【陸遜伝3】孫家との軋轢


このエントリーをはてなブックマークに追加

【陸遜伝3】孫家との軋轢

 

 

 

重鎮・陸遜の権威

 

 

 

諸葛瑾と言えば、孫権をして「マブダチ」と言わしめたほどの超人格者で、我の強い人物の多い修羅の国呉の緩衝材として大きな役割を担っていました。

 

陸遜は、孫権が全幅の信頼を置いていた諸葛瑾とほぼ同格(というかわずかに階級は下ですが)の地位を得て、さらには軍事のみならず政治においても大きな立場を獲得。権威はすでに呉の中でも圧倒的なものになっていたのです。

 

 

そんな陸遜の任地は有事に前線基地となる荊州にありましたが、孫権から内外の相談事をしばしば受け、さらには皇太子の後見人にも任命される等、非常に重用されました。

 

 

 

陸遜もそんな孫権の期待に応え、例えば「昨今は厳罰化が著しいかと。完全に悪に染まりでもしていない限り、罪を犯した者にもう一度機会を与えるようにしましょう」と進言したり、全琮らと共に孫権の海外出兵を反対したりと、中央の事に意見を申し出た記述が多くあります。

 

 

 

また戦争面においても、嘉禾5年(236:呉主伝(孫権伝)では嘉禾3年、つまり234年の事となっている)には孫権の合肥進出に合わせて荊州から北進して襄陽(ジョウヨウ)を攻撃。

 

味方の伝令が敵の捕虜になった事から作戦が失敗に終わってしまいますが、見せかけの攻撃で敵の戦意を挫くという陸遜の策によってさしたる被害もなく撤退することに成功します。

 

 

また、その撤退途中に江夏の一部の県に奇襲を仕掛けて敵軍を捕虜にした上で全員を暖かく労って解放することで敵軍の心を攻撃し、地元の豪族らの心を攻撃。

 

また、江夏太守の逯式(ロクシキ)なる人物が過去に孫権軍を苦しめた名太守:文聘(ブンヘイ)の息子と不仲と聞くと、してもいない寝返りの約定を手紙に書いて魏軍に送付。周囲が逯式に対し疑念を抱くように仕向け、彼を失脚させるなど、謀略面での活躍も記述に残っています。

 

 

そんなこんなですっかり重役としての立場が定着した陸遜でしたが……過ぎた力は余計な禍根を招くもの。陸遜の運命はこの辺りから狂っていってしまったのです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

暗雲

 

 

 

嘉禾6年(237)、山越の不服従民を討伐、徴用して兵力を増強したいと陸遜に強く願い出た者がいました。

 

陸遜はその作戦は反乱により失敗する可能性が高いとして気乗りはしませんでしたが、その人物があまりに強固に主張したため仕方なく許可。

 

 

こうして彼は山越討伐に向かいましたが、討伐に成功して兵を集めたところで、その兵たちに反乱を起こされて死亡。これ好機とばかりに周辺にまで反乱の戦果がおよび、陸遜はここに来て兵を挙げてこれらを討伐し、新たに8千の兵士を孫権軍に加えて反乱を鎮圧しました。

 

 

 

 

……さて、ここまでよかったのですが、この辺りから呉の中央には暗雲が立ち込めます。

 

 

 

呂壱(リョイツ)という人物が監査官の権力を悪用し、自身の望むままに呉の臣下らを告発。呉国内の権力バランスを自分の都合がいいように書き換えようとしていたのです。

 

 

呂壱の身勝手な振る舞いにより失脚した人物は数知れず。

 

 

陸遜は同じく荊州にて政務を行っていた潘濬(ハンシュン)と共にこの事を嘆き、他の家臣らともども幾度も孫権に上訴。

 

 

一時は孫権に一切聞き入れられなかった上訴ですが、重臣や皇太子といった数多くの重要人物による度重なる上奏によって孫権はようやく目を覚まし、呂壱を処刑。

 

 

呂壱による事件はこれにて一件落着しますが……この頃から孫権と家臣団には大きな溝ができてしまい、また、呂壱によって一度崩されてしまった権力バランスは元々危かった薄氷を盛大に打ち破り、後にとんでもない事件へと発展してしまうのです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

落日の前触れ

 

 

 

呂壱により国が滅茶苦茶にされただけならば、呉という国は大きく割れることはなかったかもしれません。

 

