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【司馬懿伝2】対北伐戦線

 

 

 

 

魏の重鎮・司馬仲達

 

 

 

当人が何を思ったのかは定かではありませんが……曹操の死は、司馬懿にさらなる栄達への道を開かせました。

 

曹操の跡取りは、マブダチと言って差し支えない曹丕曹丕は信頼しきった人にはとことん好意的に接する人物であり、彼とのコネと傑出した才幹を持ち合わせた司馬懿が高位に上がるのは、至極当然でした。

 

曹丕即位と共に、司馬懿は宰相職である丞相お付きの上級役人に転向。さらに漢王朝が終わりを告げて曹丕が皇帝に即位すると、司馬懿もそれに合わせて尚書(ショウショ:恐らく公的文書管理を仕事にする部署の長官である尚書令)に昇進。

 

その後もちょくちょくと仕事を変えてはその都度大身になっていき、曹丕が五への威嚇行為を働く際の留守番を頼まれるまでに。

 

 

ついには曹丕から撫軍大将軍(ブグンダイショウグン:武官トップである大将軍の次の次くらいに高位の将軍)と処罰権である仮節、そして5千の兵を授与され、宮中でも給事中(宮中における接待顧問役)と録尚書事(ロクショウショジ:尚書令よりもう一つ上の超権力者)の位が司馬懿に与えられます。

 

さすがに面喰った司馬懿は一度は拒否しますが、曹丕の「このクソ忙しい憂鬱な気持ちをお前と分かち合いたいんだよ!」という熱い気持ちに押され、ついには国内トップクラスの大物にまで上り詰めたのでした。

 

 

「俺が呉蜀どちらかに目を向けてる間、ガラ空きのもう片方の攻撃はお前がどうにかしてくれ」とは曹丕の勅使による言葉。彼からの司馬懿に対する信認は、それほどまでに大きかったのですね。

 

 

……が、司馬懿という人物の運は微妙の一言。黄初7年(226)に曹丕は突如として倒れ、司馬懿、陳羣、そして曹真(ソウシン)の3人に後のことを託して崩御してしまったのです。

 

 

まだうら若い曹叡(ソウエイ)が次の帝に立ち、急な世代交代による動揺が呉蜀の侵攻という国難を招いてしまうわけですが……なんの皮肉か、司馬懿の才能はわざわいの中で開花していくこととなるのです。

 

 

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神速の知将

 

 

 

曹丕の崩御でまず真っ先に困り果てたのは、新城(シンジョウ)を守る孟達(モウタツ)でした。

 

彼は蜀からの裏切り者という立場上から非常に肩身が狭く、曹丕からの厚遇と期待こそが魏におけるほぼ唯一の拠り所でした。曹丕、夏侯尚(カコウショウ)ら孟達の後ろ盾となった人物が偶然にも同時期に亡くなってしまったため、孟達はたちまち孤立。

 

 

しかも運悪く諸葛亮に目をつけられ、蜀に戻ってくるよう裏切りの催促を受けていたのです。しかも孟達が返答を決めかねていた所、怒った諸葛亮はあろうことか魏に孟達の裏切りを魏に喧伝。このせいでいよいよ魏に居られなくなった孟達は、ついに裏切りを決め込んで軍備を整え始めたのです。

 

 

さて、孟達が裏切るという報告は、当時荊州方面の軍事責任者として宛(エン)にいた司馬懿にも届けられます。

 

……が、司馬懿が今から動いたところで、まず朝廷に事態の報告を入れてから新城に到達するまで1ヶ月ほどの時間を要します。これでは、孟達は要害に囲まれた新城を中心に守りを固められてしまうでしょう。

 

そこで司馬懿は、まず孟達に対して書状を投函します。

 

「我ら魏一同、将軍が裏切るなどとは考えておりません。それに将軍は、敵の重鎮である関羽を実質的に殺したような身。それでは、蜀にこそ居場所がないのではありませんか?」

 

これが温情としての言葉ならば孟達大歓喜なのですが……司馬懿は損得勘定で動く輩を生かしておくほど甘い男ではありません。孟達がこの言葉を受けて安心している隙に、密かに軍事行動を開始したのです。

 

 

