【諸葛亮伝3】一人でなんでもこなしたツケ


このエントリーをはてなブックマークに追加

【諸葛亮伝3】一人でなんでもこなしたツケ

 

 

 

 

第三次北伐でようやく一矢報いるが……

 

 

 

建興7年(229)、諸葛亮は休む間もなく再び北伐軍を結成。将軍の陳式(チンショク/チンシキ)に兵を預け、再び魏領に侵攻。

 

今回の北伐は今までとは違い小さなスケールで行われており、漢中からほど近い上戦略的価値の薄い武都(ブト)、陰平(インペイ)に狙いを絞ったものになりました。

 

何故そんな土地を狙ったのかは、おそらく北伐の政治的理由からくるものなのでしょうが……ここではひとまず割愛しておきます。

 

 

ともあれ、戦略的価値の低い土地ともあれば、狙われる可能性も取られたダメージも低いと言っても過言ではありません。そのため守備兵もほとんどおらず、蜀軍拠点からほど近いのもあって奪取は容易でした。

 

 

一応、敵将の郭淮(カクワイ)が救援に赴く姿勢は見せましたが、諸葛亮が本隊を率いて牽制、封殺し、その隙に武都陰平の2郡は陥落。三度目でついに、諸葛亮の北伐は成果らしい成果を上げることができたのです。

 

 

 

結果がどんなものであれ、蜀の領内は北伐成功に喜び盛り上がっていたようです。その証拠として、諸葛亮には「丞相に復職すべし。事態は認めない」との勅使が届けられ、再び丞相の座に返り咲くことができたのです。

 

 

 

が、これが思わぬ結果を生むことに……

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

魏呉の躍動

 

 

 

さて、まずこの状況下で動いたのは同盟国である呉です。

 

なんと孫権は、同盟国の蜀が浮足立っているその隙を狙って、みずから帝位に即位。自領の国号を呉とし、漢王朝でも魏の臣下でもない自分の国を完全に打ち立ててしまったのです。

 

 

これに関しては、「それがどうした」という声も出てきそうなものですが……そもそも蜀という国は、正式名称を「蜀漢」、つまり漢王朝の正式な跡取りを自称しているのです。

 

つまり、漢王朝を簒奪した魏はもちろん、漢以外のどんな国の存在も認めず、「漢こそが中国にあるべき王朝なのだ」と高らかに謳った国なのです。

 

 

そんな中、あろうことか心強い味方の同盟者が、漢王朝を無視した別の国を建ててしまったわけですね。戦勝で対魏路線が固まったこの瞬間に一本取られてしまった蜀にとっては随分と頭の痛い話だったでしょう。

 

諸葛亮は自分たちの政治的ドクトリンと合わないこの同盟者とどう付き合うかを考えましたが、やはり呉の力は必要であると判断し、外交官の陳震(チンシン)を祝賀の使者に立てて呉帝即位を祝賀。これまでと変わらない同盟関係の維持を選択しました。

 

 

 

 

そして一息ついたところ、今度は魏が蜀に対してアクションをかけてきます。

 

第三次北伐で面子を潰された魏でしたが、なんと大将軍の曹真自らが大軍を率いて一斉に蜀に侵攻。諸葛亮は山の中に大量の砦を建築してこれを迎え撃つ作戦を建てましたが、もはや魏蜀の戦力差は歴然。

 

 

後世からするとある意味楽しみな決戦の様相を見せた両軍でしたが……偶然にも天候トラブルが発生。

 

 

もともと蜀の土地は山が多く、魏の侵攻ルートでは必ず桟道を渡る必要があったのですが、なんと長雨で桟道の一部が欠落。ジメジメした雨により味方の士気も上がらず、結局魏軍は無理攻めを避けて撤退。

 

 

さらにそれから間を置かず曹真は病に倒れ、諸葛亮にとっておそらく一番危険だった人物が世を去ったのです。

 

後任は、知略に長けるものの大軍指揮の経験がまだまだ浅い司馬懿(シバイ)。これを好機と見た諸葛亮は改めて軍備を整え、今一度北伐の準備を進めるのでした。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

第四次北伐

 

 

 

第四次北伐では、先の反省を生かして補給機構の欠陥を埋めることに着手。

 

木牛(モクギュウ)なる輸送用の新機材を開発、導入して補給部隊の物資運搬を効率化。さらに敵軍からの食糧略奪が容易になる収穫期での侵攻を予定したのです。

 

 

そして建興9年(231)、西方の間道から軍を進めた諸葛亮は、魏の大拠点である祁山(キザン)に侵攻。これも魏軍の想定通りの動きと言えましたが、今回の諸葛亮は以前と動きが違いました。

