【孫権伝2】英傑覚醒


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【孫権伝2】英傑覚醒

 

 

 

 

奸雄劉備の陰謀

 

 

さて、赤壁の戦いに勝利したとはいえ、曹操軍主力の陸上部隊は未だに健在。特に南郡(ナングン)の曹仁(ソウジン)が目下一番の敵として孫権軍を待ち構えていました。

 

 

そこで孫権劉備と合同で、荊州南部から曹操軍を駆逐する動きをみせたのですが……この時の劉備が実にしたたかな動きを見せました。

 

 

 

なんと厄介な曹仁軍の相手を孫権に押し付け、自身は制圧難度の低い荊南の長沙(チョウサ)、桂陽(ケイヨウ)、零陵(レイリョウ)、武陵(ブリョウ)の4郡を制圧。周瑜らが実に1年以上も苦戦している間に、悠々と領土を広げていったのです。

 

孫権軍は苦戦の末にやっと南郡を確保しましたが、地理的には曹操領と面接。完全に劉備領を守る蓋のような形に収まってしまいました。

 

 

さらに劉備は、この動きとよりも前から荊南名士の抱きこみを始めており、すでに劉備の元には荊州名士の多くが参陣。荊南での影響力も、孫権をはるかに上回るものになってしまっていたのです。

 

 

 

老獪な立ち回りで美味しいところを持っていった劉備に対し、孫権は自身の影響力が劉備に呑まれて領有権を無くす前に、「荊州をお貸しします」という言いがかり名目をつけて南郡を割譲。あえて領土問題をうやむやにして煙に巻く形で領有権を握る事で、劉備との外交戦を辛うじて引き分けに持ち込むことに成功しました。

 

 

 

その後も、老獪な劉備に対して孫権は後手後手に回ってしまいます。

 

 

今度は孫権の方から先制を仕掛け、劉備に対し「合同で西の益州を取ろう!」と提案。これに対し劉備は「同族の劉璋(リュウショウ)が治めてる益州はちょっと……」と拒否。

 

にもかかわらず、単独で益州攻略に乗り出した周瑜が病死したのを見届けてから、劉備軍は突如益州の劉璋を攻撃。一気に各都市を平らげてしまったのです。

 

 

こうして外交では完敗に終わった孫権。しかし、この敗北によって何かが変わったらしく、以後の孫権は狡猾で底の見えない、恐ろしさをはらんだ英傑として覚醒していくことになるのです。

 

 

 

 

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曹操との戦い

 

 

 

さて、劉備との外交戦ではズタボロ、頼りになる周瑜も病死と散々な結果に終わった孫権ですが、一方で荊州の南に位置する交州では意外な戦果を得ることになります。

 

なんと交州全般を治めていた士燮(シショウ)なる人物が、孫権に服従を表明。

 

交州を指揮下に置いたことによって貿易ルートが拡大し、珍品などを手に入れることも可能になった孫権。彼はこれにより、中華内部の枠を超えた視点を持つようになるのですが……それはまた別の話。

 

 

 

さて、荊州問題が一応の決着を見せた後、孫権は気持ちを新たに、再び戦う構えを見せ始めた曹操の対応に着手するようになります。

 

 

まず、相手領との境目にある濡須(ジュシュ)に前線基地を作り、以後曹操侵攻を食い止める砦にしました。同時に、濡須にも近い秣陵(バツリョウ)を本拠地に定め、建業(ケンギョウ)と改名。

 

 

こうして準備を整えた後の建安18年(213)、ついに曹操が濡須に襲来し、孫権自ら率いる軍勢と睨み合いになりました。が、この時の衝突は小競り合い程度。対峙して1ヶ月ほどで、曹操は軍の乱れの無さに感嘆し撤退を決意。まず第一の攻勢をはねのけることに成功したのです。

 

 

その後孫権の侵攻を恐れた曹操は、孫権領との境に暮らす領民に移民命令を出したのですが……これが逆効果。長江流域の生活に慣れ親しんだ民たちは生活環境の変化を嫌い、逆に孫権軍に流れ込んできたことで、孫権にとって棚ぼた的な利益となりました。

 

 

さて、こうして孫権側に農民が流れ込んだことで無人となった、長江流域の曹操領側。孫権領の喉元に刺さった盧江(ロコウ)周辺も、ただ皖(カン)を残して無人地帯となってしまいました。

 

そこで孫権は、建安19年(214)に皖城を攻略し、一気に本拠を突かれる危険性を排除。

 

 

 

翌年には、さらに曹操軍の前線基地である合肥への攻勢を開始。俗にいう、合肥の戦いですね。

 

 

この戦いでは1万にも満たない曹操軍相手に孫権自らが大軍を率いて出向くほどの気合いの入れっぷりでしたが……結果は惨敗。

 

守将・張遼(チョウリョウ)らの奇襲によって出鼻をくじかれ、将兵の戦意が上がらず10日ほどで撤退。さらにその撤退途上でも襲撃を受け、各部隊は少なからぬ打撃をこうむり、孫権自身の命もあわやといった散々な結果に終わったのです。

 

 

