【孫権伝5】コメディ多めの天下の梟雄


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【孫権伝5】コメディ多めの天下の梟雄

 

 

 

 

人物評

 

 

 

非常に評価の難しい孫権ですが……悲しいことに「正史では実は大したことのない人物」として諸葛亮と共に槍玉に挙げられることが多く、その評価は概ね芳しいものではありません。

 

 

しかし、三国のうちの1国を治め、安定させることでどんどん力をつけていったその実績は、まかり間違っても「暗君」との評価で終わっていいものではありません。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼をこう評しています。

 

 

身を低くして恥を忍び、才人に仕事を任せて緻密な計略を練る、まさに越王勾践にも似ている傑出した人物だった。だからこそ、長江南域を広く支配し、呉という国を築くことができたのである。

 

しかし性格は疑い深く残忍なところもあり、晩年ではそれが顕著に出て後継ぎに支障をきたし、その結果少なからず呉滅亡の遠因になった部分もある。

 

 

要するに、「名君だけど晩年はアレ」といった感じですね。

 

 

もともと豪族の集合国家で、君主権を多少なりとも強化しとかないと色々マズかったのはなんとなく想像はつきますが……晩年の呂壱事件や二宮の変に関しては失策と言われればそうとしか言いようがないでしょう。

 

百歩譲って二宮の変は豪族たちが好き勝手動いて勝手に潰し合っただけだから全面的な責任は問えませんが……呂壱事件。あれは無い←

 

 

 

とはいえ、晩年になるまではしっかりと配下の豪族たちとも折り合いのついた行動がとれており、その他内政面や謀略面では終始一貫してキレッキレなのが見て取れます。

 

曹操孫権の様子を見て「ああいうのが息子にいれば……」と呟いたとか何とかと言われており、当時の世評でも非常に高い評価を得ていました。

 

 

 

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孫権の個人スペック

 

 

 

孫権の容姿はかなり恵まれていたようで、若い頃に「貴人の相で、他の一族と違って長寿の相である」と漢の使者から言われています。

 

『江表伝』には容姿に関してさらに詳しいことが書かれており、赤ん坊のころから「顎が張って口が大きく、目がキラキラしていた」とされていますね。何にせよ、容姿からにじみ出る威厳は人一倍……という事でしょう。

 

 

さらには意外なことに武勇も達者なようで、狩りを趣味にして家臣にも怒られていたようです(後述)。

 

得意分野は騎射で、合肥の戦いで窮地に陥った際にも存分にその力を発揮していたようです。『献帝春秋』では張遼をして「騎射がやたら上手い短足野郎(意訳)」などと言われるほどだったとか。

 

 

 

性格は陳寿の評にも「疑い深く残酷」とありましたが、当然それだけではありません。『公表伝』には「朗らかで度量が広く、優しいだけでなく決断力のある英傑」と評されており、同時に「無茶苦茶な冗談をよく飛ばす」ともされており、なかなかお茶目な性格であったことが記されていますね。

 

 

まあ、このお茶目さは時として家臣団の中にも混沌の渦を呼び起こしたりもするわけですが……

 

 

また、新しいもの好きで意外となんにでも飛びついてしまうタイプらしく、当時珍しかった仏教の寺を建てたり、透明人間だか自称神だかを重用したり(後にトンズラこかれた模様)、海外に兵を送り出して版図を広げようとしたり……曹操劉備とはまた違った意味でアグレッシブな孫権像が浮かんでくるようです。

 

 

と、ここまで書きましたが……意外なことにその生活は質素そのもの。終始一貫して農民にはかなり気を使っていたようで、恩赦や農民保護には頻繁に乗り出しており、宮殿の建造などにも消極的だったとか。

 

 

実際に宮殿が老朽化した際も、「昔立てた宮殿を壊して、その木材リサイクルして宮殿立てようぜ」と、1国の主としてあるまじき倹約ぶりを披露。

 

近臣らは「仮にも帝国の宮殿ですから、こういう時くらいは大々的に農民を駆り立てましょう」と提案しますが、結局孫権は首を縦に振らず。
新造の宮殿も木材を完全にリサイクルしたものを活用し、造営作業も官吏と作業員のみ。結局、農民に賦役を課すことはなかったとか。

 

 

 

 

酒、酒、酒!!!!

