【陸遜伝2】呉国重鎮・陸遜


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【陸遜伝2】呉国重鎮・陸遜

 

 

 

 

 

荊州地盤の強化策

 

 

 

 

さて、怨敵・関羽を屠り、呂蒙によって民の支持を孫権側に傾けることで地盤を盤石にしつつあった荊州ですが、陸遜にはもう一つ懸念がありました。

 

 

それが、孫権側に靡いた名士層の待遇でした。

 

 

当時の名士の力は絶大で、歴史上に書かれた「民意」という言葉は平民でなく名士らの意識として考えてもよいというほど、国の安定に大きなウェイトを占めていたのです。

 

 

呂蒙の任務を引き継いだ陸遜は、そんな名士層の待遇がまだまだ不十分であるとして、孫権に上奏。

 

孫権もこの意見を容れ、荊州の不安定要素は短期間のうちにみるみる減っていったのです。

 

 

……が、実際はどうあれ、多くの人からしてみれば荊州は劉備から奪ったものであるという認識が弱くはありません。

 

 

ましてや荊州名士を多く抱え、さらには中心人物である関羽を殺された劉備からすれば、今回の孫権軍の動きは許されるものではありませんでした。

 

 

 

黄武元年(222)、このままいいようにやられたままでは終われない劉備は、ついに大軍を率いて荊州に侵攻。孫権領を次々と制圧し、勢力下に加え始めたのです。

 

 

 

 

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夷陵の戦い

 

 

 

劉備率いる蜀軍の侵攻に際し、和睦の道が絶望的な孫権軍も、対劉備の軍勢を立ち上げます。

 

総大将は陸遜孫権は彼を大都督に任命し、仮節(カセツ:軍令違反者の処罰権限)と5万の軍勢を与えて劉備を防がせることにしました。

 

 

 

陸遜はこの時、荊州諸郡に連なる街道を結んだ夷陵(イリョウ)を最終防衛線に制定。この地を劉備軍が占拠する前に敵を撃退することを軍事目標としました。

 

 

……が、そこまで考えたにもかかわらず、当の陸遜は動くそぶりを見せず、蜀軍が攻撃や誘いを仕掛けても一切手を出さずに睨み合いを続けるという戦術を展開したのです。

 

 

これによって蜀軍はこれといった抵抗もされずに夷陵の間近に迫り、各地を占拠。呉軍の将らが陸遜に対し抗議の声を強めた頃には、真正面から止めることができない程に敵軍が勢いづいてしまったのです。

 

 

呉書には皆が口々に「陸遜は臆病者だ」と大きな不満を抱いていた事が記載されている辺り、この時の陸遜と周囲の軋轢は相当なものだったのでしょう。

 

陸遜の戦術を理解できないという点だけでなく、諸将の負けん気が転じてプライドが高かったことも、この不仲が大きくなった原因でしょう。

 

この時陸遜に付き従っていた将は、その多くが孫権の血縁者や孫策時代からの古参で、陸遜よりも先輩にあたる人物がほとんどだったため、それらを統制するのは難しかったのです。

 

 

 

陸遜もこの時剣に手をかけて、

 

 

劉備は一筋縄ではいかん相手だ! そんな非常事態に、殿から大任を預かった私の言葉を軽視し、軍令を乱し、自らの意地を最優先するのか!」

 

 

と一喝するなど、並々ならぬギスギス感が嫌でも伝わってきます。

 

 

 

 

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逆転の炎

 

 

 

 

さて、そんなギスギスした精神衛生上最悪な環境にて膠着すること8ヶ月程。周囲が完全に敗戦ムードになっている状況下で、陸遜は自身の部下に兵を与え、「今こそ好機」とばかりに劉備軍へ攻撃を仕掛けます。

 

しかし、案の定結果は敗北。

 

諸将らはこの様子を「兵を無駄死にさせた」と嘆きましたが、陸遜だけは「これで奴らの弱点がわかった」と強気で言い放ちます。

 

 

もはやこの状況下では陸遜の言葉もハッタリの負け惜しみのようにも聞こえましたが……なんと、本当に陸遜はこの1戦で、自身の思惑通りに事が進んでいることを理解したのでした。

 

 

 

直後、陸遜はすかさず火計部隊を編成し、蜀軍の陣所を火攻め。続けて水陸両軍を用いて総攻撃を仕掛け、一気に敵を追い散らし、最終的には数万の兵と多数の将校が討死するという壊滅的な打撃を与えることに成功したのです。

 

 

陸遜の読みは、以下の通り。

 

 

