【孫権伝3】呉帝君臨


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【孫権伝3】呉帝君臨

 

 

 

 

魏蜀の間で

 

 

 

建安25年(220)に曹操が死去。その後を継いだ曹丕(ソウヒ)は、同年、漢王朝の皇帝に禅譲を迫り、漢に代わる新たな国家である魏を建立。

 

その翌年である黄初2年(221)には、お隣の益州でも劉備が皇帝の座に就き、漢の後継者を自称する蜀漢帝国を樹立したことで、天下に皇帝が2人も存在するという異例の事態となりました。

 

 

一方の孫権は、ほとんど独立勢力とは言え、扱いは未だに魏の臣下。曹丕に媚びを売ることでなんとか呉王の地位に就くことはできましたが、王の位は帝の下。あくまで魏の下に立つ勢力であるという旗色はそのままに、虎視眈々と独立の機会をうかがうことにしたのです。

 

史書に目を通すと、この頃から息子に爵位を与えるという曹丕の計らいを頑なに遠慮したり、荊州の魏軍に対して侵攻にも似た不穏な動きを見せていたり……どう考えてもほぼ黒としか言いようのない動きを見せています。

 

そういう怪しい行動の一方で魏にはとことん遜っている辺り、この人やっぱり怖い……

 

 

こうして魏との腹の探り合いをしている中、荊州と関羽を失った劉備孫権領への侵攻軍を発足。関羽の仇、荊州を奪った裏切り者の討伐という大義名分のもと集まった蜀軍は士気が高く、正面切っての戦いは困難を極めました。

 

結局対峙は1年ほど続きましたが、黄武元年(222)、迎撃軍大将の陸遜劉備軍の疲労と遠征軍ゆえに伸びきってしまった戦線に着目。火攻めと水路を活かした強襲により劉備軍を徹底的に叩き潰し、国としての機能を完全に麻痺させるまでに至ったのです。

 

 

こうして蜀との荊州争奪戦に完全勝利した孫権は、その後蜀軍と戦う理由がなくなったため、すぐに和睦交渉を開始。元来勝者からの和睦提案はあり得ないことなのですが……この頃の孫権は、すでに別の敵の襲来を捉えていたのです。

 

 

 

 

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呉帝降臨

 

 

 

怪しい動きを常に見せたり、息子を人質に取ろうとしても拒否をされたり……孫権の明らかに臣従する気のない態度は、魏の面々からするとさぞ危険に映った事でしょう。

 

 

明らかな背信を続ける孫権に対して業を煮やした曹丕は、「外交戦ではキリがない」と見て、ついに呉と決裂。大軍を率い、揚州、荊州双方の計3路から一斉に孫権領に攻勢を仕掛けてきました。

 

 

 

しかし、この曹丕の攻勢を読んでいた孫権は、直ちに次代を担う武将らを各地に派遣し、魏軍を迎撃。途上で背後にて魏と結んだ将が反乱を起こす、孫策の代から仕える歴戦の将・呂範(リョハン)の敗北もあって、苦境に立たされますが、朱然(シュゼン)・朱桓(シュカン)らの奮戦もあって曹丕軍は撤退。この危機を何とか切り抜けます。

 

その後も曹丕はしばしば呉への攻撃を続けますが、すべていなされて不発のままに撤退。孫権は、完全に曹丕を手玉に取った形となったのです。

 

 

 

一方、内部は地元名士出身の曁艶(キエン)という人物が暴走して意に沿わない人物を弾劾し続けたことで恨みを買って失脚し、曁艶を推薦した張温(チョウオン)までも立場を失うなど、連合政権ゆえのまとまりの無さこそ問題になりましたが内政面は比較的安定。

 

おかげで刑法改定や農業の推進を始め、内政面の多くを改革することができたようです。

 

 

 

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しかし、黄武5年(226)に曹丕が崩御したと聞くと、再び魏に対する攻勢を強化。自身は江夏の石陽(セキヨウ)を攻撃、そして別動隊には襄陽(ジョウヨウ)を攻めさせます。

 

難攻不落の防衛線が曹丕の死により揺らいだ事を期待しての行軍となりましたが、すでに強固になった防衛線は易々とほころぶ物でもなく、数十日の包囲の後に撤退。

 

