【諸葛亮伝2】数年後に北伐の化け物手腕


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【諸葛亮伝2】数年後に北伐の化け物手腕

 

 

 

 

最優先事項は不利な状況を打開すること

 

 

 

建興元年(223)、諸葛亮は武郷侯(ブキョウコウ)として領土、爵位を拝領。さらには益州牧になり自身の幕府を開いて、基本的に静観を決めている劉禅に代わり国の第一人者として政務を取り仕切るようになりました。

 

基本的に劉禅は人に一任するタイプだったので、実質的に諸葛亮が政治のトップに君臨したわけですね。

 

 

また、この頃「蜀はもう終わりだ!」という風潮もあったため、南に位置する南中では反乱が頻発。諸葛亮もこの時ばかりは、劉備の喪と敵に囲まれた状態での出兵を嫌ったのと2つの理由から、兵を出せずにいたのです。

 

 

 

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そんな限られた状況下で、諸葛亮はまず孫権との和解の道を選択。群衆が「孫権は危ないから」と反対する中、鄧芝(トウシ)を使者に立てて和睦と再同盟の交渉に当たらせました。

 

孫権の側は劉備が亡くなったことで旗色をはっきりとさせませんでしたが、実は元々魏の飼い犬のまま終わるつもりもなかったため、鄧芝の話に納得するとすぐに使者を蜀に派遣。再び両国は同盟国として、魏に対抗することになったのです。

 

 

その後喪が明けて後の健興3年(225)、ついに南中の反乱鎮圧のため自ら軍を率いて南征を開始。春に軍を率いて始めた遠征でしたが、その年の秋には反乱した地域のことごとくを平定して帰還したと言われています。

 

『漢晋春秋』には、この時の諸葛亮が何をしていたかを明確に記載されています。

 

有名な「七縱七禽」の語源となった心攻作戦を実施し、南中の豪族である孟獲(モウカク)らを心服させて忠誠を尽くさせたと言われており、実際に何度も豪族と戦い、彼らが負けを認めるまで勝ち続けたそうな。

 

ちなみに負けた側の孟獲は負けるたびにあれこれと敗北した理由を述べて、逃がしてもらっては再戦を繰り返し、七度目の敗北で囚われた際に始めて負けを認めておとなしく従ったのです。

 

 

 

さて、そんなこんなで広大な南中の土地を蜀勢力下に収めた諸葛亮は、一気にその国土を回復。一時期は実質的に亡国と言っても過言ではなかった蜀漢を、厳しいながらも他国への侵攻が可能なレベルにまで立て直すことに成功したのです。

 

 

 

蜀の成り立ちが魏へのアンチテーゼに準拠している以上、国力が整ったのならば、必然的に魏を攻めなければならないのが蜀という国の在り方。

 

諸葛亮は崖や高い山の多い蜀の地のインフラを徹底整備し、集めた兵たちをまとめ上げて演習等の実質的な訓練を多く実施。魏への侵攻に備え、着々と準備を整えつつあったのです。

 

 

 

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第一次北伐

 

 

 

建興5年(227)、諸葛亮は名文として名高い『出師表』に自らの覚悟と言いたいことを綴って劉禅に上奏。

 

そしてついに、前線基地の漢中に10万の大軍を移送。翌年6年(228)、目標を長安近くの魏軍拠点・郿(ビ)と定めて大々的に触れ回り、趙雲(チョウウン)、鄧芝らを向かわせます。

 

 

しかし、これは実は囮。本当の狙いはそれよりもさらに西の、西涼の諸郡にあったのです。

 

諸葛亮は趙雲らが敵を食い止めている間に南安(ナンアン)、天水(テンスイ)、安定(アンテイ)の三郡を内通させて無傷で奪取。

 

 

 

しかし諸葛亮の北伐が上手く行ったかに思えたその時、魏の本国からの援軍が北伐軍に接近しているという情報を入手。

 

