夏侯淵 妙才
生没年:?~建安24(219)年
所属:魏
生まれ:豫州沛国譙県
夏侯淵(カコウエン)、字は妙才(ミョウサイ)。夏侯惇(カコウトン)とは従兄弟同士。つまり、曹操(ソウソウ)とは血縁関係にある武将ですね。弓の名手・黄忠(コウチュウ)に討ち取られたという事で、演義では弓の名手として出ていますが、正史にそんな逸話は見つからず。
それどころか、ライバルとして書かれた黄忠にすら弓の逸話は存在しないという有り様。
ならば、この夏侯淵はどんな人物だったのか……今回は彼の伝を確認していきましょう。
義侠の勇将
まだ曹操が兵を挙げて独立する前のこと。官吏として働いていた曹操は、何をやらかしたのかはたまた冤罪か、官職にまつわる何かの事件で有罪判決を受けたことがありました。
この時、曹操のために名乗り出たのがこの夏侯淵。彼は曹操の身代わりとして、罰則を自ら受けるようにしたのです。
しかし、ひそかに義侠大好きの曹操。夏侯淵の義侠心にほれ込んでか責任感か、はたまた親族の情けか……結局夏侯淵を見捨てきれなかった曹操にうまい事助け出され、九死に一生を得たのです。
その後挙兵した曹操に当初から付き従い、別部司馬(ベツブシバ:非主力隊隊長)や騎都尉(キトイ:近衛隊長)、さらには陳留(チンリュウ)や潁川(エイセン)といった、曹操軍の中枢都市の太守を歴任。
官渡(カント)の戦いでは督軍校尉(トクグンコウイ:大将軍督軍の補佐、つまり軍で一番偉い人の軍事統括の補佐官……らしい)を代行。
後に意外な才能を開花させたようで、曹操軍総出で旧袁紹(エンショウ)領を切り落とす際には、後方支援として兵糧の管理・輸送を担当。まだまだ貧乏所帯だった曹操軍の数少ない兵糧を、見事に切らすことなく各戦線に分配。単に勇猛なだけでなく、兵站管理までこなせる勇将だったのです。
昌豨(ショウキ)の反乱の際には、苦戦する于禁(ウキン)の支援に参陣。またたく間に昌豨軍の屯営(陣)を10ほど陥落させ、彼を降伏させることになったのです。
その後、夏侯淵は、かつて曹操も務めたことがある典軍校尉(テングンコウイ)に昇進。
黄巾の反乱勢力が城を攻め落として領土を荒らすようになると、夏侯淵は自ら周辺の兵を集めて首謀者を討ち取るなどの大勝利を飾って各地を平定。また、この時も手に入れた敵の兵糧を各部隊に回すなど、地道な兵糧輸送も忘れませんでした。
建安14年(209)、赤壁で敗北した曹操が戻ってくると、行領軍(コウリョウグン:本陣防衛の総司令官)として諸将を率い、孫権・劉備軍に寝返っていた雷緒(ライショ)の軍勢を撃破。
雷緒討伐後は、行征西護軍(コウセイセイゴグン:西方討伐軍司令官?)となり、徐晃(ジョコウ)を伴って太原郡(タイゲングン)の賊徒討伐に出立。自らも軍を率いて20あまりの屯営を陥落。ここでも根城を壊滅させ、首魁を討ち取ったのです。
さらには曹操に随行し、馬超(バチョウ)、韓遂(カンスイ)ら西方軍閥の反乱征伐にも参加。朱霊(シュレイ)らを率いて別動隊を指揮、行軍ルート付近にいた異民族である氐(テイ)族の軍勢を撃破し、曹操との合流後も叛逆した軍閥の一人、揚秋(ヨウシュウ)を降伏させました。
西方の指揮官
建安17年(212)には、曹操は鄴(ギョウ)に帰還し、夏侯淵を一方面軍指揮を任せるとして行護軍将軍(コウゴグンショウグン)に任命。以後、彼に西方での反乱部隊鎮圧を一任します。
まず夏侯淵は、周辺のどさくさ紛れで決起していた賊徒を壊滅させ、反乱軍の一人である梁興(リョウコウ)を討ち取ってこれを撃破。
幸先の良いスタートを切りだし、博昌亭侯(ハクショウテイコウ)、つまり領地・爵位持ちの諸侯に封ぜられました。
しかし、相手は不屈強兵の西涼軍閥。建安18年(213)には馬超自ら逆襲に転じ、涼州刺史(リョウシュウシシ:長官)であった韋康(イコウ)を取り囲みます。
夏侯淵はすかさず援軍を送り込みますが、馬超の猛攻はすさまじく、援軍が届く前に韋康は戦死。勢いに乗る馬超はすでに群雄として息を吹き返しており、夏侯淵の軍勢は敗北。さらに氐族も馬超の復活に呼応する形で反乱を起こしたので、やむを得ず撤退することになってしまいました。
しかし、群雄として意気を挙げる馬超の軍勢も一枚岩ではなく、やむなく馬超に降っていた趙衢(チョウク)や尹奉(インホウ)らは馬超を罠に嵌めるべく策を練っていました。
そして翌年の建安20年(214)、馬超討伐計画を知っていた姜叙(キョウジョ)が反馬超の兵を挙げて挙兵。趙衢(チョウク)らの説得により馬超自らが姜叙討伐に向かいますが、出陣後に城内で反乱が発生。馬超の妻子を皆殺しにし、馬超軍の本拠地を制圧することに成功します。
