
その後益州が平定された後、劉備は備蓄されてあった財貨や田畑を、長年付き従ってきた諸将らに分け与えようとしたのだが、趙雲は反対。「今は領内の慰撫が先。戦乱で荒れた益州を立て直しましょう」と提案し、劉備はそれに従った。
漢水の戦い
また、曹操との漢中をめぐる戦いでは、曹操軍の輸送物資の多さに着目。黄忠はこれを奪い取ってやろうと考えて出陣し、趙雲配下の兵もこれに従った。
しかし、黄忠はいつまでも帰ってこない。「何かあったのでは」と心配になった趙雲は数十騎と共に軽装で様子を見に行ったところ、曹操軍本隊とバッタリ出くわしてしまった。
とてもではないが勝てる様子はない。趙雲はそのため急ぎ撤退することにしたが、この時突撃を仕掛けて戦いながら、敵の追撃を断ち切って逃げ帰った。
その後曹操は本戦で敗北したが、再び終結して力を盛り返したので、趙雲は敵軍を打ち破ると、すぐに自陣営に帰還。
しかしこの時、将軍の張著(チョウチョ)が曹操軍と戦って負傷。趙雲は張著を援護して自陣営まで撤退させるが、圧倒的な数の敵軍までもが趙雲の陣に集結し、危機に陥ってしまう。
しかしここで趙雲は一計を案じ、なんとわざと陣営の門を開放。あえて敵の陣内侵入を許すように仕向けたのだ。
この動きに怪しさを覚えた敵は、伏兵を疑って撤退。
しかし、そこで容易に撤退を見過ごす趙雲ではない。趙雲は雷の如く天を震えさせる勢いで太鼓を鳴らして合図を送ると、曹操軍の背後に向けて、趙雲の軍勢が怒涛の勢いで弩を斉射。曹操軍は大混乱に陥り、多数の死傷者を出して慌てて逃げ帰ったのである。
劉備はこの活躍を喜び祝宴を開き、そこで趙雲をこう評したのだ。「一身之肝なり」と。
その後も続くよ趙雲活劇
乗りに乗る劉備軍であったが、その最盛期は長くは続かなかった。関羽が呉の裏切りにより荊州を失陥し、死亡。
この知らせを受けた劉備は怒り狂って孫権打倒を宣言。趙雲もこれを必死で諫めたが、受け入れられなかった。その後、江州(コウシュウ)で劉備敗北を聞いた趙雲は急ぎ軍を進めたが、趙雲が永安(エイアン)にまで着いたころには劉備軍はボロボロ。孫権軍も撤退した後だった。
さて、さらに後、話は飛んで北伐の際。曹真軍本隊の猛攻により撤退した趙雲軍だったが、その敗勢とは裏腹に軍はしっかり統率され、軍需物資の損失はほとんどなかった。
諸葛亮がなぜかと尋ねると、趙雲と共に出陣していた鄧芝は、「趙雲殿が自ら殿軍となって敵を食い止めてくれたおかげです」と答え、それを喜んだ諸葛亮は、軍需品を趙雲指揮下の将兵に褒賞として送ろうとした。
しかし趙雲は「敗北した戦いに褒章など不要。それよりもこの物資はひとまず貯め置いて、冬になる前に支度品として賜るのがよろしいかと」と提案し、諸葛亮をさらに喜ばせた。
ちなみに順平侯の諡だが、姜維らの進言によれば「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します」とのこと。これらの文字を組みわせて、順平侯と称されたのである。
まあすべてが嘘ではないでしょう。さすがに正史三国志の本伝と言えども、国家の都合が入っている限り書けない部分はあるでしょう。
しかし、だからといって下手にアレコレ持ち上げすぎるのは、かえって本人の名声に傷をつける結果につながることもしばしば……
特に趙雲の場合、記述と華のある話題が少ないだけで、正史本伝の時点で十分に有能な将軍なのです。
事実、これのおかげで趙雲、あるいは正史に興味を持たなくなり、「演義こそ史実」だとか、「趙雲は雑魚」だとか間違った知識を周囲に吹聴する人も中にはいるわけです。
ちなみに私の知り合いには、「趙雲が弱く書かれているから、やはり正史はアテにならない」という結論にたどり着き、演義の知識をまるで史実のように語っている人とかも……
まあ、あれですね。捏造はほどほどに。無から作ったり1を10まで膨らませるのではなく、元からある素材の原形はとどめましょう←
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