 

単独での攻略は不可能と見た孫権は、これ以降は蜀の北伐と合同する形での侵攻を画策するようになります。

 

 

さて、その後黄武7年(228)、前年に韓当(カントウ)の息子らが呉を抜けて魏に寝返ったという事件が起きたのを逆手に取り、孫権陸遜らと謀議して偽降作戦を実施。

 

太守をしていた周魴(シュウホウ)が魏に寝返ったように見せかけ、敵将・曹休(ソウキュウ)を領内の石亭(セキテイ)に誘引。罠に嵌めて大打撃を与えることで、魏の面目を丸潰れにして大いに揺るがすことに成功したのです。

 

 

 

そしてその翌年……孫権はついに呉帝に即位。魏を叩き潰し、そして漢王朝以外の王朝を認めない蜀も信念を曲げざるを得ないというタイミングでの、見事な呉王朝設立でした。

 

これには蜀の丞相・諸葛亮も異議を唱える事が出来ず、使者を出して祝賀を述べるしかなかったようです。

 

 

実のところ水面下の外交合戦では蜀を相手に劣勢気味だった呉ですが……この皇帝即位によって一気に立場を対等以上に戻すことができたと言えるでしょう。

 

 

 

 

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孫権三本の矢

 

 

 

さて、こうして三人の皇帝による完全な鼎立状態にまで状況を持っていった孫権ですが……その後の対外政策は、大きく分別して3つに分けられます。

 

1.対魏戦線

 

2.異民族討伐

 

3.フロンティア開拓(!?)

 

 

 

まず最初に動きがあったのは、2の異民族討伐。もともと山越族に苦しめられていた呉軍でしたが……実はこの時の対象は山越ではなく、荊州南部の武陵に住む雑多な民族だったようで、それもかなり大々的に行っています。結果的に捕虜や討ち取った兵の数は数万に上ったとか。

 

当然ながら山越らの反乱も頻発しており、こういった事業と同時にそれらにも当たらなければなりませんでした。嘉禾3年(234)にも大規模な反乱を鎮圧し、その軍を糾合。その数は6万にも及んだことが史書に記されています。

 

 

また、黄龍2年(230)には、以前交州で味を占めたのか、海を渡った海外に兵を派遣。新たな土地からの移民計画を立てましたが、慣れない気候により送り込んだ多くの兵が病気で亡くなる等、この開拓事業は失敗に終わってしまいました。

 

 

 

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さて、そして最後に残った対曹魏戦略。こちらは常々執念を燃やしていた合肥周辺の奪取、そして一方で不穏な動きを見せていた北端・遼東(リョウトウ)の公孫淵(コウソンエン)懐柔という二段構えで魏を追い詰めようとします。

 

 

まず、合肥攻略。これは一度煮え湯を飲まされた張遼がすでに病死しているのもあって攻撃に踏み切ったようですが……魏の人材層は厚い。

 

後任でやって来た満寵(マンチョウ)なる人物もまた歴戦の名将で、蜀の北伐に合わせて攻撃を仕掛けたものの、新たに建造された合肥新城を前に苦戦し、魏帝曹叡(ソウエイ)自らが軍を動かしたのもあって撤退。芳しい成果を上げることができませんでした。

 

 

 

 

そして一方の公孫淵に関しても……これまた上手くは行かなかった様子。

 

実は公孫淵という人物、一筋縄ではいかない奸雄で、孫権に臣従する姿勢を見せて取り入ってきたまではいいものの、嘉禾2年(233)に信用した孫権から燕王の位を引き出すと、用済みとばかりに孫権からの使者を処断。あっという間に魏に鞍替えし、呉の使者の首を魏に送還してしまったのです。

 

 

さらには赤烏2年(239)、公孫淵は魏に反乱を起こすにあたり、厚顔無恥にも孫権に救援要請の使者を派遣。

 

多くの群臣が反対する中、たった一人の「救援すべき」という意見に賛同して公孫淵への援軍を編成し派遣。

 

 

しかし途上で公孫淵はあっさりと討たれてしまったため、やむなく遼東に残存していた魏軍を攻撃して捕虜を得るにとどまり、はかばかしい進展もないまま撤退することとなったのでした。

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