荀攸 公達
生没年:永寿3年(157)~ 建安19年(214年)
所属:魏
生まれ:豫州潁川郡潁陰県
荀攸(ジュンユウ)、字は公達(コウタツ)。多くの名士を輩出した潁川(エイセン)出身の名士で、曹操軍の筆頭軍師ともいえる存在ですね。
曹操のブレーンと言えば、荀彧(ジュンイク)が有名ですが、彼は荀彧の甥にあたる人物です。のわりにこっちが年上だから当時の結婚事情の闇は深い
軍師として有名な荀彧、諸葛亮(ショカツリョウ)のような人物は優秀な内政官でもありましたが、荀攸は総合的な献策をする参謀でもなければ、周瑜(シュウユ)や程昱(テイイク)のような半分将軍という立場の人物でもない、紛れもない純粋な『軍師』とも言うべき存在でした。
そんな彼の事績を見て、私の友人の間では荀攸をこう呼びます。「脳筋絶対殺すマン」と……
若かりし日はアグレッシブ
荀攸は幼い頃に父を失い、祖父の元に預けられていました。しかし十三歳の時にその祖父が死去。そして叔父が跡を継いだ時、張権(チョウケン)という人物が「荀攸の祖父の墓守をしたい」と志願してきました。
これを怪しいと思った荀攸は叔父にそれを報告。叔父が身元を調べると、なんと張権は逃亡してきた殺人犯だったのです。
この話はすぐに広がり、荀攸は叔父からも信頼されるようになったとか。
189年に漢の大将軍・何進が名士20人余りを招集した際、荀攸も他の名士と一緒に招かれて中央に出仕。黄門侍郎(コウモンジロウ:勅命を伝達する役職……らしい。水戸黄門の「黄門」部分の語源とされる)に任命されました。
が、何進はその後敵対していた宦官により暗殺され、その宦官も何進派の人物らに粛清されるという大混乱が発生。その隙を縫って辺境から軍を率いてきた董卓(トウタク)によって都・洛陽は占拠される事態に陥ります。
その後反攻組織との戦いのさなか、董卓は都・洛陽を焼いて長安(チョウアン)に強制遷都。董卓の専横によって、漢王朝の威厳はさらに失墜していくこととなったのです。
この事態を見かねた荀攸は他の名士らと共謀し、董卓暗殺を計画。
しかしいよいよ実行に移そうかという直前に、どこからか暗殺計画は露見。荀攸は仲間の一人である何顒(カギョウ)と共に逮捕、投獄され、そのまま死刑を言い渡されてしまいました。
この時、何顒は恐怖のあまり自殺したとありますが、荀攸は食事や取り締まりの時も平然としていたとか。
さて、いよいよ処刑されようかという荀攸でしたが、別の人物が画策した暗殺計画が発動したことにより董卓は暗殺され、荀攸は助け出されて一生を得ました(あるいは他の人に頼んで董卓に命乞いしたため助かった説もあり)。
ともあれ、董卓の専横下を何とか生き延びた荀攸は、その後官職を辞めて長安を帰郷。太守に任命されたものの赴任しませんでした。
後に自分から天然の要害に囲まれた辺境の蜀郡(ショクグン)太守に自分で望んで就任しましたが、未知が完全に封鎖されているため赴任できないまま、荊州(ケイシュウ)で足止めを食らう羽目になってしまったのです。
これによって、中央からの離脱という目論みは完全に絶たれてしまったわけですが……これが最終的に、荀攸にとっては好機として働いたようです。
天下の軍師?
