魏って、無駄に人材充実してるよね

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于禁 文則

 

 

生没年:?~黄初2年(221)

 

所属:魏

 

生まれ:兗州泰山郡鉅平県

 

 

人物伝・魏書

 

 

 

于禁(ウキン)、字は文則(ブンソク)。巷ではゴミ武将だのチ禁だのクズだの、言いたい放題言われている残念武将の一人ですね。

 

ここまで言われる理由については明白ですし、擁護しきれない部分も確かにありますが……ちょーっと叩かれ過ぎじゃないかと個人的に思う毎日。

 

 

ゲームでもチキンだったりオカマだったり、意味もなく女性だったり嫌味な奴だったりで、なかなか日の目を見ない于禁。しかし、事績を追ってみると、この人ほどすさまじい名将もなかなかいないと言われるレベルの超大物だったりします。

 

 

 

 

曹操配下に取り立てられる

 

 

于禁ははじめから曹操配下だったわけではなく、曹操の盟友である鮑信(ホウシン)配下の兵士として、黄巾の乱のころから彼に仕えていました。

 

 

しかし初平3年(192)に、鮑信らが割拠していた兗州に、青州で活動していた大規模な反乱軍が押し寄せてきて、鮑信の上司である劉岱(リュウタイ)は戦死。

 

鮑信はかねてより親交を結んでいた曹操と結んで反乱軍と戦いますが、主の鮑信もこの戦いで戦死してしまったのです。

 

 

結局戦いは曹操や鮑信らの奮戦により勝利に終わりますが、主君と仕事を失ってしまった于禁は、その後主君の盟友であった曹操に合流。彼の配下に取り立てられて、都伯(トハク:部隊長)として、曹操軍の将軍である王朗(オウロウ)の指揮下に入ることになりました。

 

 

しかし、この王朗は于禁の非凡な才能を見て「大将軍でも勤まってしまう大器である」と絶賛。

 

王朗から推薦を受けた于禁は曹操と面会し、すぐに軍司馬(グンシバ:一軍の部隊長)に任命され、鮑信の忘れ形見として今後を期待されるようになったのです。

 

 

 

 

本当に元兵士か?

 

 

さて、こうして曹操軍の指揮官となった于禁ですが、まず曹操は手始めに、徐州(ジョシュウ)への侵攻に彼を随行させます。

 

そこで曹操は局地戦の大将として起用し、お手並み拝見と広威(コウイ)の城を攻撃させますが、これを見事に攻略。指揮官としての(おそらく)初戦闘にもかかわらず白星を挙げた于禁は、陥陣都尉(カンジントイ)の階級を与えられました。

 

 

その後本拠地である兗州で呂布(リョフ)を中心とした反乱がおこると、于禁は呂布の籠る濮陽(ボクヨウ)の攻撃部隊に参加。ここでも別動隊を率いて敵陣を2つ陥落させ、その後別の戦いでは敵軍を撃破するなど、指揮官初心者とは思えない活躍ぶりを披露します。

 

さらにその後行われた、裏切り者である張邈(チョウバク)の弟である張超(チョウチョウ)討伐や黄巾賊の征伐にも参加し、連戦連勝。

 

特に黄巾との戦いでは夜襲を仕掛けられたにもかかわらず、直属の兵を率いて逆に敵将を討ち取るほどの活躍ぶり。

 

これでつい少し前まではただの兵士だったのだから、驚きです。

 

 

続けて校尉(コウイ:高級指揮官)に昇格した後、袁術(エンジュツ)との戦いでも大活躍し、袁術軍将軍を4人も討ち取るという大金星を挙げています。

 

 

 

厳然たる指揮官

 

 

于禁属する曹操軍は日に日に勢力を拡大し、順調に台頭していきますが、ある時、一度曹操に降伏していた張繍(チョウシュウ)が、曹操に反旗を翻したのです。

 

突然の行動に曹操軍は一気に瓦解。曹操も逃げ出し、全軍が慌てて曹操を捜索する大混乱に陥ってしまったのです。

 

この大混乱には于禁の軍勢も巻き込まれましたが、この混乱の中にあって于禁の軍だけは整然と陣形を維持。死傷者こそ出しましたがひとりの離散者もなく、追撃してくる敵を打ち払いながら退却したのです。

