【孫権伝1】若き麒麟児、天下に飛翔す


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【孫権伝1】若き麒麟児、天下に飛翔す

 

 

 

 

孫策の弟として

 

 

 

孫権は父の孫堅(ソンケン)が下邳県(カヒケン)に赴任しているときに生まれ、9歳の時に父が他界。その後は小覇王とも言われた群雄・孫策(ソンサク)の弟、そして彼を支える有能な家臣団の一人として史書に顔を出し始めます。

 

 

孫権の政治的台頭は、なんと15歳のころ。江東を平定して足場を固めた孫策に、いきなり陽羨(ヨウセン)県の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)に任命されたのです。

 

実は孫堅亡き後の孫家では、彼の直流になる本家が軒並み幼く、孫策に信用できるものが少ない。そのため、孫策は弟の孫権孫策を支える大きな柱としてのお鉢が回ったのかもしれませんね。

 

 

ともあれ、こうして政治の表舞台に立った孫権は、その後茂才(モサイ:官吏登用試験)に推挙されて、代行役としてではあるものの一応の官職も与えられ、着実に孫家の柱として重用されるようになります。

 

 

また、軍事においても孫策は彼に経験を積ませたかったらしく、孫権は劉勲(リュウクン)や父の仇・黄祖(コウソ)など、当時ひしめいていた強敵の討伐にも従軍。時には危機にさらされて命からがらという事件などもありましたが(周泰伝参照)、着実に孫家本流の一員として大きな存在となっていったのです。

 

「江表伝」には、孫権の若かりし日について詳しく載っています。

 

孫権は任侠と思いやりをもって多くの名士と接し、若くして兄・孫策と互角の名声を手に入れました。また、謀議や計略の類にはいつも孫権が参加して非凡な才を見せつけ、孫策も「俺以上だな」と内心感じていたとか。

 

しかし戦争についてはお察しのようで、幼少から孫策に付き従っている割には、功績について何一つ言及がないという……

 

 

 

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兄の後は私が継ぐ!

 

 

 

建安5年(200)、着々と版図を広げつつあった孫策軍に、激震が走ります。

 

 

当主孫策、暗殺者の手にかかり死亡。

 

 

 

孫策の息子はまだ幼い。群臣は孫策個人に仕えていたようなものであり、「孫策様に近い気質の人がいい」と思い立って、孫権の弟である孫翊(ソンヨク)を後継に推す声も小さくはない。さらには周辺は武力で制圧した直後で、未だに不服従派の人民は多い……

 

と、これまで孫策という大きな柱に寄り添ってきていた孫策軍は、巨星を失ったことで早くも瓦解の危機に陥ってしまったのです。

 

 

そんな中、死を間近に控えた孫策が選んだのは、孫権

 

「戦争はともかく、人心を活かした領土の経営はお前の方が上手だ」

 

孫策は臨終の際に孫家の瓦解を予知。これを止めるため、自分にない才能を持った孫権に、自身の官職である会稽(カイケイ)太守を移譲。

 

 

 

こうして孫策の死後その地位を引き継いだ孫権は、後見人に定められた張昭(チョウショウ)に背中を押される形で、喪をほどほどに、即座に軍内の巡回を開始。

 

さらには、まだまだ不安定な領内の名士を懐柔するために、上客として丁重にもてなして手元に置くようにしたのです。

 

 

こうして動向を見守り隙を伺っていた多くの臣下をあらためて自身の配下に止め置き、部下の離反を最低限に食い止めることに成功。

 

 

それでも従わなかった者らは、軍を進めて討伐。しばらくは曹操の外交的介入や山越(サンエツ)の不服従民などにも苦しめられたりもしましたが、孫権の手腕もあって瓦解という最悪の事態は回避。数年の年月を要したものの、だんだんと孫呉の土地は穏やかさを取り戻しつつあったのです。

 

 

 

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荊州戦線

 

 

 

さて、荊州(ケイシュウ)の玄関口である江夏(コウカ)の地には、父・孫堅の仇である黄祖なる人物が割拠しており、兄・孫策の代から熾烈に争いを繰り広げる等、その関係は険悪と言っても差し支えないものでした。

 

しかし、一方で孫権軍は南の側にも山越なる不服従民を多数抱えており、孫権が跡を継いで数年は、片方を叩いてはもう片方が攻めてきての堂々巡りに悩まされていました。

 

少なくとも、孫権と黄祖との戦いの記述は数えるだけでも建安8年(203)、11年(206)、12年(207)、13年(208)の4回。

 

 

