【劉備伝1】流浪のすごくてヤバい傭兵:劉備ファミリー


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【劉備伝1】流浪のすごくてヤバい傭兵:劉備ファミリー

 

 

 

 

草履売り世間に飛び出す

 

 

 

劉備の家系は漢王朝の皇族……を自称する家系で、実際に祖父は地方長官、父も地方役人としてそれなりの地位にいるボンボンでした。

 

しかし、劉備がまだ幼少のころに父が早世。母子家庭となった劉備の家は一気に落ちぶれ、母と共に編んだむしろやわらじを売って生計を立てるようになっていました。

 

 

しかしそんな状態でもある程度の財や地位はあったらしく、15歳の時にそこそこの金持ちと一緒に学問を学ぶことになりました。

 

この時の劉備の師匠は、後に黄巾の乱で大活躍する盧植(ロショク)、そして兄弟子には幽州の覇者となる公孫瓚(コウソンサン)がおり、早くから未来の成功者に囲まれる環境にあったようです。

 

 

 

で、肝心な劉備は真面目に学び、清流派の学士として君臨した……と思いきや、当時の劉備は学問に興味を示さず自由奔放状態。

 

公孫瓚の弟分としてファッションに目覚めてきらびやかに自分を飾り、乗馬や闘犬、音楽が好きという、言ってしまえば優雅でありながらもいささかアレな不良少年だったそうな。

 

 

そしてこの頃から並外れたカリスマを見せ始めていたようで、遊侠気取りで近隣の若者グループをまとめ上げるリーダーとして君臨していたのでした。

 

 

 

そんな劉備に対して「こいつは只者ではない」という感想を抱いた人物もなかなか少なくなかったようで、当時近隣の富豪であった張世平(チョウセイヘイ)、蘇双(ソソウ)の2人に至っては、なんと若年の劉備に資金まで提供。

 

この2人がスポンサーとなったおかげで劉備は仲間集めの資金を作ることができ、世の乱れに乗じてそのまま挙兵。劉備は若者たちを連れて颯爽と名を挙げに用兵生活を開始しました。

 

 

ちなみに、今後劉備と兄弟分同然となる関羽(カンウ)や張飛(チョウヒ)も、実はこの時に劉備が雇った若者の中の一人だったとか。

 

 

 

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一歩進んでまた下がる

 

 

 

こうして黄巾の乱から端を発した戦乱に足を踏み入れた劉備は、素人軍団でありながらも趨靖(スウセイ)という校尉の雇われ軍人として大活躍。

 

 

その功績が認められたことによって、なんと安熹県尉(アンキケンイ:安熹県の警察署長みたいなもの)に任命されます。

 

その後すぐに督郵(トクユウ:郡の観察官)が訪問した際に、彼に会ってコネを作ろうとしましたが……督郵に面会を拒否され、これにブチギレて督郵を棒叩き。200回もひっぱたいて完全にぶちのめした後、その首に県尉の官職の印を縛り付けて逃走してしまったのです。

 

 

 

その後も大将軍の何進(カシン)に派遣された軍勢と合流し、ここでも活躍して下密(カミツ)県の丞(ジョウ:県長の補佐官)になるものの、やはり短期間で辞職しています。

 

 

 

そして今度は高唐(コウトウ)県の尉、そこから出世して県令(ケンレイ:大きな県の県長をこう呼ぶ)になりましたが、なんと賊の襲撃を受けて敗北。命の危険を感じた劉備はさっさと高唐から逃亡し、そのまま兄弟子であった公孫瓚を頼って再び北の幽州まで向かうことにしたのです。

 

 

さすが逃亡の達人。逃げの機会は見逃しません

 

 

 

 

 

獅子身中の獅子

 

 

 

さて、無事に公孫瓚の元に落ち延びた劉備は、公孫瓚が朝廷に上表いてくれたおかげで別部司馬(ベツブシバ:非主力部隊隊長)として、しばらく公孫瓚の軍勢に身を預けます。

 

そして公孫瓚と敵対する袁紹(エンショウ)との戦いでたびたび戦功を挙げ、ついに平原(ヘイゲン)の相(ショウ:長官)の代行を試しに任されるなど大きな期待を寄せられていました。

