【孫権伝4】晩年の謎多き蛮行


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【孫権伝4】晩年の謎多き蛮行

 

 

 

 

天下を逸する

 

 

 

さて、呉の戦いの花形と言えば、やはり魏との揚・荊州をめぐる争いですが……それも諸葛亮の死により同盟国の蜀が衰退してからは、どこか保守的で保険を必ずかけるような攻勢になり始めています。

 

それと同時に、魏呉の争いもお互いの陣営から偽の投降者が続出するなど、正面衝突というよりは謀略や陰謀が主体となった戦いに切り替わりつつあるようにも思えます。

 

 

 

また、魏帝・曹叡の死後を始めたまーに大攻勢を仕掛ける事もあったのですが、いずれも散発的で、援軍が来れば即時撤退という成果の薄いものに終わってしまっています。

 

一応、赤烏6年(243)に諸葛恪(ショカツカク)が魏軍を打ち破る等、局地的な戦果はあったようですが……。

 

 

一方、魏からの攻勢も、偽投降や後方部族の反乱扇動といったものにとどまっており、こちらも孫権存命中は大きな動きを見せた様子はありません。

 

一応魏からの攻勢を受ける隙は曝さなかったため最低限国を保つという使命は果たしたことになりますが……もともと魏の国土は呉とは比べ物にならないほど圧倒的。

 

皇帝の崩御と代替わりの隙を突き切れなかった時点で、天下への道は頓挫したと見てよいでしょう。

 

 

 

さらに孫権を襲った悲劇は、度重なる人材の喪失。孫権の晩年は、多くの宿将の死期とも重なっているのです。

 

 

主立ったところだと、嘉禾5年(236)に孫策が跡を任せた後見人である張昭、赤烏3年(240)にはどの派閥にも属していない貴重な重臣である諸葛瑾、赤烏10年(247:一説には赤烏12年(249)とも)には同じく地元名士グループ外の全琮、赤烏12年(249)には学友だった朱然……。

 

丞相でも顧雍、陸遜、歩隲と数年おきに相次いで亡くなっており、いよいよこれといった人材も頭打ちになりつつありました。

 

 

中でも孫権にとって衝撃が大きかったのは、皇太子・孫登の死去。名士層との折り合いもしっかりつけられる太子であり将来を渇望されていた孫登でしたが、赤烏4年(241)に死去し、これがのちに二宮の変と呼ばれる大きな内紛に繋がってしまったのです。

 

 

 

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呂壱事件

 

 

 

さて、そんな大変な状況にもかかわらず内政面は刑法の改定や農民保護など意外にもしっかりしていましたが……孫権を語る上で欠かせない失策が2つあります。

 

そのうちの一つが、赤烏元年(238)ごろに決着したとされる呂壱事件ですね。

 

 

これは孫権が呂壱(リョイツ)という人物を重用してしまったことで起きた一連の大事件。

 

まず孫権は呂壱を中書典校(チュウショテンコウ:文書の監査官。伝書によって名前が安定しない)という官僚職に任命するのですが……彼は苛烈な性格で、法律を振りかざして厳しく人を罰する、いわゆる「酷吏」と呼ばれる存在でした。

 

彼の罰則は公平さを欠き、ひたすら重罪人を量産し、時には私怨によって罪を適用するほどのものだったとされています。

 

 

当然、呂壱のそんな態度には孫権配下らも激高。皇太子・孫登を始め、顧雍や歩隲、朱拠といった重臣らの度重なる諫言と忠言が孫権の元に送られたにもかかわらず、孫権はこれを聞き入れず。

 

ついにはこの有り様にマジギレした潘濬(ハンシュン)が、死刑覚悟で呂壱を殺そうとするほどの大事件にまで発展しました。

 

 

結局この後、呂壱の悪事が明るみにされてようやく事件が解決するのですが……この事件により孫権の信頼はガタ落ち。

 

 

孫権自身が謝り倒したことによりなんとか分裂は避けられましたが、諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱らに「俺に間違いがあったら何でも言ってくれ」と意見を求めますが、四人とも「自分らは軍事専門ですから」と逃げの一手。家臣団とは完全に溝ができてしまったと言ってもよいでしょう。

 

 

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二宮の変

 

 

 

さて、孫権の落ち目として話題に出されるもう一つの事件が、孫登死亡後に国を二分してしまった、この「二宮の変」でしょう。

 

 

この事件はちょっと謎が多すぎるため、ここでは推論は避けて史書にある記述を追っていきたいと思います。

 

 

孫登の死後、孫権は三男の孫和(ソンワ/ソンカ)を皇太子に据えますが、この後、周囲の強い要望もあり、同時に四男の孫覇(ソンハ)に所領を与えて魯王とします。

 

皇太子に選ばれなかった庶子を王に封じる。この行動自体は、古代中国ではごく自然な事。したがって、ここで孫覇を王にすること自体はよかったのですが……一つ、とんでもない火種を孫権は撒いてしまいました。

 

 

なんと、孫覇の待遇は、皇太子の孫和とほぼ同じ。これで国の心が一つならば問題ないのですが、呉は元々豪族のひしめく土地柄であり、非主流派の中で野心を燻らせる者も多いのです。

 

そしてそんな中、火種となった人物は……あろうことか孫権の娘である孫魯班(ソンロハン)。彼女は孫権の皇后である王夫人とは上手く行かず、策謀によって王夫人を貶めた後、孫権の孫和に対する寵愛を削いでいったのです。

 

 

さらにはその様子を見ていた魯王の孫覇は、「もしかしたらこれは次期皇帝になれるのでは?」と野心をたぎらせるようになり、次第に有力豪族たちを巻き込んだ派閥争いに発展。

 

最終的には、孫和を盛り立てようとする地元名士派閥と、孫覇派の外様名士や非主流名士らの派閥によってしのぎを削っていくことになるのです。

 

 

結局この争いは双方派閥の讒言による処刑や冤罪によって血生臭い闘争へと発展しますが……この時不思議なのは、孫権自身が何かをしたという記述がない点。

 

他伝ではなかなかにいろいろ書かれていますが、孫権伝ではこれらの記述には触れられず、淡々と別件の記述が書き連ねられています。

 

 

 

そしていよいよ孫権伝に二宮の変と思しき記述が出たのは、赤烏13年(250)。

 

孫和は廃嫡。孫覇は自害。喧嘩両成敗の形で決着がついた。皇太子には、まだ幼いながらもしっかりしている孫亮(ソンリョウ)が置かれた。

 

 

約8年もドロドロの抗争を続けた結果、共倒れで事件が解決。その間に、孫権伝に確たる記述無し。つまるところ、孫権は事件勃発から解決まで、自主的な行動を起こしていないわけです。

 

この辺りは諸説ありますが……ここでは明言は避けておきます。

 

 

 

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巨星堕つ

 

 

 

15歳の頃から孫策に期待され、19でその後を継ぎ、以後は豪族らの思惑や複雑な情勢の中で必死に戦い続けてきた孫権

 

彼は父や兄とは違い非常に長寿でしたが……とうとう、その命も尽きる時が来ました。

 

 

 

太元元年(251)の冬、大赦を行った後病により倒れ、翌年神鳳元年(252)、ついに危篤状態に。

 

死期を悟った孫権は、庶子らを王に任命し国内の人事を安定化。その後、幼い孫亮を諸葛恪始め重臣らに託して死去。71年にも及ぶ激動の人生を、ここに終えたのです。

 

 

 

諡は、「大皇帝」。墓陵はすでに発見済みで、現在の南京の東側にあるとか。

 

 

 

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