【劉備伝3】天下への夢の終着点


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【劉備伝3】天下への夢の終着点

 

 

 

 

崩れ行く同盟関係

 

 

 

益州を手に入れた劉備は、益州出身の人材を次々登用し、国力、人材共天下の群雄として成り立つほどの実力をつけ、ここで天下は、曹操孫権と実質的に三分される形となりました。

 

 

しかし、これで面白くないのは、劉備勇躍の決起として体よく利用される形となった同盟者の孫権です。孫権は、「うちが曹操を追っ払ったんだから荊州領有権はこっちにあるよね」と、関羽が守っている荊州領土の返還を要求。

 

 

しかし、決起こそ孫権が作ったとはいえ、元々荊州南部は劉備がほぼ自力で平定した土地。契約上は「貸し出し」となっているものの、むざむざ返す謂れはありません。

 

そこで劉備は、「北の涼州を奪取するまで返さない」と主張し、実質返すつもりがない姿勢をはっきりとさせました。

 

 

 

孫権はこれに怒り、ついに同盟を破棄して荊州に侵攻。対して劉備も自ら軍勢を引き連れて関羽を救援。ついに両軍は一触即発の状況となったのです。

 

 

 

しかもこの時、運悪く益州北の玄関口・漢中(カンチュウ)に割拠する張魯が曹操に敗北し滅亡。よりにもよって宿敵となった曹操と領土を隣接することになり、下手を打つと滅亡という危地に陥ってしまいました。

 

 

北を曹操、東を孫権に囲まれて絶体絶命の劉備は、ここで苦渋の決断を迫られます。孫権に荊州の一部を返還し、和睦してふたたび対曹操に注力。

 

孫権曹操軍の脅威にさらされていたため、ひとまずの領土返還を受諾。お互い、これ好機とばかりに自領を荒らしに来た曹操軍に対抗することにしたのです。

 

 

 

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定軍山の戦い

 

 

 

孫権との領土問題が一応決着したため、劉備は成都に帰還。曹操から派遣されてきた対劉備軍主将・夏侯淵(カコウエン)との対決に臨みます。

 

 

双方大勝大敗を繰り返す一進一退の状況が続いた後、建安23年(218)の事。ついに劉備は腰を上げて漢中に侵攻。翌年の24年(219)にはついに定軍山(テウグンザン)に前線基地を置き、漢中を防衛する夏侯淵と直接対決。

 

激戦の末に夏侯淵の本陣防備を徹底的に削ぎ落とし、ついに夏侯淵、そして曹操から派遣された益州刺史も討ち取って大勝。ついに益州の玄関口にして曹操打倒の前線基地・漢中を奪取。天下三分を完全に成し得ることができたのです。

 

 

 

その後曹操の来襲を受けますが、もはやなし崩し的に徐州を奪ったに過ぎないあの時の劉備とは違います。

 

 

「要は守って戦わなきゃ、俺よりも強くても十分勝てるぜ!」

 

 

いや、うんまさしくその通り←

 

 

ともあれ、華やかさはともかく十二分に勝機のあるこの戦い方は効果覿面。戦争で一枚上手の曹操といえども、劉備ほどの人物が亀のように首を引っ込めては手も足も出ません。

 

徹底防備を固める劉備に攻めあぐねた曹操は、数か月に及ぶ包囲戦の末撤退を決意。漢中を放棄して撤退。これにより、劉備は漢中の支配権を完全な物にすることができたのです。

 

 

これを機会に、劉備は魏王として君臨する曹操に対抗し漢中王を自称。ちゃっかり漢王朝の帝に事後承諾までいただき、臣下の苦労に報いるべく、重臣らを相応の地位につけ、対曹操の意気込みを新たにました。

 

 

そしてこの漢中を足掛かりに、漢中と荊州北部を結ぶ玄関口である上庸(ジョウヨウ)を奪取。さらに関羽もこれに呼応する形で北上し、荊州北部に駐屯する曹操軍に攻撃を開始し、いよいよ天下取りに向け、絶頂期ともいえる好機を得るに至ったのです。

 

 

 

……が、長く続かないのが幸運。劉備の快進撃は、この後意外な形で幕を閉じてしまう事になったのでした。

 

 

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悲しみの蜀帝

 

 