 

 

しかし、当然ながら劉備は人の下でいつまでも生きる人物ではありません。

 

公孫瓚の盟友である徐州(ジョシュウ)の陶謙(トウケン)が袁紹派に属す曹操(ソウソウ)の攻撃を受けると、劉備は目付け役の田楷(デンカイ)と共に闘犬救援に出向。

 

 

この時の劉備軍は自身の直属兵である千余りと、北方異民族である烏丸(ウガン)の騎兵のみ。劉備はこれに加えて上に苦しんでいた農民を数千名を強引に自軍に取り込み、独自勢力を形成。

 

 

さらに今度は陶謙に上手く取り入って彼からも4千ほどの兵を授かり、完全に田楷の手から独立。陶謙に鞍替えすることになったのです。

 

 

 

しかも何の裏工作を使ったかはたまた陶謙の謀略か、陶謙は死に際し、自身の後継者に劉備を指名。劉備はこの話を一度は断りますが、陶謙配下の幕僚らの説得を受けて承諾。劉備はついにひとつの州を治める群雄となったのです。

 

 

ちなみに劉備を擁護しておくと、この後継ぎの話を聞いた劉備は、一度話を断る際に「近隣で大勢力を誇る袁術(エンジュツ)が怖いからやだ」という旨の発言をしたそうです。

 

つまり、自身の都合を断る理由に述べているため、劉備の調略である可能性は高いとは言えないのですが……それでも怪しいのが劉備の怖さであり面白いところです。

 

 

 

さて、こうして徐州の州牧となった劉備は、領主交代の隙を突いて攻めてきた袁術を撃退し、朝廷から鎮東将軍の地位を送られました。

 

そして、周辺諸国に対抗するため、流浪の猛将・呂布(リョフ)の一団を徐州に迎え入れ、軍備を強化。

 

……が、これが、劉備を大きく苦しめる決断となってしまうのです。

 

 

 

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呂布のエクストリーム離反!

 

 

 

さて、呂布という頼もしい客将を得た劉備は、袁術がまた攻めてきたという報を受けてこれの迎撃に出陣。弟分の張飛と、陶謙配下であった曹豹(ソウヒョウ)、そして客将の呂布に留守を任せ、これと対峙します。

 

 

そしてそのまま一進一退のまま膠着すること1ヶ月……ここで、劉備にとんでもない報告が舞い込んできます。

 

 

呂布が裏切り、曹豹と内通して劉備領を奪取。この時劉備の妻子も呂布軍の捕虜となり、劉備は軍を転進せざるを得なくまったのです。

 

 

しかもこの時、袁術の息がかかった賊軍が暴れ回り、未だ徐州内は混沌としている時期。

 

 

劉備はまず賊軍を撃ち果たした後、呂布と和睦。これでようやく一息入れられるようになりましたが、劉備の帰る先は本拠地の下邳(カヒ)ではなく、その西にある小沛(ショウハイ)。

 

劉備はここで力を蓄えて呂布との戦いに備えますが、それを見越した呂布は今度は小沛に攻撃を開始。これはかなわぬと劉備曹操の元に逃走。とうとう、徐州に劉備の居場所は無くなってしまったのでした。

 

『英雄記』によると、曹豹の反乱の原因は張飛にもあると書かれています。

 

張飛と曹豹はどうにも折り合いが悪かったのですが、劉備袁術と戦う際に張飛を下邳の守りに置き、曹豹と合同で守備を任せてしまったのです。

 

 

元々その仲は険悪な上、張飛は自分が取るに足らないと感じた相手にはとことん酷薄な性格。兵士相手にも問題行動を頻繁に起こしたことが史書で語られています。

 

 

ひょんな事から張飛は曹豹を殺そうと画策したため、危険を感じた曹豹は裏切り者の呂布を城に招き寄せ離反。結果として呂布による徐州強奪の手助けをしてしまったのです。

 

 

慌てて劉備が戻ったころにはすでに張飛は敗走し軍は散り散り。劉備は慌てて軍を再編し、南の広陵(コウリョウ)の地を奪って袁術との再戦に臨みますが、動揺した軍では力を発揮できず破れてしまったそうな。

 

 

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