やっぱりあんたは出ちゃいかんかったんや……

 

 

 

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虚々実々

 

 

 

合肥での敗戦から1年たった建安21年(216)冬、孫家には、赤壁以来の激震が走ります。

 

曹操が南下し、本格的に濡須攻略に着手。一説には赤壁以上とも言われる大軍を率い、濡須にほど近い居巣(キョソウ)に布陣。

 

さらには山越の非服従民を扇動し、内部からの切り崩しも同時に執り行うというガチ攻勢。戦いの前に孫権軍主力を率いる董襲(トウシュウ)が事故により亡くなるという事件も起きており、まさに絶体絶命の危機に陥りました。

 

 

こうして不利な戦いを余儀なくされた孫権でしたが、甘寧(カンネイ)の奇襲や呂蒙(リョモウ)の弩兵を用いた迎撃策などで曹操らに打撃を与え、そのまま膠着状態に持っていくことに成功。

 

しかし、曹操軍の国力は絶大で、今回はしっかりと対策も立ててきており、全体的な勝利をもぎ取ることができずにいました。

 

 

そんな劣勢の中、孫権は思い切った行動に出ます。

 

 

なんと曹操に和睦の使者を出し、曹操と休戦。

 

形の上では「孫権の降伏、臣従」と銘打っていますが、それにしては孫権側はその後も好き勝手やっており、どうにも臣従というほど上下関係がハッキリしたものではないようですね。

 

 

 

ともあれ、あろうことか最大の怨敵であるはずの曹操との和睦という禁じ手を打った孫権。その目は、すでに別の敵を見据えていたのです。

 

 

 

 

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荊州動乱

 

 

 

さて、話は少しさかのぼって建安19年(214)。劉備が益州を完全に手中に収めた後、孫権劉備に対して「荊州を返してほしい」と使者を送りました。しかし劉備からの返答は、「北の涼州取ってからね」。

 

つまりは、孫権軍の言い分に従うつもりはないという一種の意思表示でした。

 

 

その後も孫権は勝手に荊州諸郡の役人を任命して劉備軍が治める土地に送り込みますが、これもすげなく追い返される始末。

 

 

ここに至って、「荊州貸与」という、ある種の言いがかりに等しい言い分が大きな役割を果たします。

 

 

「借りたものを返さないとは、なんて奴だ!」

 

 

荊州攻略の大義名分を得た孫権は、さっそく魯粛呂蒙らに軍を授けて荊州諸郡を攻撃。長沙と桂陽をまたたく間に奪い取り、零陵をも包囲。

 

さらには荊州の守将である関羽(カンウ)を魯粛の軍勢が足止めし、救援の手を完全に封じます。

 

 

一方、孫権軍来襲の報を聞いた劉備も荊州救援の軍を編制。大軍を率いて荊州まで入り、両軍は一触即発の膠着状態に入ってしまったのです。

 

 

こうなってしまうと、まとまりがつくのも難しい。落としどころが見当たらず睨み合いの続く両軍。しかし、そんな折にタイミングよく、「曹操が益州を狙っている」という報告が届けられました。

 

 

益州は、現在の劉備の本拠地。そこを奪われては、その時点で曹操の一人勝ちが決まったようなもの。

 

 

天の助けか狙って引き起こした惨状か、これ以上の対陣が不可能になった劉備は、魯粛の後押しもあって孫権との和睦を決意。結局、交渉は孫権優位に進み、長沙、桂陽、零陵の3郡は孫権の領地として認められることになったのです。

 

 

しかし、劉備に煮え湯を飲まされて覚醒したこの男が、この程度の結果で満足するはずもありませんでした。

 

 

 

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荊州領有権は我にあり

 

 

 

さて、その後濡須の戦いを経て曹操と和睦関係になった孫権の目は、再び荊州に向くことになりました。

 

「以前は劉備にいいように使われたが、今度はそうはいくものか」

 

 

建安24年(219)、荊州の主将関羽曹操軍を本格的に攻撃すると、いよいよ孫権も磨かれた牙を荊州に突き立てることとなります。

 

なんと、孫権劉備を裏切り、呂蒙を主将として関羽軍に攻撃を開始したのです。

 

 

そして重要拠点である南郡を降伏させ、関羽の背後を遮断。なおも益州に逃げ帰ろうとする関羽を追い立て、ついにはこれを討ち取ってしまいました。

 

そして、奪った荊州では住民の租税を免除して慰撫に努め、住民らを徹底的に懐柔。劉備らに奪われた影響力を徐々に取り戻していったのです。

 

 

孫権がわざわざ曹操の風下に立つような真似をしたのは、すべてこの時のため。重要拠点である荊州を奪い返し、劉備にも一泡吹かせる。これが、孫権の狙いだったようですね。

 

 

ちなみに魏に臣従した形となった孫権ですが、人質を送れと言われてものらりくらりとかわし、さらには関羽の捕虜となっていた将軍・于禁(ウキン)を魏に返還せず数年上客としてもてなしたりと、結構やりたい放題しています。

 

やはり、魏への臣従もただの方便。孫権の志は、このまま魏臣として安寧を得ることにはなかったのですね。

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