 

 

 

さて、その退却の途中に、于禁は裸のまま逃げてくる曹操軍の兵士を見かけます。捕まえて話を聞くと、「曹操お気に入りの青州兵(セイシュウヘイ:元黄巾軍の、曹操軍最精鋭部隊の一つ)に略奪されて逃げていました」とのこと。

 

「同じ曹操軍の一員でありながら、悪事を働くとは何事か」と怒る于禁。

 

この行動の一端に元主君の恨みがあったかは定かではありませんが……于禁は即座に略奪に夢中になっている青州兵の部隊を攻撃、一気に潰走させてしまいました。

 

 

繰り返しになりますが、青州兵は曹操のお気に入り部隊。当然、攻撃された青州兵は曹操に于禁の行動を曹操に報告し、あることない事のデタラメを吹き込みます。

 

対して于禁、すぐに曹操の元に釈明に向かう……のではなく、まず敵に備えての陣営を建築。

 

 

「青州兵があなたの事を訴えています。すぐに事実を話さないと処罰を受けてしまうかもしれませんよ」という声もありましたが、これに対して于禁は、「ここは敵中だ。将ならばまず、いつ来るかわからない敵に備えるのが先決。それに殿は聡明なお方だ。デタラメを無暗に信じる方ではない」と一蹴。

 

 

塹壕を掘って陣営の構築を一通り終えてから、于禁はようやく曹操に謁見。

 

于禁から詳しい事情を聞いた曹操は、この于禁の行動を喜び「よく節義をわきまえている。古の名将と言えども、ここまで立派な行動は取れまい」と絶賛。戦いが終わった後に于禁は益寿亭侯(エキジュテイコウ)に任じられ……早い話が、独自の領土を封じられたのです。

 

 

 

 

 

 

 

鉄壁于禁?

 

 

その後、曹操は河北の群雄・袁紹(エンショウ)と開戦。両者の領土に挟まれた緩衝地帯のいざこざから始まった初戦は、于禁他、多くの招聘の活躍により袁紹方に属した将兵の討伐という形で勝利しました。

 

が、それでも袁紹の力は強大。軍事力も物資の豊富さも、曹操軍を遥かに上回るものだったのです。

 

緩衝地帯を失い、よいよ衝突が間近に迫ったとき、于禁は対袁紹軍の戦いでの先陣を希望。于禁の心意気を買った曹操は彼に2千の兵を預け、延津(エンシン)の城を守らせます。

 

 

そんな折、一度は曹操の部下に収まったものの牙を研いでいた劉備が、ついに徐州(ジョシュウ)で離反。曹操は自ら軍を率いて劉備討伐に向かいました。

 

こうして手薄になった延津の城に、とうとう袁紹軍が来襲。大兵力で攻め立てますが、于禁は頑として城を守り、これを追い払うことに成功。

 

 

 

曹操が戻った後に袁紹の攻撃は本格化。手始めに、白馬(ハクバ)にある別の城を、敵将・顔良(ガンリョウ)が攻撃します。

 

対して曹操は囮作戦を実行。于禁と合流してきた楽進(ガクシン)を共に5千の兵を率いさせ、袁紹軍の陣営に逆襲を仕掛けさせます。この囮に乗った顔良は、すぐに兵力を分断。軍勢は手薄になり、結果として顔良を討ち取ることにつながったのです。

 

 

その後も于禁は楽進と共に延津の南西に布陣していた袁紹軍を打ち破り、数千という敵の首と多くの捕虜を連れて帰還。ついでに袁紹軍の陣営をもう一つ打ち破る活躍を見せ、于禁はついに裨将軍(ヒショウグン:下位将軍職)に昇進しました。

 

 

その後も計略で第二陣の対象・文醜(ブンシュウ)をも討ち取った曹操軍ですが、これでも袁紹軍の数は強大。曹操軍は本陣を置いている官渡(カント)の城に追い込まれ、さらには毎日のように降り注ぐ矢の雨によって曹操軍の指揮も低下する有様でした。

 

