【陸遜伝1】陸遜台頭


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【陸遜伝1】陸遜台頭

 

 

 

 

孫家との確執

 

 

 

江東の陸氏と言えば有力な豪族であり、呉の中でも「四姓」と言われる超名門の一角でした。

 

陸遜はその家の分家に生まれ、始めは陸議(リクギ)と名乗っていましたが、幼くして父親が他界。親戚である陸康(リクコウ)の元に預けらることになりました。

 

 

その後陸康が盧江(ロコウ)太守として任地に赴くと陸遜もこれに同行しますが……後に友好的な関係であった群雄・袁術(エンジュツ)との仲が悪化。

 

袁術配下だった孫策(ソンサク)によって陸康の任地である舒(ジョ)は攻撃を受け、陸遜は陸康の子である陸績(リクセキ)を連れて、本籍である呉に避難することとなってしまったのです。

 

 

 

その後、孫策による長年の包囲の末陸康は病死し舒は陥落。陸氏宗家は散り散りになった後、飢餓によって半数近くが死去。陸氏は半ば滅亡に近い形に追いやられてしまいました。

 

 

 

そんな陸氏の未来を任されたのが、まだ若かった陸遜。彼はまだ幼い陸績よりも数歳年上であったために一族のまとめ役を任され、以後、陸遜が中心となって陸一族は再興の機会を待つことになったのです。

 

 

 

そんな陸遜が孫家と和解したのは、建安8年(203)の事。家を滅ぼした孫策はすでに亡く、一時は混沌とした孫家内部も孫権(ソンケン)によって落ち着きを取り戻しつつあった時の事でした。

 

始めは文官として西曹や東曹の令吏を担当しましたが、やがては地方にでて海昌県(カイショウケン:現在の塩官県)の屯田校尉(トンデンコウイ)として農業、そして同県の統治も任されたのです。

 

 

この県は連年ひどい干ばつに悩まされており民たちは苦しんでいましたが、陸遜は穀倉を開いて貧しい民たちに収穫物を分け与え、同時に農業と養桑を奨励。これのおかげで何とか民の飢餓は緩和され、孫権軍中でしっかりとした功績を建てることができたのです。

 

 

 

 

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孫権からの信頼

 

 

 

 

さて、孫呉の大きな課題の1つと言えば、異民族である山越(サンエツ)への対応。

 

孫策はこれらに対しては武力鎮圧の方針を取っていましたが、それが逆に敵を作り、多くの不服従民を抱えたことが孫権軍中では問題となっていたのです。

 

 

陸遜はそんな現状を見据え、「不服従民を征討し、その中から兵を募りたい」と孫権に具申。

 

この意見が認められて志願兵を連れ、潘臨(ハンリン)なる人物を中心として会稽(カイケイ)に巣食う山越の討伐に乗り出しました。

 

陸遜は険阻な地に拠る山越軍を次々と征討。向かうところすべてを降伏させ、その中から兵士2千ほどを自軍に編入する手柄を挙げたのです。

 

 

その後建安21年(216)、尤突(ユウトツ)なる人物の反乱に際しても兵を動かし、賀斉(ガセイ)と協力してこれも完全に鎮圧して見せました。

 

陸遜は度重なる功績を認められて定威校尉(テイイコウイ)に昇進。さらに孫権からも大いに信頼され、なんと兄である孫策の娘を妻として与えられ、孫一門の親族になってしまうほど重用されたのです。

 

 

 

この頃になると孫権陸遜に対する信頼は厚く、たびたび政治的な意見を求められるほどになったのです。

 

 

そんな孫権の信頼に対して、陸遜は建安22年(217)、しっかりと自分の意見を述べることで応えました。

 

 

「現在、情勢は大国同士の睨み合い。それだけでなく各々背後を異民族によって脅かされている状態です。こういう時は、まず異民族の脅威を取り払い国内を安定。同時に山越の兵士らを自軍に組み込み、軍拡に取り組むのが上策でしょう」