守りを固められては勝ち目の薄い新城を落とす策はただ一つ。敵の守りが薄いうちに奇襲を仕掛ける速戦のみ。

 

司馬懿は朝廷への報告を後回しにして、すぐに軍をまとめると昼夜兼行の強行作戦を実施し、半月はかかると言われる道のりをわずか8日で踏破してしまいました。

 

ろくに軍備を整え切れていない孟達は慌てて応戦しますが……時すでに遅し。呉蜀連合からの援軍も司馬懿によって遮断され、孟達は孤立無援の中で戦死。その首は洛陽で燃やされたのでした。

 

 

諸葛亮司馬懿。2人の熾烈な争いの緒戦は、まず司馬懿の圧勝で終わったのです。

 

 

ちなみにこの戦いの前、曹丕が亡くなって少ししたあたりで孫権が荊州に侵攻。司馬懿は防衛軍の1指揮官として参加し、孫権を見事に打ち破ってます。無敵かこの人。

 

 

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司馬懿、苦戦

 

 

 

圧倒的スピードで諸葛亮の謀略をご破算まで追い込んだ司馬懿でしたが……かの天才軍師が対策を考えないわけがありません。

 

魏、特に司馬懿の得意先述はというと、軽装の騎馬隊を率いた奇襲撹乱先鋒。敵陣の内外を小うるさく飛び回ってグダグダにしてしまうという戦法ですね。

 

 

南中討伐を終えて軍備を整えた諸葛亮は、すでにこの戦術への極大のカウンターを用意していたのです。

 

それは、最新鋭である鉄装備や自ら劇的に改良した連弩、そして兵の徹底統率による正面突破。隙をなくして撹乱の被害を最小限にとどめ、装備が貧弱な奇襲部隊を超火力で叩き潰そうというものですね。

 

 

太和5年(231)にそれまで蜀軍を封殺していた曹真が死亡。これにより司馬懿諸葛亮との直接対決に駆り出されますが……このアンチ魏特化装備と諸葛亮の鬼才と称される才覚が、司馬懿を大いに苦しめるのです。

 

 

 

同年、司馬懿諸葛亮の北伐軍に包囲された祁山(キザン)を救うため、軍を率いて出陣。しかし、諸葛亮はこの時西方の異民族までも動かしており司馬懿軍は全力で諸葛亮とぶつかることができずにいました。

 

とはいえ、蜀軍の懐事情は悲惨の一言。諸葛亮は木牛(モクギュウ)という輸送兵器を開発して輸送をスムーズにしたものの、それでももとが貧乏な上、悪路続きの長い補給路を完全にカバーできているとは言い切れませんでした。

 

そのため、蜀軍は司馬懿の到着前に近辺の畑を略奪。麦を刈り取って自軍の兵糧事情の足しにしていました。

 

 

司馬懿はこれまでの北伐の情報もあって、蜀軍の懐事情を看破。援軍に来たものの砦に引きこもるという、実に効率的なんだか情けないんだかよくわからない戦法で判定勝ちを狙いましたが……それを許さないのは血気に逸る誇り高き将軍たち。

 

「こっちの方が数は多いのに……司馬懿どのは諸葛亮を虎か何かと勘違いしている臆病者ですな!」

 

大ベテランである張郃(チョウコウ)を始め諸将からの激しい突き上げが、司馬懿に判定勝ちという防衛戦術を赦しませんでした。

 

 

結果、司馬懿は将軍らに無理やり背中を押される形で諸葛亮と交戦。しかしすでにアンチ魏特化装備を作っていた蜀軍に正面から挑んでも勝てるはずもなく、見るも無残な完敗を喫し、これ以上被害が大きくならないよう司馬懿は再び防衛戦術に徹することにしました。

 

結局、下手なことをするよりも守っていた方が正解だったのでしょう。やがて蜀軍は撤退しますが……周囲から飛んでくるヤジのせいで頭に血が上っていたのか、司馬懿は彼らしからぬ失態を演じてしまいます。

 

 

なんと、余裕を持って見事な撤退を繰り広げる蜀軍に対し、追撃隊として張郃らを派遣。待ってましたとばかりに蜀軍の伏兵にやられ、無理な追撃のせいで張郃を戦死させてしまったのです。