援軍を率いているのは、歴戦の名将・張郃(チョウコウ)。

 

野放しにするには危険すぎる相手。北伐をこれ以上続けるには、本国からの援軍を食い止める必要がありました。

 

 

 

そこで諸葛亮は、張郃の軍勢を食い止めるため、将来を渇望されている馬謖(バショク)を足止め部隊の大将に任命。「街道沿いに布陣し、勝とうとせず足止めに徹するように」と言い伝えました。

 

 

 

しかし、馬謖は将来を担う若手といえども、まだまだ実績は不十分。そのため、裏では「足止めだけでは不十分。勝たねば」と意気込んでいたようです。

 

結果、馬謖は堅実に守りを固められる街道を捨てて勝算のある山頂に布陣。

 

 

これで相手が凡将ならば勝つ見込みも充分あったのですが、相手の張郃は魏でも戦争の名手。山頂で強気の陣を敷く馬謖に対して冷静に対応し、水の手を絶って士気を激減させた後、ほぼ一方的に馬謖軍を打ち破ってしまったのです。

 

 

その後後方の軍が打ち破られるだけでなく趙雲らの囮も見破られて敗走し、北伐軍は全滅の憂いに立たされて撤退。

 

結局は捕獲した住民を移住させるだけにとどまり、第一次北伐は失敗に終わってしまったのです。

 

 

 

この失敗は蜀にとっては大きな痛手となり、馬謖を始め特に責任の重い者を処刑。自身を始め多くの重心を降格処分とすることで、敗北のケジメとしたのです。

 

しかし、本当に職務を分相応にしてしまえば国が立ち行かなくなります。そのため、諸葛亮の仕事は、降格前とは変わることがなかったそうな。

 

 

『襄陽紀』には、馬謖処断の逸話が詳しく載せられています。

 

馬謖は自らを恥じ、諸葛亮に当てて「法を明確にするため、私は処刑されるべきでしょう」と自ら述べ、これを汲んだ諸葛亮は彼を処刑しました。

 

 

その後馬謖の葬式にも参加し、遺児の生活も不足なく行うように手配したのです。

 

 

その後蒋琬(ショウエン)が「今回の事は残念でした」と述べると、諸葛亮の中の思いは爆発。涙を流し、「明確厳正な法は戦争での要。大事を為すには、どうしても法に照らして殺すしかなかったのだ」と思いのたけを述べたのでした。

 

「演義」でも諸葛亮は涙を流していますが、そちらは馬謖の為というより、そんな人物を重用した自分を恥じての物だったとされています。

 

 

 

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第二次北伐、完封される

 

 

 

同年の冬、諸葛亮は再び北伐軍を編成し、今度は長安を目指して直接の攻撃を企て、以前奪った3郡と長安の中間地点にある陳倉(チンソウ)を狙って進軍。

 

この時、西方で蜀を待ち受ける魏軍大将は曹真(ソウシン)でしたが、彼もやはり魏の名将。実は諸葛亮の今回の侵攻ルートは完全に読まれており、陳倉は完全に要害化していたのです。

 

軍配置の関係で陳倉の守兵は数千人と小勢でしたがそれでも攻め落とすことが出来ず、兵糧もほとんど持ち合わせていなかったため撤退を余儀なくされてしまいました。

 

 

一応、諸葛亮も追撃してきた王双(オウソウ)なる将を討ち取ることに成功はしましたが、成果はこれだけ。

 

その王双も大物かというと、魏ではあくまでその他大勢に毛が生えた程度という有り様で、大戦果と褒め称えるほどのものではなかったのです。

 

 

一度目の北伐は不意打ちで上手く行ったものの、二度目は相応の対策を練られており、圧倒的物量差を前に敗北は必至。

 

諸葛亮の北伐は、以後も小さな戦果は上げられるものの大目標は達成することができず、失敗を繰り返してしまう事になるのです。

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