三顧の礼
普通に使いますよね。たぶん、「三国志は知らないけど三顧の礼は知ってる」という人は結構多いはず。
というか、そもそもこれ自体三国志ネタだということを知ってる人も、けっこう多そうなものですが……。
ただ、まあ当時は色々と情報が錯綜するものでして。実は知らない発見がある……かもしれない。
さて、この言葉の意味は、もう語るに及ばず。
言ってしまえば、「格下相手にもかかわらず、非常に例を尽くしてお願いすること」です。
出典は?
三国志に描かれる三顧の礼の流れは、以下の通りです。
劉備(リュウビ)は、自身には未だに軍師と言える人物がいなかったことを嘆いていたところ、ある時、賢才と名高い諸葛亮(ショカツリョウ)の存在を知った。
そして、聞けば、その天才は近くにいるそうな。そこですかさず使いの者を送って誘致を試みたが、結果はダメ。
そのため、今度は自ら諸葛亮に会いに出向くことにした。
しかし、一度目、二度目は留守にしていて、結果会うことができなかった。
そして三度目にして、ようやく諸葛亮に会う機会に恵まれた。しかし、この時の諸葛亮は昼寝の途中。そのため、仕方なく目が覚めるのをそのまま待つことにした。その時に付き添いが叩き起こそうとしたとか家を燃やそうとしたとか何とか
そのまま待っていると、ついに諸葛亮が目覚め、両者はそのまま対面。自分を訪ねて三回も来てくれたことに諸葛亮は感激し、そのまま劉備に仕えることになった。
と、こんな感じ。
実際に正史にもこういった話があり、それを拾った演義でも(話のスケールは大きくなったとはいえ)似たような経緯です。
当時の価値観では、「偉い人はとことん偉い」という風説があり、そんな偉い人がへりくだった態度をとることはほとんどありませんでした。
そのあたりの情勢から見ると、若造でしかも実績のない諸葛亮を自分から訪ねて行った劉備の行動は異常であり、やはり彼も超一流の英雄であったことがうかがえます。
スポンサーリンク
style="display:inline-block;width:336px;height:280px"
data-ad-client="ca-pub-4288299677552793"
data-ad-slot="3817705521">
しかし、こんな異説も
実は、正史三国志には異説があり、「逆に諸葛亮のほうが劉備を訪ねて行った」という話もあります。
もっとも、これに関して諸葛亮本人の書いた文を証拠に否定されていますが、諸葛亮も、この頃は野心あるような発言をしたような記述があります。案外、諸葛亮側から出向く可能性もどこかにあったのかもしれませんね。
そしてもう一つ。「劉備と諸葛亮は、会うたびに仲良くなった」という説もあります。これに関しては未だ信憑性も強く、実は一回目から何度も会ってて、そのまま仲良くなってから登用に応じた可能性も否定できません。
ただ何にせよ、劉備のこの行動は当時の価値観からは大きく違っていたこと、そしてこの登用は後々素晴らしい成果を生んだことに関しては、まず間違いありません。
この「当たり前」にとらわれずに行動する価値観、そして目下でも優れた人物を素直に敬う器の大きさ。我々もあやかりたいものです……
関連ページ
- 苦肉の策
- こいつは三国志演義由来のことわざです。知っている人からすると、けっこう有名どころかな? 舞台は、赤壁の戦いでのことです……
- 鶏肋
- 鶏の肋骨のこと。 ですが、そこから転じて割と有名なことわざに……
- 千載一遇
- 三国志とはちょっとズレますが、これもまた入る……のかな?
- 士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし
- ことわざとか古事というより、アレですね。名言。そう言ったほうが間違いないかも。
- 月旦
- 人物評とか、そういう意味合いがありますよね。 三国時代……というかそれよりちょっと前の人がこの言葉のはじめとか……
- 十人十色
- 正直、語源は全くの不明です。 が、三国志にも
- 白眉
- 「白眉最も良し!」 一番いい物に対して、そんな言葉が使われ魔すよね。
- 水魚の交わり
- 水と魚のように、お互いないといけないという意味。 まあ、偉い人たちが賢く見せるために使う、難しい言葉の一つですね。 これも普通に三国志が元の由来。
- 南船北馬
- 三国志由来かと言われるとちょっと悩みますが…… まあ三国志の戦力分布にもかなり影響した言葉です。
- 破竹の勢い
- これもまた、三国志ネタの一つです。 後期の話なので、案外知らない人も多い……かも。
- 兵は神速を貴ぶ
- 神速……響きがいい……