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【司馬懿伝1】兄貴以上の傑物?

 

 

 

 

超大物名士んとこの天才八兄弟

 

 

 

司馬懿の実家は昔の国家の帝王の血とも言われ、先祖はなんと神様にまで昇格された人物とまでされています。

 

つまり、司馬一族は名家中の名家。漢の代にもその名声は途絶えることなく、血統という意味では恐ろしく優れたところのおぼっちゃまだったのです。

 

 

しかも司馬懿の兄弟らは皆血筋に負けない超優秀な天才児。兄の司馬朗(シバロウ)から数えて「司馬の八達」などとあだ名され、飛び抜けた知力を早くから世間に評価されていたのです。

 

その中でも、司馬懿の評価は別格。同郷出身で南陽(ナンヨウ)太守を務めていた楊俊(ヨウシュン)は「常人の器ではない」と褒め称え、魏書に伝を持つ崔琰(サイエン)も彼の兄である司馬朗に「君の弟は聡明すぎる。君以上だ」と太鼓判を押したとか。

 

 

 

そんな血筋と知力を併せ持つ司馬懿を天下が放っておくはずもなく、建安6年(201)には上計掾(ジョウケイエン:郡の記録係)として地元採用されました。……が、小役人という蚊帳の外ロードの脇から「めんどくせ」と適当に生きる司馬懿を狙う影が一つ。

 

 

――曹操(ソウソウ)です。彼は自分が司空(シクウ:法務大臣)となったのを皮切りに、天才と名高い司馬懿を自分の配下に組み入れようと試みます。

 

そして使者を送って司馬懿を自分の元に招聘しますが……なんと司馬懿はこれを拒否。「中風で起き上がれないのです」と仮病を使って追い返してしまったのです。

 

 

というのも、司馬懿は古くから中国王朝の中枢部に影響する家の御曹司。当然、自分で頭を下げて仕える相手はせいぜい漢王朝くらいというのが筋だったのです。しかもその漢王朝も既に虫の息とあれば……名族としてのプライドが高い司馬懿にとって、命を懸けて仕えるような者はこの天下にいませんでした。

 

しかし、曹操は漢帝国の臣下という立ち位置ではあるものの、いまいちその行動が知れない人物。ましてや当時汚らしいとされていた宦官の出の不細工チビ男であったため、家柄的に遥か格上の司馬懿が彼に仕えるのは誇りが許さなかったのではと言われています。

 

 

……とはいえ、これに懲りないのが曹操という男。彼は司馬懿の仮病を見破ってやろうと刺客を送り込み、夜中にこっそり彼の様子を確認させたのです。

 

が、司馬懿はあくまで布団の上から動かないまま。才覚が飛び抜けた者が自分と敵対するのは危険なため、場合によっては司馬懿を暗殺することまで考えた曹操でしたが……相手が決定的証拠を見せないのならば諦めるしかなく、その場は一旦司馬懿をあきらめることにしたのでした。

 

 

 

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曹操「諦めぬぞ司馬懿!」

 

 

 

さて、こうして曹操への士官という屈辱を見事に回避した司馬懿でしたが、これしきで鬼才を諦めるような男が、伊達に乱世の奸雄などとあだ名されるわけがありません。
曹操は丞相(ジョウショウ:内閣総理大臣的な職)に就任すると、再び司馬懿の元へと使者を走らせました。しかも今度は、「断ったらひっ捕らえて連れてくぞコラ!」という職権濫用脅迫を行い、無理やり出仕させようという腹積もり。

 

 

曹操が何らかのカラクリを使って言質を取ろうとするのならばのらりくらりとかわせたかもしれませんが……ド直球の正面突破を受けては、もはや司馬懿に抗うという選択肢はありません。

 

結局司馬懿は、脅しに屈する形で曹操軍に仕官。文学掾(ブンガクエン:文書管理。やっぱり小役人)となって、とうとう中央への出仕を不本意ながら果たしてしまったのでした。

 

しかし、曹操からすれば司馬懿は信用できない男。というのも、自分のスカウトを名族のプライドから断り続けて、最後には縄にかけて引きずられるかどうするかの二択で渋々仕官を選んだような人物です。

 

 

