【曹操伝晩年2】王となり、王国を樹立


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【曹操伝晩年2】王となり、王国を樹立

 

 

 

魏公へ……

 

 

 

潼関での戦いで馬超らを下した曹操ですが、相手は何人もの軍閥代表が集まった連合軍。余力はまだまだありますし、西域の民衆への影響力も未だ強大でした。

 

曹操はその後も西進を続けて連合軍の要所を攻略し、西の大都市・長安からさらに北部の安定という場所まで西進します。さらにそこで降伏してきた敵将は厚遇して元の領地の統治をそのまま任せるなど、なかなかに現地民の慰撫に苦労している様子がうかがえます。

 

 

翌年の建安17(212)年に一度帰還した際も、親族であり重鎮の夏侯淵を中心にした制圧軍を編成、向かわせている辺り、穏やかな情勢ではなかったのでしょう。

 

 

 

さて、為政者たるもの、曹操の仕事は戦争だけではありません。

 

領内に帰還した後、曹操は「特別権力者」として、朝廷内の振る舞いにおいて多大な特権を得て存在をアピール。そして自身の地盤固めのために、この辺りから領内の郡県の合併や再編成を開始。

 

 

建安18(213)年の正月には、再び孫権領に今度は東側のルートから侵攻し、完全な勝ちこそ得られませんでしたが将を一人捕虜にして帰還。

 

そして同年の5月、ついに曹操は魏公に任命され、漢帝国から独立した自身の領土を持つに至り、帝国内での自身の絶対的地位を確立したのです。

 

 

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陽平関の戦い

 

 

 

建安20(215)年の正月に、曹操は自身の娘を帝に嫁がせ、皇后とします。

 

 

そして3月、曹操は自ら軍を率いて西進。以前馬超らの反乱で中止になった張魯(チョウロ)の討伐を、再び開始します。

 

しかし、西域はまだまだ不安定。関中諸侯の多くも曹操との戦いに闘志を燃やし、周囲の異民族も不穏な動きを見せていました。

 

潼関の敗戦後再び反乱軍を起こした馬超は夏侯淵によって敗走。そのまま逃走したのですが、もう一人の大将である韓遂(カンスイ)は未だに健在。さらに異民族の氐(テイ)族も曹操に反発したため、曹操はまず氐族の平定を開始。

 

曹操軍の行く手を妨害する低人を打ち破り、氐王の竇茂(トウボウ)という人を撃破。

 

その後、なおも涼州で頑強に抵抗する韓遂が病死したことにより、関中諸侯の二代巨頭が崩壊。ようやく西方は落ち着きつつありました。

 

 

 

さて、意外に時間がかかった張魯への侵攻。結局、張魯が割拠する関中への攻撃を開始したのは、7月。張魯征伐を始めてから4ヶ月も後のことでした。

 

 

この時張魯軍は北の陽平関という関を巨大な城砦にしており、弟の張衛(チョウエイ)を主軸とした主戦派は、この陽平関を固めていました。

 

そのため、曹操軍の侵攻は難儀を極め、正面突破は不可能と断定し、軍を引き上げることにしました。しかし、実はこの選択こそが、漢中平定の大きなカギとなったのです。

 

というのも、曹操軍を撃退した事で、張衛の軍勢には油断が生じ、警戒を解いたのです。それを見た曹操は夜襲部隊を編成し、陽平関を奇襲。

 

 

これにより敵をことごとく打ち破り、張魯軍の主戦派を一掃。張魯も降伏し、漢中一帯を手に入れ、益州を得た劉備に蓋をすることに成功したのです。

 

 

 

ちなみにこの一戦にはもう一つ説があります。

 

曹操軍の高祚(コウソ)という将が先鋒として山頂に陣を張っていたのですが、曹操の撤退命令を聞き入れて撤退するさなか、それが夜中であったせいで道に迷い逆走

 

高祚軍から逃げていた数千頭の鹿と共に張衛の陣に迷い込み、さらにパニックに陥って軍太鼓を鳴らしたことで、張衛の軍勢は全軍が恐慌状態に陥り、その様子を見て慌てて攻めてきた曹操軍に成す術なく敗走したというものです。

 

 

何ともお馬鹿な話ですが、あろうことか曹操軍の参謀である董昭(トウショウ)がこの話を持ち出した記述があり、嘘とも言い切れない部分も多かったり。

 

 

 

 

 

魏王・曹操

 

 

さて、そんなこんなで張魯を下した曹操。従軍していた参謀の司馬懿(シバイ)や劉曄(リュウヨウ)らはこのまま勢いに乗って、蜀を得たばかりの劉備を攻撃するよう進言しますが、曹操はこれを却下。

 

八月には合肥の戦いが繰り広げられ、孫権軍が撃退されることになり、その翌月には益州巴郡の豪族の一部が曹操に帰順しました。

 

 

そしてまたしても、曹操の皇帝内での権限が増加。諸侯や国相といった重大人事を、ある程度独断で行えるようになったのです。

 

 

そして翌年の建安21(216)年。ついに曹操は帝から王の位を授かり、鄴(ギョウ)を本拠地に魏王国を設立。自身を王とする国を得たのです。

 

 

当然漢帝国は未だに健在。扱いの上では漢帝国の複数ある国のひとつといったところですが……それでも、破格の権力を握ったことは間違いありません。

 

この一大イベントを聞きつけた北方の異民族も、こぞって曹操に挨拶に来ました曹操の剛柔あわせた対応によって、異民族も懐柔し、ついに敵は南にほぼ限定されたのです。

 

 

建安22(217)年には、再び揚州の孫権領に侵攻。ここでも頑強な抵抗に遭い一時期は不利な展開が続いていましたが、曹操が本隊を率いて到着したことにより戦線は膠着。

 

敵軍の大将・孫権は潮時と見て和睦を申し入れ、一時的とはいえ、曹操軍の属国のような立場に甘んじることになります。

 

 

さて、とうとう敵は劉備のみに絞られた曹操ですが……ここからの道がまた、茨が敷き詰められた危険な道だったのです。

 

 

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