 

 

 

おりしもこの頃、費桟(ヒサン)という人物を頭目とした一団が曹操の扇動工作によって独立。孫権を背後から脅かして曹操軍と連携する構えを見せていました。

 

陸遜孫権の名を受けて、費桟討伐に出陣。

 

この時陸遜は兵力の上では劣勢でしたが、奇襲部隊による夜襲作戦によって費桟の軍を一気に蹴散らしたのです。

 

 

続いて陸遜は東の丹陽(タンヨウ)、新都(シント)、会稽の三郡で募兵を執り行い、山越らを含め数万の軍勢を入手。また、体力のないものには平民として戸籍を与えました。

 

 

さらには周辺の山賊たちも根こそぎ倒し、史書には「陸遜のいる所は常に清められた」とあるほど徹底して治安を強化したのです。

 

 

 

 

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関羽戦線

 

 

 

建安24年(219)に対関羽(カンウ)の流れが孫権軍中でも強くなり始めた頃。

 

関羽の中心人物である呂蒙が病によって前線を離れた際、陸遜呂蒙と面会。

 

 

「あなたが病気で前線を去った今、関羽は完全に油断しきっています。今のうちに殿と共に関羽打倒の計略を練られますよう」

 

 

これを聞いた呂蒙は思うところがあったのか、病気で離れた前線の後任として陸遜孫権に推薦。かくして、陸遜は偏将軍(ヘンショウグン)、右都督(ウトトク)の地位を得、荊州軍の指揮官として前線に赴きます。

 

 

前線に着いた陸遜は、関羽の油断を誘うためにとことん関羽をおだてて遜った挨拶状を関羽に送付。

 

 

「将軍の実に素晴らしいお力に、我らもみな心服しております。つきましては、我々にもぜひとも、その強大なお力を以ってご助言くださればと存じます。

 

しかし、曹操めは老い耄れたといえどもまだまだ油断はなりません。どうか万全を期されますよう。

 

私ごとき非才の者が、将軍のようなお方と隣り合わせになれて大変うれしく思っています。まだ教導して敵に当たる事はありませんが、その時がありましたら、どうかお引き回しのほど、よろしくお願い申し上げます」

 

 

もともとナンバー1主義の俺様気質で、頼られればついついうれしくしてしまう関羽の性質を読み切ったともいえる手紙により、関羽は完全に油断。

 

「どうせ大した奴らではない」と完全に警戒心を緩めてしまい、潜在敵国であることがほぼ表面化していることなどほとんど忘れてしまったのです。

 

 

そして陸遜は、すぐさま関羽の油断によって変化した情勢を孫権に報告。ついに孫権自らが動き、関羽討伐に踏み切ることになったのです。

 

 

陸遜呂蒙と共に先鋒を率いて荊州南部の重要拠点である南郡(ナングン)、公安(コウアン)をまたたく間に占拠。

 

 

呂蒙がそこにとどまり領民を慰撫している間に陸遜はさらに北上し、宜都(ギト)郡の各都市も攻略。官吏や近辺の異民族を皆屈服させてしまったのです。

 

 

陸遜はこの時に金銀財宝を褒美に受け取りましたが、これらはすべて寝返ってきた官吏や異民族の王らにばら撒き、占領地慰撫のために全て使ってしまったことが史書に載っています。

 

 

また、部下を遣ってさらに周辺の劉備軍やその支持者を追い散らしていき、各地を占拠。この時に動かしたのはわずか3千の兵に過ぎませんでしたが、1連の軍事行動を終えた後には、捕虜と帰順した者を合わせて数万に膨れ上がっていたと言われています。

 

 

 

とにもかくにも、荊州奪取および関羽討伐は大成功。陸遜はこの功績によって右護軍(ウゴグン:護軍は軍の監督役)、鎮西将軍(チンセイショウグン)に任命され、さらに婁侯(ロウコウ)の爵位も与えられました。

 

 

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