【諸葛亮伝1】梁父吟の人、世に飛び立つ


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【諸葛亮伝1】梁父吟の人、世に飛び立つ

 

 

 

 

 

諸葛亮「俺スゲーから」

 

 

 

諸葛亮は元々中国の極東に位置する徐州(ジョシュウ)名士の家系でしたが、両親は早くに死去。幼い諸葛亮は叔父についていき、豫章(ヨショウ)太守に任命されるものの別の太守との権力争いに敗れ、荊州に逃れていったのです。

 

 

そんな叔父が亡くなると、諸葛亮は自ら農耕に携わり、『梁父吟(リョウホギン:春秋戦国時代の斉の国の宰相が、国難を未然に防いだ逸話の歌)』を口ずさみながら田畑を耕していたそうです。

 

 

 

また、当時の諸葛亮はかなりのビッグマウスだったようで、自らを管仲(カンチュウ:斉の伝説的な宰相)や楽毅(ガクキ:燕の名将。用兵と忠義で人間辞めてる人)になぞらえて自分を語っていたようです。

 

当然、実績も根拠もなく大口をたたく若造を評価する者はその当時はほとんどおらず、彼と友人関係にあった崔州平(サイシュウヘイ)や徐庶(ジョショ)だけが、わずかに彼の才幹を認めている状態だったそうな。

 

 

つまり今でいうところの、「俺はいつか大物として世界に羽ばたく!」とか言ってる痛い若者だったわけですね。そんなダメ人間オーラ全開の男が、本当に世界の偉人にもランクインしそうな器の持ち主だったといったい誰が気付くでしょうか?

 

 

 

 

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臥龍世に起つ

 

 

 

さて、「俺はすごいんだ」とぼやきつつも周囲からは後ろ指をさされる、ある意味若者らしい鬱屈とした日々を過ごしていた諸葛亮ですが、27歳の時に転機が訪れます。

 

友人である徐庶から話を聞いた劉備(リュウビ)が、諸葛亮の住居まで訪問。

 

 

俗にいう「三顧の礼」をもって、諸葛亮に「曹操を倒すにはどうすればいいか」と天下への方策を問いに来たのです。

 

 

これに対して諸葛亮は、優れた計略で大勢力にのし上がった曹操、地の利と長きにわたる支配でしっかりと江東に根付いた孫権を引き合いに出し、それと比べて暗愚とされ隙の多い劉璋(リュウショウ)が割拠する益州に着目。

 

「劉表が亡くなり混沌とし始めたこの荊州、そして益州の2つを備え、また孫権とは同盟を結び、中国南部の総力を駆使して曹操と対決しましょう」

 

 

これこそが、諸葛亮の描いた戦略。いわゆる「天下三分の計」ですね。

 

 

劉備に広い視野での戦略を説いて戦略性をアピールした諸葛亮は、その後も劉備から度重なる訪問を受け、いつしか劉備軍に仲間入り。

 

曹操が南征を開始したころには既に行動を共にするようになり、すっかりその中に溶け込んでいたのです。

 

 

 

さて、そんな諸葛亮の才覚、実は劉備だけでなく、荊州の雄・劉表の息子である劉琦(リュウキ)も大いに買っており、彼もまた複雑な自身の環境について諸葛亮からアドバイスをもらいたいと考えていました。

 

しかし、劉備の置かれている状況は非常にデリケートで、劉表の跡継ぎである劉琮(リュウソウ)から睨まれると危険な状態に放り投げられる可能性も。そこで諸葛亮はあえて明言することは避け、劉琦からの相談は拒否するようにしていました。

 

が、ある時劉琦は諸葛亮と共に高台に登って梯子を外して退路を断ち、再び諸葛亮に今後の相談をしました。

 

さすがに進退窮まった諸葛亮は、ここで観念してようやく口を開きます。

 

 

「確か昔、一国の太子が国内にあくまでとどまったばかりに、重臣たちに自害させられ、もう一人の太子が国外に逃げたおかげで難を逃れたという話がありませんでしたか? 晋の文公の話です」

 

 

これにピンときた劉琦は、劉表の影響下から脱し、孫権に攻め落とされて空白都市となていた江夏(コウカ)に赴任。おかげで一命をとりとめ、以後彼の軍勢は劉備の心強い味方となったのです。

 

 

 

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天下三分へ

 

 

 

その劉表の後を継いだ劉琮は、曹操に降伏。孤立した劉備はなんとか曹操の追手を振り切って夏口(カコウ)まで脱出。

 

 

諸葛亮はそんな折、手始めに曹操軍の侵攻を追い散らすべく、江東の孫権の元に向かい、彼の力を得るために説得に赴くことにしました。

 