しかし、赤烏4年(241)年に、国家を揺るがす決定的な事件が発生します。

 

 

 

皇太子:孫登の死去。

 

 

これによって呉は後継者がいなくなり、候補は現在存命している孫権の息子の中で1番年長の三男・孫和(ソンワ/ソンカ)と、その弟である四男・孫覇(ソンハ)の2人が後継者の候補に上がるようになったのです。

 

 

さらに同年、野心高い呉人たちの抑え役でもあった諸葛瑾が死去。

 

 

そして赤烏7年(244)、長年丞相として国を支えてきた顧雍(コヨウ)がこの世を去ると、丞相のお鉢は陸遜に回ってきて、「政戦共に古人に匹敵する活躍を期待する」との言葉と共に、陸遜は呉の家臣団トップに君臨。

 

民政、軍政、司法すべての事務をまとめて担当することとなり、陸遜に寄せられた期待はさらに大きなものになりました。

 

 

 

……しかし、すでに家臣団の暴発を抑えられる人材はすでにおらず……陸遜もその渦中に自ら飛び込むことにより、その最期は悲惨なものとなってしまったのです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

陸遜の落日

 

 

 

もともと陸遜は二宮の変ではバリバリの孫和派であり、その立場が明らかな人物が国のトップに立ったことにより、後継者問題は表立って大きな波紋となってしまいました。

 

 

とはいえ一応の皇太子は孫和と決まってはいたのですが、実は弟の孫覇も同程度の領地と権力を持っていたため、現体制をひっくり返そうともくろむ野心家たちによって祭り上げられ、そのまま大きな後継者争いに発展してしまったわけですね。

 

 

 

この話を陸遜が知ったのは、中央にいる全琮からもたらされた知らせによってでした。要するに「これヤバいからどうにかしてくれ!」という一種の救援要請だったわけですね。

 

 

しかし、全琮の息子は、実はバリバリの孫覇派。孫和を支持する陸遜は、これを指して「まずはあなたの息子を殺して始末をつけろ」と言い返したのです。

 

これに対して事なかれ主義者穏健派の全琮はブチギレてしまい、完全に孫覇に加担。陸遜の放った容赦の無い正論が、火に油を注いでしまったのです。

 

 

 

重鎮である全琮の介入により、宮廷内の権力争いは孫覇有利に。

 

 

ここに来て陸遜はこの争いに孫和派として本格介入を開始。

 

孫権に対して直接「すでに皇太子を立てられたのですから立場をはっきりしてください」と正論を突きつけます。

 

 

しかし、ご覧の通り火のついた後継者問題は、非常にデリケートな問題。孫権もこの問題にはまだ首を突っ込みたくなかったのか、陸遜から3、4度と届く上奏文を無視。

 

 

これでは何の意味もないと思った陸遜はいよいよ「直接会ってお話させてください」と孫権に願い出て、そのまま孫権に引見。

 

 

 

ここでも「立場をはっきりさせ、皇太子をそのまま後継者と公的に認めさせることで混乱を収めるべきです」と述べましたが……陸遜もこの争いの1つの派閥を率いるリーダー。さらに甥たちもみな孫和の派閥として第一線で権力争いを起こしている身。

 

孫権には、どちらも等しく呉に混迷を与えている人物に見えたのでしょう。

 

 

 

結局、陸遜の発言は孫権の耳に届くばかりか甥たちの明確な態度を孫権に責められ、諫言は失敗。

 

 

ちくま文庫さんの三国志ではこの時陸遜は流刑に処されたとありますが、誤訳の可能性が大きいことが指摘されています。

 

 

 

逆に孫権から問責の使者が頻繁に来るようになったことで、陸遜は無念と憤りの中で倒れ、まもなく死去。享年63。

 

家には財産らしい財産が残っておらず、質素倹約に努めていたことが語られています。

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

【陸遜伝1】陸遜台頭
呉の名門・陸一族は孫策に滅ぼされており……
【陸遜伝2】呉国重鎮・陸遜
魏蜀の軍勢をことごとく撃退し、ついに孫権は呉帝国を建立。その過程での陸遜の働きは、間違いなく呉でも屈指のものでした。
【陸遜伝4】世にも微妙な人物評
呉の重役、功労者。三国志でも指折りの実力者として文句のない功績を上げた……はずの陸遜でしたが、妙に歴史家からの評価は振るわないのです。

ホーム サイトマップ
お問い合わせ