 

この失態は張郃を疎んだ司馬懿の謀略という説もありますが……まあ散々突き上げを食らったのならば可能性がないとは言えない……かも。

 

 

 

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五丈原の戦い

 

 

 

青龍2年(234)、諸葛亮は国家を根こそぎ動員、10万もの大軍を率いて重要拠点の長安になりふり構わず直進し、乾坤一擲の大勝負に出ました。

 

司馬懿もこの大胆な行軍に驚きつつも出撃しますが……先の戦いで諸葛亮の戦略を学んだ司馬懿の胸中には、ある仮説が立っていたのです。。

 

 

諸葛亮は慎重すぎるあまり、危険を冒して博打に出ることができないのではないか?」

 

 

そう考えた司馬懿は、なんと蜀軍の陣を目の前にして堂々と渡河を開始。長安付近を流れる渭水(イスイ)を挟んで南側は豊かな穀倉地帯になっており、そこを蜀軍に占領されると弱点の食糧問題もあっさり解決されてしまうという懸念もあり、どのみち取られたくないからこその強行渡河でもあったと言われています。

 

ともあれ、司馬懿の狙いは的中。司馬懿が河を渡るのを見ても、諸葛亮はリスクを嫌って攻撃に出ず、そのまま魏軍が川を背に陣を作るまでを黙って見届けたのです。

 

 

敵前渡河、防衛側が川を背に背水の陣を敷いて退路を無くす。この2つの禁忌を破ってなお攻めてこない諸葛亮を見て、司馬懿の仮説はいよいよ確信に変わります。

 

「奴らが全滅覚悟でがむしゃらに長安を目指すと、我々は成す術も無く敗北する。が、もし陣を構えるに好立地の五丈原(ゴジョウゲン)に本陣を置くようなら……もはや我らの勝ちは揺るがん」

 

 

指揮下の郭淮(カクワイ)を川の北側に戻らせて五丈原からの北進ルートを封鎖すると、諸葛亮にがむしゃら東進ルートと五丈原布陣ルートの2つの選択肢を用意します。

 

そして諸葛亮が選んだのは……五丈原への布陣。司馬懿の見立て通り、諸葛亮はリスクを犯せる性格ではなかったのです。

 

 

「我が掌中に落ちたな、諸葛亮!」

 

 

満を持して勝ちを確信した司馬懿は、勝利を確信して蜀軍の最も嫌う持久戦を再び展開。こうなってしまえば蜀軍は詰みの状態。兵に開墾させて兵糧を自給自足させたり女物の着物を送り込んで司馬懿の女々しさを詰ったりもしてみますが、司馬懿は動く気配も無し。戦局は、完全に司馬懿に傾いたと言えるでしょう。

 

 

ちなみに『晋書』で司馬懿について記述されている宣帝紀での話。女物の着物が届けられたとき、司馬懿は頭にきて決戦に臨もうとしたものの、朝廷から派遣された辛毗(シンピ)という強面のじーさんに強引に押しとどめられたとかなんとか。

 

また司馬懿は蜀から来た挑発の使者に対し、逆に同情。そして諸葛亮の食事も睡眠も最低限の生活を聞き出して「近々死ぬな」なんて予想も立てていますが……この辺は半信半疑といったところか。

 

 

ともあれ、魏軍に封殺されて何もできないまま時間だけが過ぎていき、頼みの呉軍もあっさり東の戦線から撤退。希望を完全に失った蜀軍は、100日余りの膠着様態の末に撤退を決定。諸葛亮が無茶な生活を送った末に過労死したためのことでした。

 

司馬懿は蜀軍追撃を全軍に命じますが、敵が抗戦の構えを見せると即時に追撃を取りやめて撤退。これは後に尾びれや背びれ、胸びれまで付いた話となり、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉の語源になったのです。

 

 

何にせよ、諸葛亮相手にほぼ完璧に近い勝利を得た司馬懿。彼は蜀軍が撤廃した陣地を見て回り、思わずこう呟いたとか。

 

「天下の鬼才なり」

 

天才は天才を知るという事か。諸葛亮という人物の飛び抜けた才覚は、司馬懿に大きな衝撃を与えたようです。

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