 

始めから魏に反感を持っていた異民族と通じて協力体制を敷き、さらに収穫前の作物を全て刈り取って当面の食事事情を解消してしまったのです。

 

 

これに対して司馬懿は始めこそ持久戦を展開し追い返すことを考えていましたが、諸葛亮があまりにも粘り強く対陣する上異民族に背後を脅かされる形となり、たまらず蜀軍との局地戦を展開する形となりました。

 

一度ぶつかってしまえば、諸葛亮司馬懿の経験の差が大きく出るのは明白。局地戦は諸葛亮の勝利に終わり、魏軍の指揮を削ぐことに成功。

 

しかし、今回の北伐成果はここまで。正面からでは勝てないと踏んだ司馬懿は敗北以降砦に籠ったままになってしまい、最終的には蜀軍の補給線が耐えきれず、またしても兵糧切れで撤退。

 

 

蜀軍の撤退を見た司馬懿は張郃に追撃を命じるというポカをやらかしてしまい、それに乗じて因縁の強敵である張郃を見事討ち取った……という華々しい戦果こそ挙げるものの、またしても一歩届かず、北伐の目標は達成できなかったのです。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

陣中に死す

 

 

 

さて、当時の諸葛亮の仕事ぶりを端的に表すと、内閣総理大臣が必死に仕事をしながら頻発する戦争の指揮まで執っているという状態。さすがにその状態が何年も続くと、体にもガタが来るのは無理がありません。

 

 

第四次北伐の後はさすがにしばらく内政に努めていましたが、この時もハードワークと評すほかないほどの忙しさだったとされています。

 

 

 

こうして戦に内政にとあちこち駆け回った諸葛亮は、再び呉の孫権と共同戦線の約束を取り付けた後、建興14年(234)、大軍を再び動員して最後の戦いに赴いたのです。

 

 

この時も流馬(リュウバ)なる輸送機材を使い、輸送の問題にしっかりと対応した作戦を展開。魏軍大将・司馬懿の誘いに乗る形で武功(ブコウ)郡五丈原(ゴジョウゲン)に進軍し、この地の優位な高台に軍を展開。

 

そして万一の持久戦に備え、屯田を開いて少しでも自給自足が可能な状態を整え、東では同時に孫権が魏領に侵攻して敵の目を逸らす事で、少しでも勝算を上げる算段を整えて決戦に臨んだのです。

 

 

しかし、司馬懿もやはり一流の将軍。以前は苦杯を舐めさせられましたが、今回はそうはいきません。自軍に誘い込んで有利な防戦で叩き潰したい諸葛亮と、誘いに乗らずどっしりと慎重に構える司馬懿

 

余りに動かないものだから、諸葛亮司馬懿を徹底的にこき下ろして挑発してみますが、それでも司馬懿は動かず、逆に諸葛亮の身体が限界を迎えつつあるのを悟ってより防備を強化してしまいます。

 

 

そんな折、さらなる凶報が諸葛亮を襲います。

 

魏軍に大規模攻勢をかけていた呉軍が、敗北を喫し撤退。

 

 

万策尽きた諸葛亮は、対峙すること100日余り、8月に過労から発した病によってこの世を去り、彼の北伐の夢は終わりを迎えてしまったのです。

 

 

諸葛亮の死後、蜀軍は総退却。その後敵陣跡を訪れた司馬懿諸葛亮の陣立てに驚き、「天下の奇才である」と称したとか。

 

諸葛亮は奇しくも自分がライバルに経験を与えてしまい、それが元で敗北。そしてそんなライバルから、最大限の誉め言葉を受け取ることになったのです。

諸葛亮 臥龍 孔明 蜀 丞相 劉備 三顧の礼 天才 マルチプレイヤー諸葛亮 臥龍 孔明 蜀 丞相 劉備 三顧の礼 天才 マルチプレイヤー諸葛亮 臥龍 孔明 蜀 丞相 劉備 三顧の礼 天才 マルチプレイヤー

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

【諸葛亮伝1】梁父吟の人、世に飛び立つ
疎開名士という実質ニートな諸葛亮は、劉備と出会ってから急速に頭角を現すようになっていったのです……。
【諸葛亮伝2】数年後に北伐の化け物手腕
改めて見ると、やっぱこの人おかしい。
【諸葛亮伝4】神格化が進む人物像
ガチな神様扱いと言えば関羽がその筆頭ですが、諸葛亮は英傑として評価され、一種の神格に等しい評価を得ている気がします。

ホーム サイトマップ
お問い合わせ