しかしそんな中、于禁は防衛網の兵士を指揮して力戦。この行動が味方の士気を上げ、最後のラッキー逆転勝利まで曹操軍を戦わせることができたとか。

 

 

 

厳しさは時に……

 

官渡に勝った事で、于禁は偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。その後曹操軍は、袁紹の死を皮切りに河北の領土を平定。ついに袁紹の本拠地であった冀州(キシュウ)を手中に収めます。

 

そんな折のこと。建安11年(206)に、昌豨(ショウキ)という人物が反乱を起こし、于禁はこれの征伐に赴きました。

 

 

友軍の支援もあって、なんとか昌豨を追い込むことに成功した于禁は、彼の城を包囲。ここでようやく昌豨は投降し、旧友であった于禁を頼って出頭してきます。

 

ここで于禁の指揮下であった将軍らは、昌豨の身柄を曹操の元に送るよう提言します。そして当然、普通ならばそうするのが正しい対応だったのですが……

 

 

 

実はこの昌豨、過去に一度曹操軍を裏切り、徹底的に苦戦させていたのです。

 

 

「法律には、『包囲されたからの降伏は許されず、処刑されるべき』とある。私が友情を大事にし、この節義をふいにしてよいはずがあるか」

 

 

諸将に対しそう語った于禁は、自ら昌豨の元を訪れ、涙ながらに別れの挨拶を告げて、彼を処刑したのです。

 

 

この時曹操も近くまで来ていましたが、この知らせを聞くと、「于禁を頼った時点で、昌豨の運命は決まっていたのだろう」としみじみ語り、節義を重んじた于禁をより重宝することにしたのです。

 

 

 

その後さらに将軍としての地位を挙げた于禁は、元袁術配下で山賊に落ちた反攻勢力の討伐に参加。山賊勢力は降伏と離反を繰り返していましたが、于禁はこの時討伐軍のための兵糧輸送を担当しており、輸送を絶やすことがなかったそうです。

 

結果として、討伐軍の大将であった張遼(チョウリョウ)は勢力の撃滅に成功。首魁らの首を見事に挙げたのです。

 

 

 

 

落陽

 

 

ここまで大活躍だった于禁でしたが、その晩年はあまりにも恵まれない、ここまでの超出世の反動と呼ぶにも大きすぎるものでした。

 

建安24年(219)、益州に大勢力を設けていた劉備軍の関羽(カンウ)が、荊州から北上し、曹仁(ソウジン)の籠る樊城(ハンジョウ)を包囲します。

 

関羽の勢いはすさまじく、曹仁は手持ちの兵力が劣勢だったのもあり樊城に押し込まれ、防戦するも身動きが取れない状態だったのです。

 

 

そこで于禁は、7軍(3万くらいと言われる)を率いて曹仁の救援に急行。

 

 

しかしその途上、とんでもない事故が起きます。

 

 

数ヶ月続いていた長雨によって、なんと近くにあった川が氾濫し大洪水が発生。周囲は水に流され、于禁の軍勢も完全に水没し、誰もが身動きをとれなくなってしまいました。

 

しかもそこに、関羽の軍勢が大船に乗って登場。ろくに戦えない于禁の軍勢を攻撃し始めたのです。

 

 

事ここに至ってはと、于禁はやむなく関羽に降伏。率いていた3万の軍勢の命はこれで守られましたが、代わりに于禁の名声は失墜。于禁の指揮下にいた龐悳(ホウトク)の軍が断固抗戦し全滅したのもあって、曹操すらも「あの于禁が……」と嘆息するほどであったと言われています。

 

 

その後于禁は、関羽の捕虜として行動していましたが、その関羽が敗死すると、今度は呉の孫権(ソンケン)の元に身柄を移されました。

 

孫権は于禁に対して敬意と礼儀を尽くしましたが、あくまでこの頃の于禁の世評は「裏切り者」。

 

 

特に傲岸クソジジイ剛直で知られる虞翻(グホン)からは、「降伏するような意気地なしが一丁前の面をしてんじゃねえよカス。殴り殺してやる」「故郷の音楽を聴いて泣いたら許してもらえるとか考えが甘ちゃんすぎるんじゃないですかねえ!?」などと散々煽られた逸話もあり、当時からして印象がかなり悪かったのが伺えます。

