【曹操伝若年】狡猾ながらも芯の強い熱血漢・曹孟徳


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【曹操伝若年】狡猾ながらも芯の強い熱血漢・曹孟徳

 

 

 

 

自由奔放な若者、真っ向から腐敗に挑む

 

 

曹操の祖父である曹騰(ソウトウ)は、傑出した人格と人の好さで真っ向から高官にまで上り詰めたハイパー宦官であり、その孫というだけあって、曹操の出自はそこそこ恵まれていたといってよいでしょう。

 

とはいえ、高官と言えども所詮は嫌われ者の宦官。曹騰やその家族に対する風当たりも、その人格や家格を考えると、あまり良いものではなかったのかもしれません。

 

 

さて、そんな宦官・曹騰の養子である曹嵩(ソウスウ)という人の子として生を受けた曹操

 

 

こんな出自もあったからでしょうか。曹操は若いころから頭が良く機転も利く人物でしたが、自由奔放で好き放題遊び歩き、孝行と行儀のよさを第一とする儒教の教えの中では、まさにダメ人間と言ってしまっても過言ではありませんでした。
そのため世間からの評判も悪く、正当な評価を得られずにいたのです。

 

 

曹操の敵である呉での、(主に曹操の悪口が占められている)曹操評をまとめた『曹瞞伝(ソウマンデン)』という曹操の別伝には、こんな話も載っています。

 

 

曹操の遊び惚ける姿に呆れていた叔父は、曹操の父である曹嵩に、曹操の起こす問題行為をたびたび報告、危険視していた。

 

その事を厄介に思っていた曹操は、ある計略を思いついた。

 

 

ある時たまたま叔父と顔を合わせた曹操は、顔をわざと崩し、口を捻じ曲げて応対した。

 

曰く、「ひどい麻痺障害を起こしてしまいました」とのこと。

 

叔父は大慌てで曹嵩にこれを報告。

 

 

曹嵩は仰天し、直ちに曹操を呼びつけて、病状を確認。しかし、当の曹操は至って健康そのもの。ケロッとした顔で姿を現したのです。

 

そして、このありさまを見て混乱する父・曹嵩に向かって、曹操は一言。

 

「叔父は私の事を嫌ってますから、適当言って私の評判を下げようとしたんでしょう」

 

 

曹嵩はこれを機にすっかり叔父を信用しなくなり、報告を聞いても知らん顔。曹操は今まで以上に遊び惚けることができましたとさ。

 

 

曹操ェ……。

 

 

さて、そんなこんなで世間から呆れられる存在の曹操。しかし、やはりこの手の人たちは確かなオーラを放っているものなのでしょう。橋玄(キョウゲン)、そして何何顒(カギョウ)という二人の人物だけは曹操の事をしっかり評価。

 

特に橋玄に至っては、「天下は今大いに乱れている。こういう乱世を治めるのは当代一の才能の持ち主だが、それは曹操のことかもしれない」と、これまた随分な絶賛ぶり(一説には、「君みたいな傑物は初めて見た。わしの妻子をよろしく」とも)。

 

その後橋玄のアドバイスで人物評論家、許子将のもとを訪ね、かの有名な「治世の能臣、乱世の奸雄」という評を得、名声はうなぎ上り。

 

 

さて、そんな曹操ですが、20歳の時に孝廉(地元推薦制度)に推挙され、持ち前の知性を発揮してトントン拍子で出世。

 

 

この時、洛陽北部尉(首都周辺の警察署長みたいな仕事)を任されたこともありましたが、この時は徹底的に法を順守し、違反者の取り締まりを厳しくしたため、治安上昇に大きく貢献したそうです。

 

しかし、やはり人に媚びないのが曹操流。違反者は当時の権力者である宦官とのコネがあろうと、容赦なく処罰。このスタイルにより違反者はめっきり減ったものの、すっかり重役ににらまれてしまい、栄転という形で首都近郊から引き離されていったのです。

 

 

 

 

曹操、干される

 

 

 

そして決定的な乱世の幕開けとなった光和7(184)年の民衆による大反乱・黄巾の乱。ここで騎都尉(近衛兵長)に任命された曹操は、首都近くの反乱軍討伐に参加し、主力部隊の援軍として駆けつけるなどの活躍を見せ、済南の相(長官)に任命されました。

 

さて、曹操が任された済南の地ですが……政治汚染が広がっており、すでに役人たちは「貴族様バンザイ!」と声高に迎合し、当時数多あった汚職の巣窟の一つとなっていたのです。

 

当時30歳前後の曹操。普通の人ならば、ここで同じく貴族に媚びを売り、賄賂の一つでも差し出すところではありますが…………

 

 

なんと曹操、汚職役人を軒並み摘発し、徹底的に免職。その数、なんと役人全体の8割にも上ったとかで。とにかく、自分の保身よりも政治を立て直すことを優先したわけですね。

 

さらには街も街で、当時は大量に昔の偉人の祠を立てて、貢物を民衆から巻き上げるというインチキ宗教が広まっていました。

 

それを知った曹操は、その悪徳な信仰をことごとく厳禁。さらにインチキ宗教によって建造された祠もすべて取り壊し、完全にこれらを根絶してしまったのです。

 

 

さて、こうなると困るのは汚職で懐を肥やしている政府の重役たち。

 

しばらくすると曹操を呼び戻し、新たに東郡太守に任命。しかし危険を感じ取ったのか、曹操は病気を理由に役人の仕事を辞め、太守の任に赴任することなく郷里へと逃げ帰ったのです。