この動きに危険を感じた馬超は、いったん漢中(カンチュウ)の群雄である張魯(チョウロ)の元に避難。しかしすぐにまた戻ってきて、自分を裏切った姜叙を討伐するために攻撃を開始します。
姜叙から救援要請を受け取った夏侯淵は、「いったん曹操様の指示を待った方がいいだろう」と意見する諸将らを抑え、「もたもたしていると姜叙は敗北するのは見えている」と主張。
指揮下にいた張郃(チョウコウ)を先遣隊として派遣し、自らは兵糧の管理と後詰を担当しました。
さて、張郃の軍を見た馬超は交戦の構えを見せましたが、実際にぶつかると危険と見て戦う前に逃亡。夏侯淵が到着する頃には、張郃は馬超軍の兵器を回収し、さらに馬超に与した諸県を平定した後のことでした。
西涼掃討
さて、こうして馬超が脱落し、敵は韓遂のみに的が縛られたわけですが……まだ韓遂の後方には氐とは違う異民族である羌族(キョウゾク)が控えており、彼らの協力がある限り韓遂を打ち破るのは厳しいと判断。
そこで、まず後方の羌族拠点を攻撃。韓遂の軍勢に合流している羌族兵士を動揺させ、韓遂を城から引きずり出す作戦を立案します。
作戦に勝算を見出した夏侯淵は部下に輜重守備を任せ、自ら歩兵と騎兵を率いて羌族拠点のある長離(チョウリ)に進軍。敵の陣を焼き払い、多くの羌族を生け捕り、あるいは討ち取ることに成功しました。
これを案の定見過ごせなくなった韓遂は、堅固な城を捨てて救援部隊を率いて長離に進軍。夏侯淵の部隊と対峙することになりました。
しかし、韓遂の軍勢は多勢。恐れをなした諸侯は塹壕を掘って防御陣を敷いての持久戦を提案しますが、夏侯淵はこれを却下。
「長距離を動いたばかりで、兵の疲れも溜まっている。対し、今、敵は統率力が低い状態になるのだ。このまま攻めるのが上策」
そう判断した夏侯淵は、兵を鼓舞して敵軍に猛攻を仕掛け、韓遂の軍勢を大破。
その後も敵城を攻めて包囲する夏侯淵軍の様子を見た氐族の王は馬超の元に逃げ、軍勢は降伏。これによって一気に西涼の乱は収まる様子を見せ、夏侯淵は仮節(カセツ:配下に刑罰を与える権利)が与えられました。
同年、混乱に付け込んで勢力を拡大し、とうとう王を自称するようになっていた宋建(ソウケン)を討伐。一回の戦いで本拠地を陥落させ、宋建と彼が勝手に任命した官吏らを処断し、さらに別動隊として張郃を遣って羌の部族を軒並み降伏させたのです。
これには曹操も「30年以上も跋扈していたあいつが一撃か……」と驚嘆し、領土も加増されたそうな。
その後曹操が張魯討伐の軍を起こすと、異民族を平定しつつ曹操軍に合流。張魯が降伏すると、曹操は再び征西軍の指揮を夏侯淵に任せ、行都護将軍(コウトゴショウグン:大都督的な意味合い……とか)に任命。蜀の地である巴郡(ハグン)平定に赴きます。
さらには曹操が魏の本拠地:鄴に戻ると征西将軍(セイセイショウグン:西方担当の総大将的な役割)に任命され、対西方の総大将として、諸将を統括する立場にまで上り詰めました。
性格が災いして……
こうして征西将軍に任命した夏侯淵ですが、まだまだ難しい情勢が続きます。
というのも、益州を平定した劉備とのにらみ合いは、すでに数年にも続いていたのです。
そして建安23年(218)、夏侯淵と睨み合う中、劉備はさらに進軍し、漢中近くの陽平関(ヨウヘイカン)に布陣。一気に熱が高まります。
情勢が動いたのは建安24年(219)の時。
劉備軍は夏侯淵の軍の防壁の逆茂木に火をかけ、陣の防御力が低下。
さらに夏侯淵軍の東を守っていた張郃の軍勢が劉備軍の襲撃を受けて敗勢に陥り、救援必至となってしまったのです。
そこで夏侯淵は、自身の率いていた兵力の半数を張郃軍救援に派遣。その時、機を待っていたかのように夏侯淵を囲んでいた劉備軍が一斉に攻撃を開始。
少ない兵力で何とか耐え忍ぼうとしますが、総大将である夏侯淵は戦死。黄忠の軍勢に攻め立てられての事だったと言われています。
後々、周囲に推された張郃が臨時の総大将として懸命に防衛することで、援軍である曹操本隊の到着まで耐え忍ぶことが出来ましたが、夏侯淵戦死の影響は大きく、結局この戦いは巻き返せずに撤退となってしまったのです。
諡は愍侯(ビンコウ)。愍の字は「哀れ、かわいそう」という意味だとか。彼の跡は長男の夏侯衡(カコウコウ)が引き継ぎ、後に他の息子たちもそれぞれ取り立てられていきました。
義侠の塊?
