【曹操伝壮年1】曹操の台頭


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【曹操伝壮年1】曹操の台頭

 

 

 

 

しばらく鳴かず飛ばず……

 

 

さて、手痛い敗北を喫したとはいえ、ようやく自前の戦力を持つに至った曹操

 

その後は揚州で大規模な募兵を行ったり(ただし反乱を起こされて失敗)、袁紹の庇護下で黄巾軍を打ち負かしたりとところどころで活躍を見せますが……乱世に雄飛し独立勢力になるには未だに不足。

 

一応は袁紹からの申し出を断ったりなど、一人の群雄として見られていた節はありますが、同盟者の袁紹との関係は対等ともいえず、どちらかというと、実質的な部下に近い感じだったことが伺えます。

 

 

その一方で、反董卓連合の終結を訴えた橋瑁(キョウボウ)という人が、仲間のはずの劉岱(リュウタイ)という人物に殺されたり、また、西では逃げた先でも一大勢力を誇っていた董卓が、王允(オウイン)という人の計略によって義理の息子である呂布(リョフ)に殺害されたりと、乱世の闇は深まるばかり。

 

さらにはこれ見よがしに周辺の異民族らの動きも活発化しており、曹操もその対処に駆り出されることもありました。

 

 

さて、そんな闇まっしぐらの暗黒時代に差し迫った初平3(192)年。曹操に、人生最大級の窮地と同時に、一気に天下に飛躍するチャンスが、ここに来てめぐってきたのです。

 

東の青州を根城にする黄巾の反乱軍、男女合わせて百万ともいわれる大兵力。地を覆いつくす雲霞のごとき大軍が、後に曹操の本拠地となるエン州に、向かっていたのです。

 

 

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青州黄巾軍を仲間に!

 

 

 

さて、当時エン州を守っていたのは、橋瑁殺害で名前が挙がった劉岱でした。

 

劉岱はこの大軍を見ると、怖気づいた軍勢に喝を入れて打って出ます。この時、曹操を慕っていた鮑信(ホウシン)という人物が制止しますが、それに聞く耳を持たず進撃。そのまま敗北し、劉岱自身も黄巾軍の大軍勢の中に姿を消しました。

 

そんな中、援軍に現れた曹操軍。圧倒的な大軍を相手に力戦し、なんとか撃退することに成功しますが、今度はエン州軍を代わりに率いていた鮑信が戦死。その他にも位の高い役人や軍人が彼らの手によって殺されたとあるわけですから、戦いは熾烈を極めたものであると想像できます。

 

 

魏書ではその後、偵察隊が運悪く敵と遭遇し曹操自身もからがら逃げ出したともあり、三度目に不意打ちを仕掛けてようやく降伏まで追い込んだとか。

 

 

とにかく、多大な犠牲を払いながらも、黄巾の圧倒的な軍勢を辛くも下した曹操軍。これにより、主のいなくなったエン州と、そして青州の黄巾軍をどうするかの権限を手に入れることになりました。

 

曹操はこれらの降伏者たちに寛大に接し、全員を受け入れることを決意。さらには、反乱軍の中でも戦い慣れした精鋭を選りすぐって自軍戦力として編入。
この時に曹操軍となった兵士は後に「青州兵」と呼ばれ、曹操軍でも有数の精鋭部隊として多くの戦いで活躍することとなるのです。

 

 

 

 

死闘の日々を送る

 

 

 

 

拠って立つ地と精強な軍勢を手に入れた曹操軍ですが、まだまだ乱世の中では弱小勢力。

 

この頃、袁紹と弟の袁術(エンジュツ)が兄弟間で天下をかけて争ってましたが、曹操はこれに袁紹派として参戦。

 

なんと袁術本人との直接対決に及び、その軍勢を打ち破ってしまうのです。しかも何度も。強い(;´・ω・)

 

 

勢いに乗る曹操軍。このまま順調に勢力を拡大すれば、袁紹から独立するのも時間の問題……

 

と、その時にアクシデントが発生しました。

 

東の徐州を治める陶謙(トウケン)という人物(あるいはその部下とも)が、彼の領内に避難していた曹操の父・曹嵩(ソウスウ)を殺害してしまうのです。

 