関羽による北上は圧倒的強さを曹操軍に見せつけ、曹操に未曽有ともいえる危機感を与えますが、その快挙はまさかの転落を迎えることとなります。

 

 

先年曹操と和睦していた孫権が裏切り、関羽を攻撃。さらに関羽を恨んでいた諸将の裏切りもあって関羽は荊州を失陥し、孫権軍によって処刑されてしまったのです。

 

関羽劉備の兄弟分同然ともいえる人物ですし、荊州は劉備軍に味方する多くの名士の出身地。双方を失ったダメージは計り知れない事でしょう。

 

 

さらには建安25年(220)には曹操の後を継いだ曹丕が、なんと漢王朝から禅譲を受けて魏王朝を樹立。劉備が大義名分の拠り所とした漢王朝は終わりを迎えてしまいました。

 

 

 

これに対抗すべく、劉備は翌年には自らも帝位を自称。国を「蜀漢」とし、あくまで魏王朝の不当を訴え「自らが漢王朝の後継である」という姿勢をしっかりと世に示したのです。

 

 

 

こうして関羽の死にもめげずに天下を意識していた劉備ですが……同年の6月、さらに凶報が耳に届いてきました。

 

張飛が、部下の恨みによって暗殺され、張飛を殺した部下は孫権軍に逃亡。

 

 

事ここに至って、劉備孫権との完全対決を決意。

 

孫権からの和睦の要請を一蹴、反孫権派の武装民族らに援軍を要請し、両軍は決戦に臨んだのです。

 

 

 

 

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夢の果て

 

 

章武元年(221)、戦争準備を盤石に整えた劉備は、山沿いを進んで先遣隊を次々撃破。この時の攻撃速度は圧巻で、あっという間に荊南東部を制圧。山沿いを進み、孫権軍の最終防衛ラインともいえる夷陵(イリョウ)道にまで差し掛かり、そこで孫権軍本隊と対峙したのです。

 

この時の総大将は、まだ無名であった陸遜(リクソン:この当時は陸議という名前でしたが、わかりやすさのためこの名で記載)。すでに周辺の城を陥落、ないし完全包囲している劉備にとって、負けは万に一つも有り得ないという状態にまで孫権軍を押し込んだのです。

 

 

しかしこの付近は地形が悪く、険しい山に囲まれた地形。必然的に隘路に陣取る形となった劉備軍はわずかな足場に非常に多くの陣を置いて不足しがちの補給を補うという苦渋の策を用いており、そのせいで陣形は間延びし、隙の大きいものとなっていました。

 

しかもこの対峙は年をまたぎ、章武2年(222)の6月まで戦線が膠着。そのせいで劉備軍にも疲れや焦りが生じており、判断力や勢いに関しても精彩を欠いている状態だったのです。

 

 

陸遜劉備軍の疲れを感じ取ると、その陣の内のひとつを攻撃。劉備軍はこれをあっさりと撃退できますが……陸遜はこの時、既に劉備軍の弱点をすでに掴んでいたのです。

 

 

 

その夜、劉備軍の陣営に突如火の手が上がり、その後時を置かずしてあちこちに延焼。劉備軍はこの時急造の木造建築で陣を築いていたのですが、それに気づいた陸遜が火攻めを仕掛けてきたのです。

 

 

さらに呼応するように、孫権軍による猛反撃が執り行われ、ここまで築いてきた大量の陣のほとんどが陥落。さらに参加していた主要な将校もことごとく戦死、あるいは投降を余儀なくされるという有り様。

 

劉備は急いで山を拠点に陣の立て直しを図りましたが、陸遜の猛攻撃によってあえなく撃破。水軍も完全に抑え込まれていたため陸路で逃亡する羽目になり、実質的に蜀は滅亡同然にまで追いやられてしまったのです。

 

 

 

劉備はその後益州の永安(エイアン)に逃げ切る事が出来ましたが、失意と疲れから重病を患ってしまったのです。

 

 

その後の劉備は完全に燃え尽きてしまい、魏に対抗するため怨敵・孫権と和睦。その後諸葛亮や李厳(リゲン)といった荊、益州の中心人物に息子・劉禅(リュウゼン)の補佐を託して死去。

 

章武3年(223)、齢63の時の事でした。

 

 

その後、蜀は諸葛亮を中心として再び勢いを取り戻し、魏に対抗するのですが……結果はご存知の通り。

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