曹操が長安から脱出してきた漢帝を保護すると、彼は荀彧の推薦もあって、荀攸に手紙を送ります。その内容は、
「天下が大いに乱れた今こそ、策謀の士が働く必要がある。なのに、蜀の地を望んだまま足止めを食らって、随分長いのではないか?」
早い話が、「中央から離脱なんかせずに、いっそ俺の力になれ」というわけですね。この言葉で荀攸は平穏な地に逃れることをあきらめ、曹操のブレーンとして働くことを決めます。
召しだされた荀攸は、すぐに汝南(ジョナン)太守、その後尚書(ショウショ:朝廷の文書管理)の仕事を任せることにしました。
また、かねてから荀攸のうわさを聞いていた曹操は興味津々で、すぐに荀攸と面談。曹操はすぐに彼を気に入り、「並の人物ではない。こいつと組めば怖いものなしだ」と評し、荀攸を軍師に任用。以後、荀攸は曹操軍の軍師として、その鬼謀を振るうことになるのです。
猛将殺すマン・荀公達
建安3年(198)に張繍(チョウシュウ)征伐に赴いた際、曹操は荀攸を随行させます。この時荀攸は張繍と背後の劉表(リュウヒョウ)の協力関係に目をつけ、
「一気に攻めれば彼らは成り行き上連携します。こうなると手ごわいでしょう。が、張繍は遊撃隊として動き、食料の供給は劉表に頼り切り。ならば、劉表からの食糧供給を断ち切って、張繍を離反させるのがいい策でしょう」
と献策。
しかし曹操はこれを聞かずに張繍を攻撃。結果、劉表を刺激することになり劉表は張繍に援軍を派遣。曹操軍は敗北を喫してしまいました。この時曹操は「君の意見を無視したばっかりにこれだよ」と悔しそうにしながらも笑って見せ、再戦では奇襲部隊を活用して勝利をもぎ取ることができたのです。
その後、徐州(ジョシュウ)に割拠している呂布(リョフ)の討伐にも参加。連戦連勝する曹操軍は、ついに呂布を下邳(カヒ)にまで追いつめる事が出来ました。が、精強な呂布軍との度重なる戦闘により曹操軍も疲弊しており、曹操は撤退を考えていた時。
この時も荀攸の目がキラリと光ります。彼は同じく軍師の郭嘉(カクカ)と共に、猛攻撃を主張します。曰く、
「呂布軍は連戦連敗で士気もガタガタです。呂布は強いです頭は悪く、彼自身の気鋭は大きく削がれています。また、参謀の陳宮(チンキュウ)も知恵はありますが決断力がありません。陳宮の計略が定まる前に、速攻をかけて一気に終わらせてしまいましょう」
曹操は彼らの案を採用し、堤防を切って下邳を水攻め。手も足も出ないままの呂布軍を撃破し、呂布を生け捕りにすることができたのです。
建安5年の官渡の戦いにおいても、その猛将キラーとしての頭脳はいかんなく発揮されています。
まず手始めに、現在をして袁紹(エンショウ)軍の二枚看板とまで言われている猛将・顔良(ガンリョウ)を計略を用いて撹乱。客将として参陣していた関羽(カンウ)をはじめとする軍勢を差し向けて討ち取ることに成功します。
その後、二枚看板の片割れである文醜(ブンシュウ)が攻撃を仕掛けてきた際も、輜重(シチョウ:兵糧などの輸送)部隊を囮にして文醜を誘い出し、陣形が乱れたところを急襲して彼も討ち取ってしまったのです。
とはいえ、これだけでは十倍ともいわれる袁紹軍に勝てるものでもありません。曹操軍は必死の抵抗を見せますが、ある時、ついに蓄えていた兵糧が尽きてしまったのです。そんな折、敵の輜重隊が官渡にもうすぐ到着するという知らせを受けました。
荀攸はすぐにそれを曹操に知らせ、輜重隊隊長の好戦的な性格を分析。徐晃(ジョコウ)と史渙(シカン)の二人を輜重隊撃破の任務に推薦し、これを許諾した曹操は、荀攸の言った通り二人に部隊を預けて輜重隊襲撃に無わせたところ、襲撃は見事に成功。袁紹軍の輜重は軒並み焼き払われたのです。
が、これでも袁紹軍の勢いは収まることもなく、まだまだ豊富な物資も尽きる様子はありませんでした。
そんな折、袁紹軍の参謀の一人である許攸(キョユウ)が曹操軍に投降。大規模な兵糧輸送部隊が烏巣(ウソウ)に集結しており、ここを攻撃すれば勝てると進言。
諸将は許攸の投降を怪しんだのですが、参謀である荀攸と、同じく参謀として参戦していた賈詡(カク)だけは許攸の意見に賛成。官渡城の守りに曹洪(ソウコウ)、そして荀攸を残し、烏巣に襲撃を仕掛けに向かいました。