まず、蜀軍は占領軍である上、長江の川沿いを陸路で侵攻。このため占領下には兵を置かざるを得ない上に川沿いという地形もあって、陣営が長く伸びきってしまい、このままでは補給がままならない状態になっていたのです。

 

劉備はその問題を解決するため、木造の砦を多数建造して軍需品を備蓄し、補給問題を強引に解決する手段を択ばざるを得なかったのです。

 

 

こうして、自ら撤退が困難な上火に弱いという致命的弱点を抱えることになってしまった蜀軍は、長期間による遠征軍によって疲労も大きくなり、それらの弱点を意識する注意力を欠いたところに火攻めを仕掛ければ勝てる。

 

 

 

結果は、まさしく陸遜の計算通りといったところ。劉備は急いで撤退し、荊州の影響力を失墜。呉軍はこの戦いに勝利したことで荊州南部を完全に手中に収めることができたのです。

 

 

この大戦果に、陸遜に不満を感じていた諸将は認識を改めて敬服。陸遜の立場は、さらに立場は大きなものとなったのです。

 

 

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対魏戦線の幕開け

 

 

 

さて、この戦いで蜀に壊滅同然の大打撃を与えた呉軍でしたが……呉にとって蜀よりもさらに脅威となり得る国が、すぐ北にいたのです。

 

 

曹丕(ソウヒ)によって帝国として新たに樹立された、魏王朝。

 

曹丕は夷陵の戦いの決着直後に疲弊した呉を討つべく、着々と遠征の準備を進めていました。

 

 

 

蜀軍を打ち破った呉軍中からは「即座に劉備を追撃すべき」という声も多く寄せられましたが、同時に曹丕の動きを警戒する諸将からは待ったの声も同時に上がりました。

 

 

陸遜の決断は、劉備の追撃は中止し、次の行動に備えるというもの。

 

 

 

陸遜がこの決断をした少し後に、曹丕は遠征軍を整えて孫権領に侵攻。揚、荊州の合計3路からなる大攻勢が行われることになったのです。

 

孫権軍は陸遜らによって追撃が取りやめられたのも手伝ってほぼ万全の態勢でこれに備えることができ、辛くもこれを撃退。こうして呉の目下危険は収まり、ようやく領内は安定の兆候を見せ始めたのでした。

 

 

 

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石亭の戦い

 

 

 

夷陵の戦いの翌日には、蜀の劉備は燃え尽きたように死去。これによって大きなわだかまりが一つ消え去った呉蜀の関係は、和睦を成立させて同盟を結びなおすまでに回復しました。

 

 

これによって魏との戦いにほとんどの力を割けるようになった孫権は、これ以降魏への侵攻を強めます。

 

 

 

そしてしばらく一進一退の攻防が続いた後の黄武7年(228)。孫権は魏との戦いに1つの決着を迎えるため、ある秘策を打ち出します。

 

 

それが、魏の対呉戦線総大将・曹休(ソウキュウ)の誘い込みです。

 

 

孫権は周魴(シュウホウ)に命じ、曹休軍への偽降作戦を展開。7通もの手紙で曹休に取り入り、さらには孫権とのいざこざを演出して自らの髪を切って謝罪をするという迫真な演技を使い、曹休の信用を獲得。

 

こうして無事に周魴は策を秘めて曹休軍に投降し、曹休を石亭に誘導。おびき寄せられた曹休の撃破は、陸遜によって決行されることとなりました。

 

 

陸遜孫権から黄金のまさかり(当時は親征代行者の証)を受け取り、満を持して進撃。騙されたと知った曹休もタダでは引けないと陸遜を迎え撃ち、両軍は対陣しました。

 

 

陸遜は軍を三方に分け、左右を全琮(ゼンソウ)と朱桓(シュカン)に任せて中央を自身は進軍。置かれていた伏兵部隊を強行突破して曹休軍を粉砕し、1万の捕虜と大量の軍需物資を獲得する大戦果を上げることに成功したのです。

 

 

曹休は賈逵(カキ)や朱霊(シュレイ)といった魏将らの救援によってなんとか逃げ延びましたが、敗戦の責任を感じてか帰還後すぐに死去。

 

これによって呉は目下1番の強敵を排除し、自国が壊滅させられる危機を取り除くことに成功、その翌年には孫権自らが帝位に就き、呉王朝を称するまでに至りました。

 

 

陸遜もこれまでの戦果を称えられ、上大将軍(ジョウダイショグン:大将軍よりも1つくらい位が下がるが、軍事責任職としてはトップクラス)、右都護(ウトゴ:異民族統治の文官職。左都護とセットの役職だが、あちらの方が上らしい)に昇進。諸葛瑾に次ぐ、呉の軍事ナンバー2にまで栄転したのです。

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