 

それからも曹操は腐ることなく、武術の鍛錬や勉強を欠かさず行っていたのですが……すでにお偉方に睨まれてしまった以上、すでに今のままの世の中では出世は絶望的な状況になってしまったのです。

 

 

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曹操、またも熱血ぶりで周囲から浮く

 

 

さて、若くして隠遁生活を送っていた曹操。大規模反乱への参加の誘いなんかもこの時期来ていたようですが、キッパリ断って、数年の間表舞台に姿を現さなかったのです。

 

しかし中平5(188)年。このころ、遥か西の涼州で大規模反乱がおきていましたが……これを口実として、突如また中央のいざこざに引きずり出されてしまいました。

 

宦官の専横を嫌った外戚(皇后の親族一党。皇后の世話役である宦官と政治的対立をするのは、もはや古代中国ではお約束と化していた)の策略か、突如「黄巾の乱で功績があった人物」というお題目の『西園八校尉』というグループに抜擢されたのです。

 

 

その後満を持して行われた宦官の大粛清への参加を拒否(曰く、「トップを数人殺せば済む話なのに、わざわざ皆殺し計画とかバレる原因にしかならねーだろ」とのこと)。

 

曹操の懸念通り外戚トップの大将軍・何進(カシン)が暗殺されるも、参加者である袁紹(エンショウ)、袁術(エンジュツ)らにより粛清計画は実行され、宦官勢力は一掃。彼らによる専横の歴史は、こうして幕を閉じたのです。

 

ちなみに祖父が曲がりなりにも宦官である曹操にとっては内心穏やかでない事件の気がしますが……まあ記述が特に無いから大丈夫でしょう←

 

 

とにかく、こうして終わった宦官の一掃。宦官も外戚トップの何進もいなくなった以上、政権は誰が担うのか……

 

 

その答えは、意外な結果でした。

 

 

次に政権を握ったのは、今は亡き何進に援軍として助っ人を要請された董卓(トウタク)。彼は都につくなり、いち早く計略を用い中央を占拠。なし崩し的に自らが政権を奪取します。
そしてあろうことか、当時の漢帝国のトップであった少帝を廃位し、後漢最後の皇帝となる、幼少の献帝へと皇帝を挿げ替えてしまったのです。

 

 

皇帝こそ絶対の漢帝国で突如としてこういうことが行われると、国が混乱するのは必定。当然、これにより洛陽周辺も再び雲行きが怪しくなりつつあったのです。

 

この様子を見た曹操は、再び中央政府からの脱出を決意。偽名を使って董卓からの追手をかわし、途中で協力者の家族に売り渡されそうになったり(曹操の勘違い説あり)、関所まで連行されてあわやといういう状況に陥ったりしたものの、なんとか故郷まで逃げ帰ることに成功。

 

そして初平元(190)年、諸侯が一斉蜂起し、袁紹を盟主に反董卓連合が結成。ひそかに故郷で兵士を集めていた曹操は自ら将軍を名乗り、小勢でありながらもこの連合に加入したのです。

 

 

さて、こうして諸侯が一堂に会し、董卓という共通の敵を打倒しようと誓ったものの、相手となる董卓の軍勢は、異民族との戦いで鍛え上げられており、練度はけた違い。諸侯は消耗を嫌い、誰もが衝突を避けていました。

 

曹操はこの様子を見て一喝。

 

「諦めんなよお前! これだけの人物が集まって正義をなそうとしているのに、どうしてそこであきらめるんだそこで! 董卓は無茶苦茶やって隙だらけで今がチャンスだ! 一回戦えばそれで勝てるんだよ! もっと熱くなれよ!!」

 

 

そう言い捨てて、とても董卓に勝てるはずもない少数の手勢を引き連れて、董卓軍の要害を攻撃しました。

 

しかし、要害を守っていた徐栄(ジョエイ)は董卓直属軍の名将で、その軍も辺境の精鋭部隊。当然曹操軍は成すすべなく壊滅し、曹操自身も馬が負傷し自分も矢傷を負うほどの手痛い敗北を喫したのです。

 

部下の曹洪(ソウコウ)や、この戦いで戦死した協力者・衛茲(エイジ)らの奮戦がなければ、おそらく曹操自身も助からなかったことでしょう。

 

曹操軍を蹴散らした徐栄が「無名の曹操軍ですら一日中奮戦し続けたのだから、本陣攻撃は不可能」と判断し、追撃を行わなかったのも、曹操が命拾いした理由の一つと言えるかもしれません。

 

 

 

さて、そんな命からがら返ってきた曹操を待ち受けていたのは、会議という名目で酒盛りをしている連合軍の諸侯。

 

曹操はさすがに腹に据えかねたようで、諸将の責任を追及。その上で、

 

「頑張れ頑張れ出来る出来るやれるって気持ちの問題だ頑張れ頑張れそこだ! 袁紹が正攻法で進撃すると同時にこっちで要害を奪って、その上で別動隊やって退路を封鎖、その上で囲んで一気に進撃すれば勝てるって! そこで諦めるな絶対に頑張れ積極的にポジティブに頑張る頑張る!」

 

と熱弁するもこの熱い思いに誰も答えることなく、曹操の進撃案は否決。その後、董卓に悠々と逃げられたことで反董卓連合は自然消滅。

 

野心のため自兵力を温存していた諸将は、お互いの領土拡大のために仲違いし、時代は群雄割拠の時代に移り変わっていったのです。

 

 

 

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