 

 

そんな壮絶なイジメのせいか、はたまた自分のふがいなさを恥じるせいか……2年後に孫権から護送されてきた于禁は白髪頭のやせこけた老人という風貌で、もはや当時の面影もなかったそうな。

 

 

曹操すでに亡き後、後を継いで魏帝国を打ち立てていた曹丕(ソウヒ)は、昔失態を犯した将軍を引き合いに出し、于禁を暖かく出迎えた……だけならよかったんですがねぇ。

 

 

この時の曹丕の暖かな対応は、たんなる嫌がらせ。

 

この後于禁が曹操の墓参りに行くのを見越して、曹操の墓に、樊城の戦いで勝利した関羽、それに敢然と立ち向かい憤怒する龐悳、さらには命乞いする無様な于禁という本人の羞恥心を徹底的に刺激する絵を描かれていたとか何とか。

 

結局これを見た于禁は、ふがいなさから発病しまもなく死亡。諡を厲侯(レイコウ)、意味合いとして「災いをもたらすクソ野郎」とされ、死後も散々辱められたのです。

 

 

 

 

 

 

厳しすぎる人物評

 

さて、そんな于禁を、三国志を歴史として編纂した陳寿が表した言葉がこちら。

 

于禁は、張遼、楽進、徐晃、張郃と共に一流の名将として、先陣や殿軍を代わる代わるに任されるほどに信頼された。

 

この中でも于禁の軍勢は厳然としており、敵の宝物を奪取しても個人の懐に入れることがなく、清廉潔白そのもの。そのため恩賞も非常に厚いものだった。

 

 

しかし、于禁自身は厳然としすぎるあまり周りから恐れられ、法と規律に厳しくし過ぎたために民心や兵の心をつかめなかった。

 

 

 

つまり清廉潔白で公平無私な人となりでしたが、潔癖症過ぎて人からのウケは悪かったというわけですね。

 

 

朱霊(シュレイ)という人が曹操から軍権を取り上げられた際に、于禁が朱霊の軍を吸収したという逸話がありますが……この時も朱霊以下、誰もがあえて逆らわなかった辺り、その名声……というか威名は圧倒的だったのでしょう。

 

が、やはり「怖がられるだけで愛されていなかった」というのは、やはりこういった逸話からも伝わってきますね……

 

 

過ぎたるは及ばざるがごとしと言いますが、于禁の場合は自他に厳しすぎるあまり、「自分に優しく人に厳しいゴミのような人物像」をあてがわれてしまったわけです。

 

 

その結果、三国志に注釈や信憑性を度外視した逸話なんかも取り入れて話を膨らませ、昨今に三国志を広めた裴松之は于禁についてこう語っています。

 

法律で許されないからと言って、友人を殺人欲のままに殺したような奴には、厲侯なんて諡はお似合いだ

 

かなりかみ砕いた言い方ですが……本当にこういう評価を下されているのだから救いがありません。

 

ようは、「殺人欲に溺れて友達すらも平気で殺すサイコパス野郎」と……。

 

 

もっとも、裴松之の意見は妙に偏っていることがあるというか……一部の人物を、まるで史書を無視したような貶め方をすることがしばしばあります。この辺は本人の主観か、はたまた当時のお国柄によって無理矢理言わされただけかははかり知れませんが……

 

 

何にせよ、厳然粛然とした態度を自ら取る、自分にも人にも厳しすぎる性格が災いし、最期の最期で彼を恐れていた人々から手のひらを返された感じはあります。

 

 

自身の降伏を最後まで恥じたり、散々抽象してきた虞翻をむしろ評価するような言い回しをしたりなど、根は繊細な善人のような部分が見え隠れしますが……

 

厳粛さを盾に好き勝手した器の小さいクソ野郎か、はたまた厳格さの裏の優しさと繊細さを誰にも悟られなかった哀れな人格者かは、その人の解釈に委ねられるのでしょうね。

 

 

樊城でろくに戦わず(戦えず)に降伏した彼の心情は、如何なものだったのか……

 

 

 

 

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