結局任用法として思いついたのは、実子である曹丕(ソウヒ)の教育係。これならば重く用いなくても司馬懿を手元で監視することができ、なおかつ権力を与えることも無い。

 

 

しかし、曹丕はそんな曹操の深慮遠謀を気にするような慎重で常識的な人物でもなく……結果としてこの人事が、司馬懿の運命や価値観を大きく変えることになりました。

 

 

 

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司馬懿の転機

 

 

8歳年上の司馬懿を教育係につけられた曹丕は、親の慎重な策謀などどこ吹く風。馬の合う司馬懿をいつしか良き兄貴分として慕い、胸襟を開いて接するようになったのです。

 

知ってか知らずか自分の策謀を妨害する息子に頭を痛めた曹操司馬懿を牽制する動きを見せるも、そのたびに曹丕司馬懿を庇い立てして、「人を見る目がない」と曹操が嘆く日々。

 

 

しかしまあ、内面はともかく能力はある。それを見知った曹操司馬懿曹丕の教育係から外し、今度は黄門侍郎(コウモンジロウ:皇帝の近侍職)に抜擢。そこから曹操の側近となる職を転々とし、ついには彼の主簿(シュボ:秘書官)まで上り詰め、一定の信頼を得るに至ったのでした。

 

恐らく司馬懿の方も曹操に対する評価を改め、自分の主君に値すると認めた結果でしょう。ここから司馬懿は、曹操の内外の対処に口出しする姿が見えるようになります。

 

 

 

まず司馬懿曹操の軍事行動に進言をしたのは、張魯(チョウロ)を征伐しに行った時の事。当時南の蜀の地を奪った劉備(リュウビ)は同盟者の孫権(ソンケン)と冷戦状態陥っていたのを見て、以下のように進言しています。

 

「今の劉備は、西の孫権軍との諍いに力を注いでいます。漢中を制覇した後、さらに攻め込むと劉備は一気に瓦解するでしょう」

 

しかしこの進言は、「足るを知らぬ男よな。既に領地の拡大は成功したのに、まだ先を望むのか」と微妙に刺々しく却下されてしまいました。

 

 

その後、孫権曹操に一時的な降伏を申し込んだ時にも、その調子の良さに憤慨する曹操をなだめて落ち着かせています。

 

 

 

建安24年(219)に、関羽(カンウ)が北上し首都周辺にもその動揺が広がった時のこと。曹操関羽が万一防衛線を破れば首都近郊にも攻撃の手を伸ばせるのを懸念し、北の鄴(ギョウ)へ遷都しようと思ったときも、参謀の蒋済(ショウサイ)と共に反対。

 

「まだ戦って敗北したというわけでもないのに遷都しては、実質的に敗北を認めたようなもの。これでは民衆も動揺して逆に災いを招きますぞ。それよりも、劉備との冷戦状態が続く孫権を動かすのです。劉備が大きくなるのは彼としても不愉快でしょうから、きっと背後から関羽を攻撃するように動きます」

 

 

曹操はこの意見に従う形で遷都を取りやめ、結局関羽は防衛線を突破できずに撤退。さらには孫権から不意打ちを受けて軍は壊滅し、そのまま殺されてしまい当面の危機は去ったのでした。

 

 

 

 

曹丕の側近

 

 

 

話は前後しますが……魏が王国として成立した時、司馬懿はその皇太子である司馬懿の側近に復帰。太子中庶子(タイシチュウショシ)という近侍職として曹丕に仕え、陳羣(チングン)、呉質(ゴシツ)、朱鑠(シュシャク)といった側近衆と共に竹馬の四友と称され、特に曹丕の信任厚い人物の一人として彼のために働いています

 

この時司馬懿は、陳羣と共に曹丕の策謀を担当。魏王国のためにずば抜けた妙策をしばしば進言したとか。

 

 

 

曹操が亡くなった際も司馬懿は周囲の動揺を感じ取り、いち早く葬式を執り行って魏王国の首都である鄴に棺を持ち帰って場を引き締め……いよいよ時代は、自身と仲の良い曹丕の代へ。

 

そしていよいよ、司馬懿も本格的に頭角を現し、その鬼才を遺憾無く発揮するようになるのです。

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