【荀彧伝2】イケメンヤンデレスパルタ宰相
荀彧式スパルタ覇王擁立法
さて、実は呂布の反乱に際して曹操の安全策を否定し独自の「覇業論」を唱えたあたりからそれっぽい片鱗はありましたが……袁紹との関係が悪化するにあたり、そのスパルタな方針がより明確になりつつありました。
「最近曹操の様子がおかしい」
皆口々にそう言っており、「きっと戦いで負けがこんでいたのが原因だろう」と噂をしていました。しかし、荀彧だけは「何かあるな」と察知し、曹操にわけを問い詰めます。
すると曹操が取り出したのは、袁紹からの手紙。内容は曹操の品格、人物、果ては家柄までをも馬鹿にしたような挑発文だったのです。
「自分の何倍もの巨大勢力を誇る袁紹と戦うとかもう無理死ぬ」とばかりにうろたえる実はヘタレ曹操に、荀彧は今一度、はっきりと自らの覇王論を主張。
「袁紹さえ倒せば天下を取れたも同然! 度量、知略、武力、徳義。すべてにおいて殿は勝っておられます! 何を恐れるものがあろうか!」
袁紹は、言わば時代を象徴する英雄。つまらない人物と思われがちですが、十分な大物なのです。そんな大人物が何倍もの勢力を頼りに攻めかかってこようかという時にこの姿勢。この完全に開き直った在り方が、もしかしたら荀彧の本当の姿なのかもしれません。あと地味に主君の尻叩いてる
その後も荀彧はまるで強気の姿勢を崩さず、家臣団の「袁紹に勝つのは難しいな」という意見に対しても声高に否定。
「袁紹の人材は性格に難があって癖が強い。崩れ去るのはそう遠くないぞ」とやはり強気の姿勢を崩さず、建安5年(200)、とうとう曹操を地獄に突き落とす袁紹との決戦のため許都より送り出したのでした。
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前門の袁紹、後門の荀彧
「敵軍の対象である顔良(ガンリョウ)、文醜(ブンシュウ)は所詮匹夫の勇」。荀彧は戦前の袁紹軍人物評でそう主張していましたが、曹操は荀彧の予見通り先鋒隊を率いてきた顔良、文醜両将をそれぞれ1度の戦いで討ち取って初戦を優位に進めていました。
しかし、相手は「天下に最も近い」と謳われる袁紹軍。序盤の優位などあっという間に覆され、曹操軍は砦内に押し込まれて窮地に陥っていました。
さらに死に物狂いの防戦を続けているうちに大事な兵糧も欠乏。いよいよ全滅の危機に立たされた曹操は「もうヤダおうち帰る!」前線基地を放棄、後退して仕切り直すことを決意。
その旨を荀彧に手紙で伝えますが、「ここが天下の正念場。退いたほうが負ける状況です。そろそろ戦場でも変化が起きるはず。それに乗じて奇策を用いるのです!」と激励。早い話が、「勝つまで帰ってくるな!」と曹操に喝を入れたのです。
前には敵、後ろはおっかないカーチャン幕僚。完全に挟み込まれて逃げ場がないことを悟った曹操は、思いとどまり一念発起。
荀彧の手紙の通り、敵の輸送隊を捕捉して袁紹軍の補給を絶ち、ついに勝利を収めたのでした。
曹操の尻叩き
さて、官渡の戦いに勝ったとはいえ、未だに袁紹との戦力差は超劣勢を免れた程度。さらに袁紹も存命でなかなか隙が見当たらず、もう一度決戦を挑もうにも兵糧も不足状態でした。
そのため、曹操は袁紹との決着を断念。ひとまず南の劉表(リュウヒョウ)に標的を変えようとしますが……これを許さないのが荀彧。「袁紹が力を盛り返せば成功の機会は失われます! 敗北で力を失った隙を狙うのです!」と、再び対袁紹の戦線に曹操を放り投げたのです。
そんなやり取りの後、圧倒的な強豪・袁紹との戦いに明け暮れた曹操ですが……官渡の戦いから2年後の建安7年(202)、袁紹が病気のため死去。袁紹の息子らの間で跡目争いがおこり、また西に派遣した鍾繇が手なずけた馬騰(バトウ)ら西涼の軍勢の介入もあって形勢は次第に逆転していったのです。
そして建安9年(204)、曹操はついに袁紹の本拠地であった鄴(ギョウ)を制圧。冀州(キシュウ)牧に就任し、もはや袁紹の遺した勢力など天下に無き物とすることに成功したのです。
なおこの時臣下には「昔は冀州を中心に九州を設置し、広大な領地を治めたとか。殿もそうなさいませ」と曹操に進言する者がいましたが、荀彧はこの意見には真っ向から反対。「今の情勢で独裁を目指せば、周囲の反感を買って面倒なことになる」と力説し、曹操にこの案を取り下げさせたのです。
そしてついに建安12年(207)、曹操は袁紹の息子らを含む北方の脅威を完全に駆逐。天下の大半を手にすることになったのです。
この時曹操配下には大規模な賞与が行われましたが、荀彧もその中で領土の大幅加増を受け、領土食邑は2千戸と、かなりの大身になったのでした。
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謎の死
さて、建安13年(208)には、曹操はいよいよ南への転身を決意。荀彧に戦略構想について尋ねますが、荀彧は「南の劉表も追い詰められたことは悟っているでしょう」と推察し、堂々と進軍する一方、軽装の部隊で間道を抜けて奇襲作戦を決行し戦意を削ぐ作戦を献策。
曹操がその通りに進む途上、偶然にも劉表が病死。その後を継いだ息子の劉琮(リュウソウ)は抵抗の遺志を示さず曹操に降伏するというラッキーに見舞われました。
これによって無傷で荊州を得た曹操は調子づいてさらに南進を進めますが……この時、劉備と手を結んだ江東の孫権(ソンケン)が差し向けた軍勢に抵抗され敗北。
これ以降の曹操は精彩を欠き、荀彧との関係もギクシャクするようになっていったようです。
そんなこんなで関係が冷え込みつつあった建安17年(212)の事。この時、曹操幕僚たちの中では「曹操を公爵に」という声が高まり、曹操もこれに悩んで荀彧に相談してみることに。
すると荀彧の答えは、
「漢の忠臣として立ち上がった以上、下手に上にのし上がって『正義の軍団』の印象を損なうのはよろしくありません」
とのもの。この時の曹操は、「まあ荀彧が言うのならば」と一度公就任を取りやめますが、内心では曹操による天下をいち早く望む群衆との板挟みか野心ゆえか、気持ちは穏やかではなかったとか。
また、この年、曹操は孫権討伐の軍を上げており、この時荀彧は「軍の慰労」という形で中央の朝廷から引っ張り出されてしまっています。
さらにその後も軍中に引き留められる形となり、中央には戻れず仕舞い。早い話が、失脚してしまったのではと歴史家の間では言われています。
その後曹操軍は孫権討伐のために自領を旅立っていきますが、荀彧は病気のために寿春(ジュシュン)に残留。その地でそのまま病死してしまったのでした。
関連ページ
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