【荀彧伝1】曹操の子房、王佐の才


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【荀彧伝1】曹操の子房、王佐の才

 

 

 

王佐、乱世に出る

 

 

 

荀彧は「性悪説」でおなじみの荀子の子孫と言われており、地元の潁川で多大なネットワークを構築している名士。しかも本人も相当な逸材だったようで、曹操の才を早くから見抜いていた何顒(カギョウ)の人物評をして「王佐の才(帝王の宰相としての逸材)」とまで言わしめたとされています。

 

 

 

そんな荀彧が世に出たのは永漢元年(187)の事。孝廉(コウレン:地元推挙)によって守宮令(宮中の文房具などの備品管理)に任継されました。

 

 

……が、そのしばらく後、宮中は政争によって都が荒廃し董卓(トウタク)が実権を握ると、地方官僚の役職を願い出て中央を脱出。そのまま任地には赴かず地元に逃げ帰りました。

 

そして帰ってきた故郷で、長老たちに向けて先祖代々からの土地を捨てての疎開を提言。しかし、当時生まれ出た土地は特別なものとされており、これを捨てるのは一大決心と言える大変な事でした。

 

当然、ほとんどは土地を捨てる決心がつかず、結局董卓と反発した群雄たちによる争いが始まってしまったのです。

 

 

そんなこんなで中、荀彧らを招集しようと冀州(キシュウ)の州牧をしている韓馥(カンフク)から、直々のお誘いがかかってきました。

 

冀州と言えば、都の洛陽から黄河を挟み、さらに奥地へ向かった先。結局誰も自分の言葉に従わなかったため、荀彧は自分の一族を引き連れて韓馥に会いに行くことにしたのです。

 

 

 

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我が子房

 

 

 

 

さて、こうして冀州の韓馥に会いに行くことになった荀彧ですが、ここで一つ、とんでもない報告を受けたのです。

 

なんと韓馥の勢力は、名族である袁紹(エンショウ)に権限を譲渡する形で滅亡。荀彧が行こうとしていた冀州の主は、既に韓馥ではなくなってしまったのです。

 

 

しかし、袁紹はちょうど自身の手足になる人材を探しているところで、高名な名士である荀彧が来たことを喜び、すぐに改めて招集。上客として迎え入れられ、同郷者や兄弟が袁紹に任用されているのもあって特別待遇を受けることになったのです。

 

……が、当の荀彧は「袁紹は大事を為す器ではない」と考え、そのまま別の主君を探す道を選んだのです。

 

 

 

と、そんな折、当時は奮武将軍(フンブショウグン)という将軍を自称していたにすぎない曹操に着目。

 

おそらく、何か感じ入る所があったのでしょう。「この男ならば大事を為せる」とばかりに袁紹の元を去り、初平2年(191)、荀彧はまだまだ群雄としてもあまりに小さい曹操の陣営へと自ら身を投じたのです。

 

 

曹操は思わぬ良家の大物が自らに仕官したことで大喜び。荀彧を指して「我が子房(前漢の天才軍師・張良)」と褒め称え、彼を司馬(シバ:司馬と言えば国家軍事の元締めだが、おそらくここでは曹操の属官と思われる)に任命し、以後曹操荀彧と助けを得て、天下の大勢力にのしあがることになるのです。

 

 

 

 

 

兗州危機

 

 

 

さて、こうして曹操軍に収まった荀彧ですが、この頃の曹操には一つ懸念がありました。

 

西の長安にて天下を狙う董卓。彼は以前曹操を叩きのめしたこともあり、この時も群雄としては破格の戦力でしばしば曹操領の付近にまで出撃していた危険人物です。

 

 

……が、董卓を警戒する曹操に比べ、荀彧は素知らぬ顔。「董卓は敵を作り過ぎました。いずれ内乱によっていなくなるでしょう」と述べ、翌年にはその予測通りに董卓は死亡。李傕(リカク)らが跡を継いだものの、以後その勢力は崩落の道を歩むようになるのでした。

 

 

 

さて、そんな中、曹操は兗州(エンシュウ)を掌握し、州牧に昇進。ついに1つの州を傘下に収め、群雄としてようやく独り立ちが叶ったのです。

 

 

そんな折の興平元年(194)、曹操は同盟関係にある袁紹の依頼を受け、お隣の徐州(ジョシュウ)に割拠する陶謙(トウケン)への攻撃を開始。荀彧は留守番役として兗州にとどまりましたが……この時、どういうわけか曹操の親友である張邈(チョウバク)からの使者が、荀彧の守る城へとやってきたのです。

 

 

董卓の元で勇名をはせた、あの呂布(リョフ)が援軍に来てくれました。彼らに戦ってもらうため、兵糧をいただけないでしょうか?」

 

 

これを聞いた荀彧は、すぐに事の次第を察知。「張邈らが呂布を迎え入れて曹操を裏切った」と断定して、即座に軍備を整えることに。同時に同じく守備を任されていた夏侯惇(カコウトン)に救援を要請し、臨戦態勢を整えます。

