【曹操伝晩年1】天下にかけた大手が消える……


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【曹操伝晩年1】天下にかけた大手が消える……

 

 

 

 

赤壁の戦い

 

 

 

建安13(208)年正月、曹操はいよいよ天下を平定すべく、南方勢力の平定を決意。玄武池という池を、旧袁紹軍本拠地の鄴(ギョウ)に作り、大規模な水軍の訓練を開始しました。

 

 

そして半年後の秋7月、ついに劉表が治める荊州を目指して南下を開始。

 

劉表はかつて袁紹と組んで曹操に敵対し、仇敵の間柄にあった張繍を匿っていた怨敵。

 

また、現在は曹操に反旗を翻した宿敵・劉備を対曹操の最前線に配置し、曹操軍を撃退するなど抗戦の構えを見せており、戦う理由は十分です。

 

 

そんな完全な敵性勢力だけあって、誰もが一戦交える覚悟をしていましたが、翌月の8月には劉表は病死。劉備は相変わらず前線に立って戦う姿勢を見せていましたが、跡を継いだ劉琮(リュウソウ)は曹操に勝ち目無しとして、翌月にはあっさり降伏。

 

戦いに備えていた劉備は足場を失って南方に逃亡していきました。

 

 

曹操は、予想以上にすんなりと荊州を手にする事が出来たのです。

 

荊州とそこに属する名士を一斉に配下に取り入れた曹操は、当時益州を治めていた劉璋(リュウショウ)も外交で屈服させ、劉備、そしてその背後にいる孫権に敵を定め、ほとんど盤石の状態で一大決戦、後に言う赤壁の戦いへと臨んだのでした。

 

 

が、結果は見るも無残な大敗北。訓練だけで実戦のない水軍での戦いに苦戦した上、頼みの荊州水軍も疫病によって行動不能に。さらには曹操軍本隊にまで病気が蔓延し、まともに戦えない状態に陥りました。

 

その上で劉備への援軍に駆けつけていた孫権軍の将軍・周瑜(シュウユ)及び黄蓋(コウガイ)らの火計に遭い、敵の何倍という兵力差を覆され、命からがら逃げ延びる羽目になったのです。

 

 

数年前に袁紹に与えた大敗と似たような敗北を余儀なくされた曹操は、やむなく南下を断念。これが劉備に独立の猶予を与えてしまい、天下統一の機会を実質的に逃してしまったのです。

 

また、一方面の戦いでの敗北といえどもその名声に傷がついたのは確かな様子で、以後曹操軍は「無敵」の看板を失い、後々領内の反乱や分裂危機にも苦しめられるようになっていきました。

 

 

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銅雀台を建設

 

 

 

手痛い敗北から数か月後の建安14(209)年3月、曹操は地元の根幹地・譙(ショウ)で軽快な船を使った水軍の訓練を開始。その後孫権との領土の境である合肥に進み、孫権軍を牽制する動きを展開します。

 

そしてその末には、赤壁の敗戦を思い出し、ある布告を出しました。その布告とは、

 

「あの戦いで疫病により多くの者が死んだ。もし死者を出した家がそのせいで生活難に陥っていたならば、国家で生活を保障するように」

 

とのこと。今でこそ珍しくもない公的遺族年金ですが、当時それを実践する人物は決して多くはありませんでした。ある意味、感受性と繊細さを持っていたからこそ思いついた保障なのかもしれませんね。

 

 

 

さらに翌年、もう一つ新しい布告を発令。これは、曹操の人物像を象る上で欠かせない、現在では有名な物となっています。

 

「天下は未だに安定しない。今こそ身分に囚われず、有能な者を登用すべき時である。才能のみを基準に、下賤の地位にあっても構わんから、能ある者を取り立ててほしい」

 

最近では「求賢令」という言葉で、曹操を代表する姿勢となっている布告内容ですね。家柄と才覚を比例して考えるのが常識の当時では、考えられないくらい斬新な人材登用だったと言われています。

 

 

そしてその冬になると、袁紹を破って以来、袁紹の本拠地であった鄴で建造を進めていた銅雀台(ドウジャクダイ)なる宮殿がついに完成。

 

高さ30メートルにもなる巨大な宮殿には、当時最高級の技術の結晶体で、赤壁に敗北してなおも、曹操の力が強大であることを表した建物だったのです。

 

 

