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【司馬懿伝3】強者ゆえの道

 

 

 

 

遼東の燕王

 

 

はるか北、幽州遼東の地は、そこに根を下ろした公孫(コウソン)一族によって大きな半独立勢力が築かれていました。

 

その地を治める公孫淵(コウソンエン)という人物が、かなりの野心家にして食わせ物。兄に対して下剋上を働き、遼東一帯を手中に収めた男だったのです。

 

とはいえ魏は強大で、遼東ひとつでは太刀打ちするのも難しい状態。そのため公孫淵は孫権と結んで裏切る様子を見せてはまたすぐに魏に恭順するなど、明らかに叛意のある動きを見せていました。

 

 

景初元年(237)、魏から忠誠を疑われた公孫淵がいよいよ反逆。異民族の援軍を受けて差し向けられた討伐軍を追い返し、燕王を自称して独立勢力となってしまいました。

 

 

司馬懿諸葛亮死後も蜀軍の侵攻を撃退するなど対蜀戦線で力を振るっていましたが、公孫淵が調子づいてしまうのを危惧した魏によって中央に召喚。北部戦線に転進し、公孫淵との決戦に臨むことになりました。

 

この時の公孫淵軍は異民族の支援を受け、すでに数万という大軍に膨れ上がっていましたが……司馬懿には戦う前から勝利の道は見えていました。

 

 

「公孫淵がこちらの動きを見て逃げたのならばそれがもっとも厄介。天嶮の地に拠って防戦し、我々遠征軍の疲労を待つのが次善の策。領土に固執して城を守るだけならば……もはや勝ちは見えたでしょう。

 

討伐にかける時間は行き帰りにそれぞれ百日、攻撃に百日、あと六十日を休息の時間にあてるとし、一年あれば十分可能です」

 

 

と。これは晋書にある記述ですが……敵の取り得る策とどれだけ時間がかかるかを曹叡に訊かれ、司馬懿はこう答えた問われています。

 

 

 

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神の軍略

 

 

 

景初2年(238)早春、司馬懿は公孫淵を打ち破るべく数万の兵を率いて出立。そして6月に遼東へと入り、砦に長大な塹壕を掘って防戦体制を整えていた公孫淵と対峙しました。

 

公孫淵は手始めに迎撃隊を司馬懿と対峙させますが、司馬懿は将軍の胡遵(コジュン)をこれに対峙させ撃退します。そして邪魔が入らなくなったところで、司馬懿は塹壕に穴をあけてからいきなり一時撤退。面喰う敵主力をよそ眼に準備万端の敵地をやりすごし、一気に敵の本拠地である襄平(ジョウヘイ)の城へと向かって行ったのです。

 

 

司馬懿のこの動きに慌てた公孫淵軍は襄平に撤退を開始。本拠地へ行かせるとまずいとばかりに必死で司馬懿を追撃し、そのためにせっかく万全に固めた防備を捨てる羽目になってしまったのです。

 

 

 

勝ち筋であった堅固な砦から引き剥がされて戦う公孫淵軍を打ち破ることは、司馬懿にとって造作もない話でした。司馬懿は勝ちパターンを崩された公孫淵軍と一戦を交えて大いに撃破。襄平まで撤退させ、そのまま城を包囲するのに成功します。

 

こうして包囲網を完成させた司馬懿でしたが、なんとここで、遠征軍の身でありながら持久戦という滅茶苦茶な作戦を執り行います。しかもこの時、事態を察知した孫権軍が、海路から公孫淵への援軍を派遣したとの知らせがある中での行動なのだから驚きです。

 

 

が、この司馬懿の一見愚策に見える作戦は的中。公孫淵軍は食糧難に陥り、人肉を食す者まで現れたと言われています。

 

というのも、公孫淵軍はその大半が異民族からの支援によって送られた増援部隊。元々の戦力は多くはなく、蓄えられていた食料も純粋戦力相応のものでしかなかったのです。

 

さらには折悪く長雨が降って難儀しながらも、それを逆用して輸送船を出し、櫓を作って心理攻撃まで行ったというのだから恐ろしい人です。

 

 

かくして公孫淵はこの状況に耐えかね、数百騎とともに底力を発揮して包囲を突破し逃亡。しかし司馬懿の元から逃げきれるはずもなく、あっさり捕捉されてそのまま斬り殺されてしまったのです。

 

こうして遼東を治めてきた公孫一族は潰え、魏の北部はひとまずの安泰を取り戻したのです。

 

 

『晋書』宣帝紀では、公孫淵は脱出の前に司馬懿に人質を贈る約束をして和睦を願い出ています。

 

が、司馬懿はそんなものを赦すはずもなく、あっさりと不受理。この時、このように言い放ったとされています。

 

「軍事には五つの原則がある。戦うことができれば戦う。戦うことができなければ守る。それも無理なら逃げる。あと二つは降伏するか死ぬかの二択だ。貴様は降伏しなかったのだから、今更人質など必要ない」

 

 