 

 

 

しかし、驚くべきことに、荀彧が戦闘準備を整えた時点で、兗州のほとんどが呂布側に呼応。さらに荀彧の城でも上級官吏の大半が裏切るという大変な事態になってしまっていたのです。

 

結局、到着した夏侯惇によって反乱を計画した者が数十人処刑されたことで騒ぎは収まりましたが……それでも周囲は敵だらけ。まだまだ予断を許さない状況は続いていました。

 

 

荀彧はこの状況を打破するため、漁夫の利を狙ってやってきていた西隣の豫洲(ヨシュウ)刺史である郭貢(カクコウ)と面談し、彼の軍勢の乱入を阻止。

 

その後、同じく呂布の侵攻を食い止めていた程昱(テイイク)らとの連携を密にし、郡の太守を説得して一部領土を回復。結局、荀彧らは自らの守る鄄(ケン)の他、范(ハン)、東阿(トウア)の3郡を確保。

 

 

こういった荀彧らのおかげで、曹操は間一髪で領土の失陥を免れ、後に飢饉により停戦。呂布と引き分けに持ち越すことができたのです。

 

 

 

その後、呂布としばらくにらみ合いが続いたある日、対立していた徐州の陶謙が死亡したことを聞いた曹操は、すかさず徐州平定を画策。まず東で力を整えた後、満を持して呂布と決着をつけようとしたのです。

 

……が、荀彧はこれに対しては反対意見を述べ、「まずは本拠地の安全確保が先です」と呂布討伐を進言。曹操荀彧の言うとおりに兵を動かし、呂布と再戦。今度は見事に大勝し、兗州から駆逐することに成功したのです。

 

 

 

 

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名士ネットワーク

 

 

 

建安元年(196)、董卓残党らによる荒廃から逃れるため、漢の帝が東へと脱出し、再び元の都である洛陽まで逃げてきました。

 

曹操はこれを見て、自らの影響下である許(キョ)に帝を迎え入れ、そこを首都とすることを計画。これには「簡単にはいきません」と反対する意見も多くありましたが、荀彧は完全にGOサイン。

 

 

「お国を気にかけて忠誠を形で示すのは、諸国への良い宣伝になりますし、その威光を使って民衆の忠誠心や各国と対応するに有利な状況、そして漢帝国を慕う英傑を招き寄せることができます。それに、現在帝を護衛している面々も、帝の庇護対象相手に足は引っ張れないでしょう。周囲の群雄が漢室に忠誠を抱いている今のうちに行動すべきです」

 

 

うーん、この漢の忠臣らしからぬ黒さ

 

 

かくして荀彧の意見を聞き入れた曹操は洛陽まで軍勢を派遣。帝を擁して各国に号令することで大義名分を得、司空(シクウ:法務大臣)と車騎将軍(シャキショウグン:本当はトップの大将軍だったが形上曹操の上にいる袁紹がゴネたため一つ下のランクに)の地位に任命されることとなったのです。

 

この時に荀彧もまた侍中(ジチュウ:皇帝の質問等への対応役)・尚書令(ショウショレイ:皇帝への上奏文を取り扱う)といったその気になれば皇帝を操ることもできる地位を二つ兼任するようになりましたが、その業務姿勢は清廉で厳正であったと伝えられています。

 

 

 

また、この以前から曹操軍の人材確保にも一役買っており、「漢室中央に仕えることになった荀彧の代わりに曹操を支えられる」として紹介した甥の荀攸(ジュンユウ)、そして山椒名宰相として知られる鍾繇(ショウヨウ)の二人を筆頭に、多くの人材を曹操陣営に加入させたのです。

 

 

荀彧が引っ張ってきたとされる人材は、同郷では戯志才(ギシサイ)、荀彧(カクカ)、陳羣(チングン)、杜襲(トシュウ)、辛毗(シンピ)、趙儼(チョウゲン)。さらには他所からも司馬懿(シバイ)や華歆(カキン)、王朗(オウロウ)、杜機(トキ)などそうそうたる面子。

 

彼らの他にも多くの大臣を輩出しており、推挙した人物の中で大成しなかったのは厳象(ゲンショウ)や韋康(イコウ)くらいのもので、しかも彼らも「反乱や内乱に巻き込まれて殺された」というのが小身で終わった原因であり、必ずしも能力が凡庸だったわけではないのだから驚きですね。

 

 

 

さて、そんなこんなで荀彧のバックアップもあって、張繍(チョウシュウ)や復活した呂布などのライバルを全て併呑した曹操。彼はいよいよ、これまで上の立場にあった袁紹との直接対決に臨むようになります。

 

しかし、双方の物量差は圧倒的。苦戦は必至という有り様でしたが、そんな二人の力量差を見ても、荀彧の目にはいろんな意味で迷いがありませんでした。

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