これに怒りの炎がともった曹操は、即座に陶謙の領土にほぼ全軍を率いて進軍。エン州の守りは最低限しか置かず、メラメラと燃える復讐心のままに、全軍を徐州へなだれ込ませたのです。

 

この時曹操軍が行った殺戮は、後に徐州大虐殺などとも呼ばれ、「曹操軍が通った後は草木すら生えなかった」や「殺された住民の死体で川がふさがった」など、様々な逸話がありますが…………この常軌を逸した殺戮劇の動機については、怒り以外にも「見せしめ説」や「親孝行アピール説」など、諸説あります。

 

 

 

 

 

 

 

兗州に忍び寄る影……

 

 

 

さて、こんな感じで全力投球の、まさに全身全霊での攻撃に挑んだわけですが……こうなると危ぶまれるのが、本拠地にもかかわらずガラ空きとなった兗州の存在。

 

そんなガラ空きの兗州を狙う影が一つ。養父・董卓を殺したものの、そのまま長安から追い出され、各地を転々としていた猛将・呂布です。

 

異常なまでの大虐殺を見て曹操を危険視したのか、はたまた己の野心ゆえか……。「反覆常無し」と言われた虎狼・呂布を兗州に迎え入れた者がいました。

 

それは、参謀の一人として信頼されていた陳宮(チンキュウ)と、曹操の親友として深い友情で結ばれていた張邈(チョウバク)の二人でした。

 

 

曹操軍でも重要なポジションにいた二人が裏切ったことによって、兗州はたちまち混乱に陥り、次々と呂布に降伏。ついには、留守として置いていた参謀の荀彧(ジュンイク)、程昱(テイイク)らの奮戦により、范(ハン)、東阿(トウア)という2つの県だけは防衛に成功したもの、それ以外の土地は陥落し、すべて呂布軍により接収されたのです。

 

 

報告を受けた曹操はすぐに軍を返し、兗州奪還の軍勢を再編。呂布が要害を抑えず城に引きこもっていたのに安堵し、まずは正面からの決戦に挑みます。

 

 

しかし、その結果は惨敗……。元々異民族との国境沿いに住んでいた呂布は人並み外れた武力を持っており、その軍も精強。
正攻法では自慢の青州兵も崩され、全部隊は混乱。曹操自身も馬から落ちて火傷を負うほどのありさまでした。

 

一説には「呂布軍につかまったものの曹操だとは気づかれず、機転を利かせて何とか逃げ延びた」ともあり、曹操自身もかなり危険な目に遭っていたのは間違いないようです。

 

 

 

 

 

さて、結局敗北した曹操は、そのまま呂布軍とのにらみ合いに発展。膠着すること100日余り。幸か不幸か、ここで突如イナゴの大軍勢がエン州を直撃。
人々は飢饉に陥り、両軍とも食糧難に陥ったためいったん矛を収めることとなりました。

 

 

さて、ここで食糧難の曹操袁紹の仲介もあったため、呂布との講和を考えますが、参謀の程昱はこれに反対。戦争続行の意思を見せ、イナゴがいなくなった晩秋に、呂布への反撃を開始しました。

 

 

今回は正攻法とはいかず、まず呂布軍の要所を各個攻撃。呂布を振り回し、今度は城から引きずり出して優位な戦いに引き込もうという算段です。

 

この目論見は大成功。援軍に赴くものの次々と要衝が落とされ、エン州での影響力が失墜していった呂布。ついには城を捨て、自分から曹操を攻撃する必要に駆られる状況に陥れました。

 

策に乗せられ、曹操軍に迫りくる呂布。この時の曹操軍は呂布より数こそ少なかったものの、伏兵や別動隊をしっかり組織し、奇襲を用いて因縁の呂布に大勝。

 

この敗北を受けた呂布は兗州の足掛かりを完全に失い、再び放浪に逆戻り。

 

さらに張邈の弟をはじめ反乱勢力も勢いのままに平定。ここに来て、ようやく自らの本拠地を完全にまとめることに成功したのでした。

 

 

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