 

 

 

さて、最近は無双シリーズはじめ多くのメディアでも猛プッシュされていますね。やはり主君というものはストレスがたまるのか……孫権は酒が入ると妙なスイッチが入ってしまう酒乱としての1面も持ち合わせていました。

 

 

 

例えば呉王になった宴の席では、自ら手酌をして回るという気前の良さを見せますが……すでに孫権の酒癖の悪さを知っていた家臣も多く、そのうちの一人である虞翻(グホン)は酔いつぶれたふりをして孫権をやり過ごし、彼が立ち去った後には当たり前のように談笑して盛り上がる有り様。

 

当然、酒乱の孫権はこれを見て怒り心頭。

 

「ぶっ殺してやる!!」と虞翻をその場で斬り捨てようとして周囲をヒヤッとさせました。結局部下の制止でその場は収まりましたが……色々アレですね。

 

なお、後日孫権は「酒の席で俺が処刑を命じても無効だから」という規則を作ったとか。なんじゃそりゃ

 

 

 

さらに後年、またしても宴会の場で酒が回った孫権は、宴会で酔いつぶれた家臣に水をぶっかけて無理矢理たたき起こし、酒を注いで飲ませて回るという暴挙に出ます。

 

この時に孫権宿敵後見人である張昭(チョウショウ)が胸糞悪くなって帰ろうとするのを見て「貴様、なぜ帰ろうとしている!?」と呼び止めると、張昭は「殷のの紂王(チュウオウ:酒池肉林の語源になった人。暴君の代名詞として知られる)もそうでしたな」と見事なカウンターを決められ、正気に戻った孫権は即座にお開きにしたのでした。

 

 

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暴走→反省

 

 

 

 

さて、先ほど孫権が狩り好きだと言いましたが、もはや周囲の制止を無視するほどのドハマりだったようで……張昭伝によれば、孫権はしょっちゅう虎狩りに出かけていたとか。

 

そしてある時、いつも通り虎狩りに出た孫権は虎に矢を射かけますが……虎も生き物。孫権が放った矢に驚いて、その日だけは孫権に向けて突進してきたのです。

 

結局は難を逃れることが出来ましたが、それを知った張昭は大激怒。

 

「英雄というのは賢人を手足の如く扱う者! 原っぱを駆けまわって狩りを楽しむ英傑がとこにいますか!」とお冠だったようで、孫権は「申し訳ない」とさすがに素直に反省することに。

 

 

そしてこの事件を猛省した孫権は、その後虎狩りの際には堅牢な戦車を持ち出し、戦車の窓から矢を射かけることで安全に虎狩りを楽しむことにしたのでした。

 

いやそういう意味じゃなくて

 

 

 

 

 

さらには『江表伝』よりの抜粋。大型艦船「長安」なるものを開発し、その進水式に自ら参加した際の出来事。

 

この時試行の最中に突如風が強くなり、艦船も転覆の危険もあったため多くの家臣が戻るように促したのですが……当の孫権はすっかり浮かれており、「構うな! 目的地まで進め!」と命令。

 

 

結局孫権のそばに控えていた谷利(コクリ)なる人物が船頭を刀で脅して無理矢理岸に戻させたのですが……当の孫権は不機嫌だったかはたまた笑いながらか、谷利に対して「ビビってんのか、この臆病者め」とからかおうとするという有り様。

 

 

その様子に対して谷利は「殿は呉王であられながら、軽々しく何が起こるかわからぬ状況で船遊びに興じられました。万一の事があっては、どうなさるおつもりか。それを憂い、私は死罪を覚悟で引き留めたのです」と膝を屈して返答。

 

以後孫権は、谷利に敬意を表して接することにしたとか。いや本当何してんの

 

 

……と、こんな感じで孫権はかなり無茶ぶりをしでかした形跡があり、ここを知っているととても地味とは言えないような色々アレな人物なのです。

 

 

 

 

創作では三国の君主の中でも地味無難な形に落ち着くことが多い人物ですが、こうやって見ると、一番色々やらかしてるのは孫権なのかもしれませんね。

 

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