それほどの宮殿を無事に建て終えてもなお、周囲の勢いはとどまるところを知らなかったようですが……それでも、この銅雀台によって、幾分威厳は保たれたことでしょう。

 

ちなみにこの銅雀台、213年には南に「金虎台」、翌214年にはの北に「氷井台」がそびえ立ち、長らく権力者の証として数百年の間、中国内でもたびたび詩の題材にされるほどの有名な建造物として君臨し続けました。

 

 

 

その後、息子の曹丕(ソウヒ)を自身の補佐として置いて、実質的に後継者に任命。

 

直後に叛逆した商曜(ショウヨウ)という人物を腹心の夏侯淵(カコウエン)らに討伐させた後、益州の北の玄関口・漢中を占拠した張魯(チョウロ)討伐軍を編制。この時に鍾繇(ショウヨウ)という人物が攻略に派遣されたのですが、この人選がまた新たな火種を呼ぶことになってしまったのです……

 

 

 

 

 

 

 

潼関の戦い

 

 

さて、意外なことに、はるか西の関中の諸侯……その代表格である馬騰(バトウ)や韓遂(カンスイ)らは、曹操がまだ盤石の勢力を持っていないころからの長い盟友でした。

 

その関中諸侯と曹操の間を常に取り持っていたのが、鍾繇だったのです。

 

 

しかし、その鍾繇が曹操の命で、西の勢力である張魯を討伐したことにより、友好的だった空気が一変。

 

曹操が掌握する朝廷の元に身を寄せていた馬騰に代わり全権を託されていた息子・馬超(バチョウ)は、鍾繇の西進を見て「次は自分たちが攻められる番か」と、曹操に疑念を抱いていたのです。

 

 

とはいえ、そもそも馬騰や韓遂の時代からして反逆的というか、相当にアレというかなんというか……。

 

関中は、元々人に反逆する気質の持ち主の寄り合い所帯だったと言えるかもしれませんね。

 

 

馬超は曹操に疑問を持った諸将と共に決起。曹操と袂を分かったのです。

 

 

関中諸将の反逆を知った曹操は、すかさず腹心の曹仁(ソウジン)を先発に討伐隊を派遣。潼関(ドウカン)という場所で両軍は対峙します。

 

自身もこの戦いに参戦し、徐晃(ジョコウ)、朱霊(シュレイ)といった武将を奇襲部隊として川を渡らせ、敵軍攻略の橋頭保を築かせます。

 

 

そして満を持して曹操も黄河を渡り本格攻勢に転じようとしたところ、これを察知してか馬超本隊が突如として襲撃。味方が次々と崩され、曹操本隊はパニックに陥ります。

 

ついには自身の命にすら危険が及んだところ、許褚(キョチョ)や張郃(チョウコウ)らの護衛や丁斐(テイヒ)という校尉の機転などもあって、命からがら渡河作戦を成功させたのです。

 

 

思わぬ奇襲に手痛い打撃を受けた曹操ですが、それで終わる彼ではありません。その後は夜襲に出てきた敵を得意の伏兵戦法で追い散らし、再び戦局を有利にすると、ここで参謀の賈詡(カク)の進言により必勝の秘策を実行します。

 

 

曹操が向かったのは、敵でありながら旧友ともいえる韓遂の陣地。今回の反乱のリーダーこそは馬超に譲っていましたが、実質的には二頭体制ともいえるほどの影響力の持ち主でした。

 

そんな敵大将の一人である韓遂に、あろうことか曹操は二人きりで昔話を持ち掛けたのです。結局曹操と韓遂は昔話に花を咲かせたものの、お互い軍事的な話は一切口にしませんでした。

 

が、この韓遂の行動は馬超らの猜疑心を駆り立てて、さらに曹操からあえて訂正のための文字消しばかりがされた書簡が届いたことで、馬超ら関中諸将の疑念が爆発。

 

 

結局関中の連合軍は馬超派と韓遂派の二派に別れてしまい、結束を失って大きく戦力ダウン。そこにすかさず曹操軍が猛攻を仕掛けたことで、この戦いは収束。馬超も韓遂も本拠地の雍・涼州に逃げ込んでいったのです。

 

 

これにより一時期の安定が訪れたように見えましたが……この関中の反乱もまだまだ終わったわけではなく、さらには近辺の異民族の動きも活発化。赤壁の敗北に端を発した求心力の低下は、まだまだ曹操を苦しめることになるのです。

 

 

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