さて、夏侯淵の逸話には、
飢饉のときに飢餓状態に陥り、その時には幼い我が子を捨てて、亡くなった弟の娘を救った
という逸話があり、彼の義侠心を表す美談として語られています。
んー……ん?
まあ昨今の価値観と当時の価値観はまるで違うものでしょうし、当時でいえばかなりイケメンな行動に見られたのでしょう。やっぱ儒教って頭おかしい
夏侯淵の能力についての言及
さて、少し能力にも触れてみましょう。
夏侯淵は弓の名手として知られていますが、そんな逸話はなく、むしろ速攻や奇襲と兵糧管理に特化したような人物だったように見受けられます。無論、正攻法にも強いですが。
その証左として、当時はこんな合言葉(?)があったとか。
典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で千里
要するにこれ、夏侯淵の異常なまでの行軍スピードをほめてのことですね。語呂の良さが心地いい←
しかし反面、軽率さやおつむに関しては周囲の評価は辛口で、曹操も
「司令官になったんだから臆病さも併せ持ちなさい。武勇と勇気は基本の素質だが、知略も用いて行動するのが大事。勇猛さだけで戦っても一人を相手取るので手いっぱいになるぞ」
と忠告していました。
さらに夏侯淵を討ち取った際に劉備も「夏侯淵より張郃怖い」みたいな供述をしており……まともに相手をすると強いけども策を用いれば案外あっさり倒せる、そんな人物として軽視されていたのがわかります。
なんにしても、勇猛で戦争にめっぽう強いものの一局面にしか対応できない短所が最期に災いとなり、敵の計略に踊らされて敗死につながったのは間違いないですね。
ちなみに討ち取られる寸前の描写については、別の伝には「夏侯淵は逆茂木の修理をしていて奇襲を受けた」ともあります。おい司令官……
韓遂討伐の記載を見るに、少なくとも地頭は悪くないはずなんですが……どうしてこうなった。
夏侯淵の子供
最後に、夏侯淵の子供たちについても別記に記述がありますので、そちらも軽く記載。
名前 字 | 続柄 | 解説 |
---|---|---|
夏侯衡 |
長男 | 長男だが、これといった逸話もなく本当は字すら伝わっていない。
曹操の姪をめとり、夏侯淵の後を継ぐ。その後何事もなく病死し、しっかりと子供に跡を継がせた。 |
夏侯覇 |
次男 | 一番有名な人。無双では覇二-とかいうよくわからないあだ名がついている。
父の仇討ちに燃え奮戦するが、司馬懿のクーデターにより従弟も連座して処刑されると、危機感を抱いて父の仇である蜀に亡命。 |
夏侯称 |
三男 | ガキ大将で、夏侯淵自ら見どころを見出した大物。しかし夏侯淵自身がぴったりだと思って選んだ書物を「好きにするわボケ。人に学ぼうとか思わねーしwww」と結局読まずじまいだったらしい。
ある時夏侯淵と一緒に仮に出掛けていた時、あろうことか逃げている虎を狙い、父の制止も聞かず一矢で仕留めてしまう。
おそらく演義での弓の名手と無双シリーズでのいわゆる「淵ジェル」の設定はこの人との逸話から参考にしたものと思われる。
また地頭も良いようで、名士を論破して回り有名人に。曹丕からも対等の扱いを受けるが18歳で突如死亡。 |
夏侯威 |
四男 | 男気で知られる生きのいい四男坊。
在命中は高官を歴任し、さらに息子まで優秀で別事取り立てられた。このひとが多分一番大成してる。 |
夏侯栄 |
五男 | チラッと見ただけの顔と名前を一発で必中させる驚異の記憶力の持ち主。
父の死に際し、「主君と肉親の危機に逃げるなどできるかぁぁ!!」と剣を振り回し、暴れ回って父共々戦死。 |
夏侯恵 |
六男 | 剛勇の父とは似つかぬ文官。若くして才知と学に秀で、特に上奏文を書くなどの文才に優れていた。
鍾会の兄とはよく討論になっていたが、彼のほうが一枚上手だったらしい。 |
夏侯和 |
七男 | どうしてかこちらも文官肌。
才気利発な弁舌家で、彼も文官職を歴任。 |
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