さらには襄平降伏後に入城し、元々の住民と新しく入ってきた住民を選別。元々の住民の中から15歳以上の男子を皆殺しにし、反逆の芽を根こそぎ摘み取ったという恐ろしいエピソードもあります。

 

 

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司馬懿と曹爽

 

 

 

景初3年(239)、曹叡が若くして崩御。この時司馬懿は、曹真の子である曹爽(ソウソウ)と共に、まだ幼い跡取りを支えるよう頼まれています。

 

 

かくして、幼帝・曹芳(ソウホウ)を掲げて魏は新体制に。曹爽は司馬懿を慕って軍事を一任、自身は内政を取り仕切るような形で一応の折り合いはしっかりと付いていました。

 

司馬懿も自身は名誉職に過ぎない大傅(タイフ:帝を導く指導役)に転任し、政治権限を放棄。魏の臣下層は内の曹爽、外の司馬懿といった二頭体制でうまく整っていたのです。

 

 

司馬懿も安心して外敵の撃退に専念。蜀だけでなく呉の朱然(シュゼン)や諸葛恪(ショカツカク)といった大物相手に国土を一切奪わせず、まだ若い曹爽を軍官としてバックアップしていました。

 

 

……が、司馬懿と曹爽の間には、絶望的なまでに名声、そして実績の差がありました。史書には何も書かれていませんが、やはりその辺りの差から周囲からの冷たい目線や、司馬懿を嫌う者からの讒言などもあったのではないでしょうか?

 

 

そんな劣等感や環境に押しつぶされてか元々しょーもない人間だったのか……正始5年(244年)、曹爽は司馬懿の反対も聞かず蜀への大遠征を執行。惨敗して成果も上がらず撤退という大失態を演じてしまったのです。

 

 

この時から、2人の信頼関係は崩壊。曹爽の元では司馬懿を疎む輩がどんどん出世して側近に取り立てられ、司馬懿は中央政権下からいよいよ孤立し始めます。曹爽一派への進言は無視され、仕事は握りつぶされてほとんど回されず……

 

そんな状況が続いたため、いよいよ司馬懿も自身の身の危険すら感じるようになり、病気と称して引退。耄碌しきった重病人を装って、なんとか一族没落の憂き目から逃れることで精一杯になりつつあったのです。

 

 

 

 

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簒奪者の道

 

 

 

曹爽の狙い通りか不本意に流されるままか……曹爽一派の専横によって、その政敵に定められた司馬一族の立場は、いよいよ危うくなりつつありました。

 

この当時の政治闘争は、まさに権力や謀略を武器として振るう殺し合い。負けた側の派閥は国を無駄に荒らした国賊として、子や孫、兄弟、親族に至るまで処刑される可能性すらありました。

 

 

すでに中央官僚から突き放されて孤立した司馬一族も、密かにそんな根絶の危機に立たされているといってもよかったのです。

 

そこで司馬懿は、もはや事態を止められないと見て、いよいよ最後の軍事行動に出たのです。

 

 

正始10年(249)1月、曹爽一派が帝と共に墓参りに出かけたのを見計らい、司馬懿はいよいよ挙兵。曹叡のもと妃である郭太后を始め多くの協力者もあって、司馬懿はあっさりと洛陽の宮殿や曹爽らの館を制圧することに成功します。

 

進退窮まった曹爽は自身を譴責する上奏文を握りつぶし、一応は抗戦の構えを見せます。が、曹爽はそれでも司馬懿を一時期慕っていた身。司馬懿の強さがよくわかっており、とても勝てる相手でないと痛感していたのです。

 

結果、参謀の桓範(カンハン)が強硬姿勢を見せるよう説くのを制し、司馬懿に云われるがまま降伏。こうして曹爽は全権力を失い、その後親族郎党処刑。

 

 

司馬懿は政敵・曹爽を排除して自己の家の安全を確立しますが……曹爽を斬ったという事は政治でも前線に立つというのも同義。自己防衛という理由があれど、司馬懿のしていることは簒奪ための第一歩に等しかったのです。。

 

 

 

嘉平3年(251)王凌(オウリョウ)は簒奪者となった司馬懿に対し謀略を張り巡らせて叛逆します。

 

司馬懿はその策略をことごとく見破って王凌を服毒自殺に追い込み、さらには王凌がクーデターの旗印に据えた曹彪(ソウヒョウ)も再発防止のために弑殺。皇族を殺すという大逆を働き、司馬懿は反逆者の路線に完全に乗ってしまいました。

 

 

司馬懿は最期に悪逆の臣として一族を進ませる羽目になり、一体何を思ったのかは定かではありませんが……王凌の反乱がおきたその年のうちに死去。

 

 

後は子の司馬師(シバシ)、司馬昭(シバショウ)と代が変わるたびに司馬一族の権力、そしてそれに反発する声が大きくなり、孫の司馬炎(シバエン)はとうとう魏から成り代わり、晋王朝を設立するというり理想形ともいえる簒奪を成し遂げたのです。

 

こうして国家のトップに上り詰めた司馬一族。それをみた司馬懿は、いったい何を思うのか……

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