【曹操伝晩年3】劉備との戦いと最期


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【曹操伝晩年3】劉備との戦いと最期

 

 

 

 

内憂外患

 

 

孫権を大人しくさせて魏王となり、いよいよ残る敵といえば、南西の益州にて寄る辺を得た劉備のみ。

 

劉備さえ倒してしまえば孫権もまともな抵抗ができないでしょうし、周辺の異民族とは比較的友好関係。その場で天下は決まるといっても過言ではありません。

 

対する劉備もそれをよく理解しており、ひとまず曹操の侵攻に蓋をするため、益州北部の漢中奪取を目論みます。

 

さらに天下が近いとはいえ、赤壁での失敗や西涼の部隊を相手取っての苦戦、地元の豪族との対立などもあり領内も落ち着かない様子。下手をすれば、劉備に付け入る隙を与えてしまう事にもつながりかねない状態でした。

 

 

 

まず動いたのは劉備。歴戦の勇将であり義弟の張飛(チョウヒ)、そして因縁の相手で、劉備の元に逃げ込んでいた馬超(バチョウ)を曹操領に派遣します。が、これは一族古参の将・曹洪(ソウコウ)らにより撃退に成功しました。

 

 

が、この劉備軍侵攻と並行し、建安23(218)年正月、領内で反乱が勃発。これもまた鎮圧には成功したのですが、漢の新しい都・許都が反乱軍に攻められるという有様。喉元近くでも当たり前のように反乱がおこるほどに、曹操の領内は不安定な情勢が続いていたのです。

 

 

さらには劉備軍を撃退した翌月には、遥か北方の烏丸族が北端の郡と共謀して叛逆。曹操の四男・曹彰(ソウショウ)によってこれは鎮圧されましたが、劉備がまだ健在にもかかわらずこの有り様。曹家を覆う暗雲は、未だに晴れないままでした。

 

 

 

ともあれ、これで後方の安全を一応確保した曹操は、いよいよ劉備討伐のための軍を編制。自ら長安へ移り、劉備打倒に本腰を入れることになったのです。

 

 

しかしそんな折、劉備領とのもう一つの境になっていた荊州でも、不穏な煙が立ち上っていたのです。

 

というのも、荊州で宿将・曹仁(ソウジン)が敵の関羽(カンウ)と睨み合っていた時、曹仁の後方、宛の城で、城主の侯音(コウオン)という人物を中心とした守将らが反乱。翌、建安24(219)年の正月には鎮圧に成功します。

 

『曹瞞伝』によれば、この反乱は劉備軍の差し金とも言われていますが……何にせよ、敵を劉備だけに留めている間にも、これほどの反乱が頻発。

 

劉備軍の影響力がすごいのか、曹操の求心力がそこまで下がってしまっているのか……。

 

 

 

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定軍山の戦い

 

 

さて、そんな状況にも負けずに劉備討伐のため長安で指揮を執りますが、そんな曹操に凶報が届きます。

 

 

曹操古参の将にして漢中の守りを任されていた夏侯淵が、劉備軍に攻められ戦死。

 

 

劉備軍の総大将戦死を聞いた曹操は、すぐに軍を漢中に進め、劉備と直接相対します。

 

しかし、劉備は「今更来ても怖くなどない!」と豪語し、奪い取った漢中の要害を盾に不動の防御陣で曹操軍を待ち構えます。

 

 

一応いくつか小競り合いの記述は散見しますが、双方大した決定打もなく、戦線は膠着。

 

こうなってしまえば、数が多く拠点の大半を失った曹操軍が音を上げるのは必然。結局曹操は漢中を放棄し、劉備が益州支配を盤石な物にするのを許してしまったのです。

 

 

一説によれば息子・曹植(ソウショク)の参謀である楊脩(ヨウシュウ)が、曹操の「鶏肋」という言葉を深読みして撤退準備を始めたとありますが……実際のところはどのようなものだったのか……

 

 

 

 

 

関羽の猛攻

 

 

さて、対劉備の勢いをそがれた曹操は、続けて劉備と連動して動いていた関羽の対応に追われることになります。

 

というのも、当時の対関羽戦線の大将である曹仁の軍勢は敵よりも少数。しかも相手は無双の猛将関羽であり、苦戦は免れない状況だったのです。

 

 

曹操はすかさず、将軍の于禁(ウキン)を曹仁救援に派遣。しかし折悪く長雨にさらされていた川が一気に氾濫。于禁の軍勢は大洪水に巻き込まれ、陣地は水没。さらに全く身動きが取れなくなったところを関羽に攻められて降伏し、そのまま捕虜となってしまったのです。

 

于禁軍壊滅の報を受けた曹操は愕然とし、自ら援軍を率いて向かうところまで考えたとか。

 

9月にはまたしても反乱の予定が発覚。この反乱計画は未然に防がれましたが、首謀者である魏諷(ギフウ)という人物を中心に、処刑された賛同者は数十人にも及んだとされています。

 

 

色々と問題はあったものの、10月にはおとなしくしていた孫権の協力を取り付けることに成功。さらに援軍として向かった徐晃(ジョコウ)が関羽を撃破したことにより、荊州の劉備軍は一気に瓦解。

 

逃げた関羽孫権軍の手で処刑され、ひとまずの安息を得たのでした。

 

 

 

 

奸雄、去る

 

 

漢中を失陥したものの、なんとか本拠失陥の危険を回避した曹操は、建安25(220)年の正月に、かつての漢の都・洛陽に帰還。孫権によって届けられた関羽の首を手厚く葬りました。

 

しかし、もう曹操に残されたときは無いに等しく、同月の23日。洛陽にてそのまま、66歳で世を去ったのです。

 

その葬儀は、至って簡素なものだったとされています。

 

というのも、曹操自身、遺言として

 

「天下も定まっていないのに派手な葬式など必要ない。葬式が終われば皆、喪服を脱げ。官吏は仕事に励み、任地で兵を率いる者はその場を離れるな。金品財宝などを墓に入れる必要もないし、服も平服で構わん」

 

 

と遺していたのです。最期まで古いしきたりに捉われない、乱世の英傑に違わない思想ですね。

 

 

そんな曹操の評がこちら。

 

後漢末は乱世で、多くの群雄が立ち上がった。とりわけ袁紹(エンショウ)の力は強大で、領土も豊かで兵も多く、精強だった。

 

しかし曹操は策をめぐらせて部下を叱咤激励し、古代思想家の考えや古の名将の軍略をものにした。

 

才あるものは官職に取り立て、人々の能力に見合った仕事を与え、感情ではなく合理的な計算に基づき人を任用し、身分や過去を問題にしなかった。

 

 

これほどの大事業を成し遂げたのは、ひとえに本人の知略が最も優れていたからに他ならない。

 

まさに非凡な人物、時代を凌駕した英傑である。

 

 

 

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