その後、烏巣の攻略に成功すると、官渡を攻撃していた軍の大将である張郃(チョウコウ)と高覧(コウラン)が曹操軍に降伏。防衛部隊大将の曹洪はこの投降を怪しんで城に入れようとしませんでしたが、荀攸が「自身の計略が採用されなかったから腹を立てて降伏したのです。疑う必要はありません」と助言したため、曹洪は納得して二人を城に迎え入れたのです。
曹操の軍事的ブレーンとして
建安7年(202)に袁紹が病死すると、曹操はすかさず袁紹量の切り崩しにかかりますが、この時は上手くいかず撤退。
しかし曹操が袁紹領から目を離して、袁紹の盟友であった劉表(リュウヒョウ)を攻撃する姿勢を見せると、安堵したのか袁紹の息子たちの間で後継者争いが発生しました。
袁紹の長子・袁譚(エンタン)が弟の袁尚(エンショウ)との戦いで劣勢に立たされると、曹操との和睦を決意。救援要請の使者を立てたため、曹操は多くの家臣と共に袁譚の和睦を受け入れるかどうかを審議することになりました。
多くの家臣は、「それより劉表が強力なので、袁兄弟など無視したら良いでしょう」という意見でほぼ統一していました。が、荀攸は劉表が領土固持に執着して天下取りの動きを見せないのを理由に、
「袁紹領内で争いが起きている間に、それに付け込んで北を平定してしまいましょう。どちらかが倒れ、袁家の力が一つになってからではまた脅威になり得ます」
と主張。
かくして、曹操は荀攸の意見を採用して袁譚に援軍を派遣。大義名分を得て袁尚の領土に攻め込んで、大きく北に勢力を伸ばしたのです。
その後案の定袁譚が裏切ると、その袁譚の軍も粉砕し、彼を討ち取ることに成功。
結局曹操の北伐は6年もの歳月を要することになりましたが、その後も落ち延びた袁尚やその兄・袁煕(エンキ)、それらに手を貸していた北方の烏丸(ウガン)族の部隊も撃破。無事に河北一帯を抑えることができたのです。
荀攸もまた曹操に多大な感謝を示され、陵樹亭侯(リョウジュテイコウ)、つまり領土持ちの侯爵に封じられたのです。
さらには北方の領土が安定してから大々的に行われた、曹操臣下の褒賞会でも、荀攸は叔父であり曹操軍の大ブレーンである荀彧に次ぐ褒章を受け、領土も加増。中軍師(チュウグンシ)に任ぜられ、軍事策謀家としての栄誉を極めたのです。
魏公国が設立すると、荀攸は尚書令(ショウショレイ:上奏文管理の最高職)に任命され、翌年である建安19年(214)には孫権(ソンケン)との戦いにも参加する予定でしたが、随行する途中で病死。56歳でした。
曹操は荀攸を思い出すたびに涙を流すと言われるほどにその死を悼み、また、彼の策謀を本にまとめようとしていた鍾繇(ショウヨウ)からも大いに悲しまれたのです。
諡は敬侯(ケイコウ)。彼が慕われていたことがよくわかる追号です。
評価
三国志を編纂した陳寿(チンジュ)からは、こう評価されています。
思慮は深く緻密。判断処理能力と危険を避ける英知に長けていた。
曹操の軍事行動に参加するようになってからは、陣幕の裏で何かしらの計略を練っていたが、その詳細を知る者は誰もいなかった。
曹操も荀攸を
外面は愚鈍で臆病、ひ弱に見える。が、内面はその逆で、英知と勇気にあふれた剛毅の人。偽善者ぶることもなければ面倒事は人に押し付けない。その英知には近づけるが、(パッと見「の)愚鈍さには近づけない。その在り方は、過去の高名な儒学者でも彼には及ぶまい
と評しており、息子の曹丕(ソウヒ)にも「あれこそ人の手本だ。礼を尽くして尊敬しなければならんぞ」と伝えています。
また、その曹丕も荀攸には特別な敬意を表し、荀攸が病気になったときには、その場には曹丕一人しかいないのに拝礼をとったとも言われています。
また、荀攸の友人である鍾繇も「何度も練り直し、思いつく限り最善の手を考えてから荀攸に意見を求めたつもりだった。なのに、彼の考えはいつも私の上を行く」と答えていました。
また、この鍾繇だけは荀攸の立てた12の秘策を知っており、その内容を編纂して本にまとめようとしたそうですが、結局出来上がる前に亡くなってしまい、世に伝わることはなかったのです。
くっそ、俺もそれ知りたかったのにくっそ!!
ともあれ、あからさまに「頭がいい」逸話や献策の功績を多く持つ荀攸。彼の秘策の一端は、孫子の「彼を知り己を知る」にある……と思う←
なんにせよ、飛び抜けた情報分析能力と現状打破の作戦能力を持っていた荀攸。ついに無双シリーズへの出演も決まりましたし、ここから一気に有名になることを祈るばかりです。
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