この時諸葛亮孫権に対し、あえて「曹操に降伏すべきです」と挑発。

 

孫権から逆に「なんで君らは曹操に仕えない?」と訊き返されたところ「我々は漢王朝のために戦っています」と受け応えてさらに刺激した旨が本伝には書かれています。

 

 

魯粛周瑜の後押しもあって始めから戦うことを決めていた様子もある孫権ですが、やはり面子に関わるため、劉備と無条件で手を結ぶのには慎重だった様子。

 

 

 

こうして孫権軍は赤壁の戦いに臨み、曹操軍の大部隊を見事に撃退。一方の劉備はその戦勝の隙を縫って荊州南部を制圧して自領に加え、ようやくまともな拠って立つ地を入手。

 

そして劉璋の元から「北に割拠する張魯(チョウロ)を打ち破ってほしい」という救援要請を得て、劉備は天下三分に向けて益州に旅立っていきました。

 

 

こうして益州に劉備本隊が向かって行ってしばらく後、いよいよ劉備は劉璋に反旗を翻し、本格的に蜀の地を奪いにかかります。荊州でこれを聞いていた諸葛亮も、劉備から預かっていた軍勢を率い、これに呼応する形で益州に攻め寄せていったのです。

 

劉備軍は怒涛の勢いで益州各地を蹂躙していき、最後には劉備本隊と合流して劉璋軍の本拠である成都を包囲。降伏まで追い込み、ついに天下三分の要である益州を手中に収めることができたのです。

 

 

これによりようやく大勢力に成り上がった劉備は、それぞれの人材に官位を与え人事を整えます。諸葛亮もその人事整理の中で軍師将軍(グンシショウグン)の地位と、劉備の補佐役の役職に就任。

 

以後の諸葛亮は、劉備が外で戦う際の留守番係として食料や軍事力の管理に専念。地味な仕事のため特にこれといった記述はありませんが、このおかげで劉備は宿敵・曹操を撃退する等の大金星を挙げることができたのは想像に難くありません。

 

 

また、政治面でも法正(ホウセイ)、伊籍(イセキ)、李厳(リゲン)、劉巴(リュウハ)という特に法律に詳しい4人と共に蜀科(ショクカ:蜀の法律)の制定をするなど、確かな実績を残しています。

 

 

 

 

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失意の劉備、蜀の実質滅亡

 

 

 

建安24年(219)には、劉備や荊州を守る関羽(カンウ)の対応に内心不満を募らせていた孫権が裏切り。曹操との合同で荊州を奪い、劉備軍の要である関羽も討ち取ってしまいました。

 

 

さらに翌年の建安25年(220)には、病死した曹操の後を継いだ曹丕(ソウヒ)が漢王朝からの禅譲を受け国号を魏に変更。

 

ここまで劉備たちが大義名分としていた「漢王朝の復興」すらも、音を立てて崩れ去ってしまったのです。

 

 

これに対し、蜀内では劉備が帝位に就くべきという声も多発。この群臣の中には諸葛亮の姿も含まれており、劉備は臣下らの説得を受けて自らの領地を「蜀漢」とし、新たに「漢王朝の後継」を称する国を建国。

 

諸葛亮はこの時蜀の丞相(ジョウショウ:内閣総理大臣のようなもの)に任命され、国の中枢に君臨。

 

 

 

劉備はこのまま裏切った孫権を攻撃するように計画を立てましたが、その途上で今度は関羽に次ぐ重鎮であった張飛(チョウヒ)までも部下の裏切りに遭い死亡。諸葛亮張飛が担っていた司隷校尉(シレイコウイ:首都近郊の警備隊元締め)の任を引き継ぐこととなりました。

 

こうして暗雲立ち込める中で孫権への侵攻を実施した劉備でしたが、敵の計略にかかりあえなく敗走。国力の大半を削ぎ落された上、劉備本人も翌年には病没。

 

 

諸葛亮劉備死去の際、息子の劉禅(リュウゼン)の後見と実質的な跡取りを任され、もはや滅亡同然の打撃を受けた蜀の建て直しのため、自ら険しい道を突き進むことになるのです。

 

 

 

劉備は病没の際に諸葛亮を呼び寄せ、こう言ったそうです。

 

「もし倅に力がないと思えば、君に蜀の皇帝になり替わってほしい」

 

 

これに対し諸葛亮は涙を流して拒否。命を懸けて劉禅を支える旨を伝え、これを聞いた劉備劉禅に対し「諸葛亮を父と思え」と遺言したと、本伝にはあります。

 

 

また、この時には益州土着の主要人物である李厳もいたとか何とかと言われており、「劉備の発言は諸葛亮らを試す意味合いがあった」という説もあるようですね。

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