いずれも孫呉の記録に残っているもので、おそらく孫権軍側が敗北した記述は全部カットされていることでしょう。そう考えると、かなり激しく戦っているのがわかります。

 

 

記録にある4回の内、建安11年のものを除く3回は侵攻戦。つまり、最低でも2回は攻めきれずに撤退しているわけですね。そしていずれも、山越による侵攻や妨害がちらつきます。それだけ、孫権にとっては障害が多く、そして大きいものだったとすいそくができます。

 

 

 

そして結局孫権が黄祖を打ち倒したのは、最初の激突から5年後の建安13年のこと。1度目の戦いで戦死した凌操(リョウソウ)の子である凌統(リョウトウ)や、黄祖から離反してきた甘寧(カンネイ)らの参陣や後方がようやく落ち着いたのもあり、本格的に黄祖討伐に乗り出すことになりました。

 

 

仇敵との最後の戦いは水軍戦となりましたが、先陣の呂蒙(リョモウ)、そして決死隊を率いた凌統、董襲(トウシュウ)らの活躍により、黄祖軍は瓦解。そのまま一気に城に乗り込んで城を攻略。黄祖も無事に討ち取ることに成功し、ついに孫権は仇敵の排除に成功したのです。

 

 

 

こうしてようやく覇業に向けて本格的な1歩を歩んだ孫権ですが……すでに曹操が中国北部を平定し南下を開始。孫権が江南全ての王として君臨するには、あまりに遅いスタートでした。

 

 

 

 

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赤壁の戦い

 

 

 

この年、曹操の本格的な侵攻を前に、お隣の荊州を治めていた劉表(リュウヒョウ)が病没。曹操の南下とこの事態に際し、孫権は黄祖から奪った城を占拠せずに撤退し、少しでも対曹操の味方を増やすために魯粛(ロシュク)を弔問の使者に向かわせます。

 

しかし、使者として向かった魯粛が到着するのを待たずして、荊州は曹操に降伏。

 

 

ここで魯粛は、独断で降伏反対派を糾合していた劉備(リュウビ)や諸葛亮(ショカツリョウ)と会見し、勝手に同盟を結ぶ方向に話をもって行ってしまいます。そして魯粛は、劉備の使者である諸葛亮を伴って孫権の元へ帰還。

 

一方で、孫権軍中では多くの臣下が曹操への降伏を決め込み、議論の多くは降伏すべしとの声で埋め尽くされている有り様。

 

 

そんな中に、当時大して影響力の無い魯粛が勝手に曹操に敵対する人物からの使者を連れてきたのですから、孫権にとっては胃が痛いことこの上なかったでしょう。

 

 

とはいえ孫権も実のところ抗戦側の意見に近かったのですが、張昭を始め実質的に決定権を持つ家臣は皆降伏寄り。抗戦を唱えようにも、群臣から見たら所詮は孫策の代わり程度の立場に過ぎない孫権にはどうにも言いようがないというのが実情だったのです。

 

 

結局事態に窮した孫権は、ここで亡き兄・孫策の旧友である周瑜(シュウユ)を任地から召喚。非常に大きな影響力を持つ彼に「曹操撃退すべし!」と唱えさせたことで、ようやく議論の立場が逆転。こうして、ついに曹操との開戦にこぎつけることができたのです。

 

 

 

周瑜は老臣・程普(テイフ)と分割して軍事権を握り、劉備救援のための軍を進発。赤壁にてついに数倍もの曹操軍と激突し、俗にいう赤壁の戦いが始まったのです。

 

 

一見無謀ともいえるこの戦いに望む周瑜には、実はしっかりとした勝算がありました。曹操軍は戦争に不慣れ。しかもこの時期は疫病も勃発しやすく、大軍といえども指揮が上手く取れないだろうと見越していたのです。

 

この読みはこの上ないほどに的中。周瑜の予見通り曹操軍は不慣れな水上での布陣と疫病に苦しめられ、病死者と戦闘不能者が大半を占めるようになりました。

 

こうして士気が減退したところに、ダメ押しとばかりに火計を発動。周瑜軍は、驚くほどにあっさりと曹操軍を撃退。その後、荊州に残留した曹操軍との激しい領土争奪を繰り広げるようになるのです。

 

 

 

さて、この一方、孫権は……

 

前後して、東の合肥(ガッピ)に攻めかかり曹操軍を包囲。さらには軍を分割して軍人ではないはずの張昭に別方面を攻撃させ、どちらもまともな戦果を挙げられず撤退というむなしい戦いを繰り広げていたのでした。

 

ここで合肥を取れていれば……

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