【荀彧伝3】漢の忠臣の真の顔


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【荀彧伝3】漢の忠臣の真の顔

 

 

 

 

人物評

 

 

さて、荀彧のヤバさ(!?)を断片的に述べたところで、今度は歴史家たちの荀彧評を見てみましょう。

 

 

まず、三国志を編纂した陳寿は、彼をこのように評しています。

 

 

荀彧は涼やかないでたちで、道理をわきまえた態度と王を支える宰相の風格を持っていた。

 

また時運を認知出来る能力と先見の明をも持ち合わせていたが、自己の理想を確立することができなかった。

 

 

つまり、イケメンでとんでもない切れ者、しかも態度や風格まで良好のオーバースペック気味の人間と評しながら、自分の思い描く天下を掴むところまでは行かなかったとしています。

 

 

また、徹頭徹尾後漢の臣下という立場で曹操を支えながら三国志の魏書に、しかも重臣としてその伝が立てられている辺り、陳寿からすると「荀彧の本心は魏にあった」という解釈が見えてきます。

 

 

 

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しかし一方で、

 

・最初から最後まで漢王朝の家臣としての立場で居続けた

 

曹操の魏公就任に反対した

 

 

という事実から、「漢王朝に最期まで尽くした、まさに忠義の化身である」とする声も大きく、この2つの意見が織り交ざって現代の荀彧像はかなり複雑な物になっています。

 

 

特に荀彧を漢の忠臣とするにあたって、漢王朝の家臣をまとめた「後漢書」にも荀彧伝があったり、また三国志を注釈した裴松之も荀彧の忠義を疑問視する声には逐一反対意見を述べていたりと、特に荀彧=漢王朝のために最後に曹操と争った忠臣」という見方はかなり根強いと見てよいでしょう。

 

 

が、一方で荀彧忠臣説においては「荀彧曹操擁立って、言ってしまえば泥棒のために壁を壊して金庫の鍵まで開けてあげたようなものだよね?」というツッコミも上がっており、なかなかに荀彧評はカオスなことになっていますね。

 

 

 

特に荀彧忠臣説を採る唐の司馬光なんかは「本伝にはしばしば、『荀彧は漢の高祖・劉邦や漢帝国が建立した時の話を引き合いに出して、曹操の動きを例えた』みたいな記述があるが、あれは絶対嘘だ。創作だ! 漢の忠臣である荀彧が損なことをするはずがない!」とどう考えても感情論本伝の内容にまで言及しており、もはや理論性もクソもあったものではないくらいまで話が白熱化しているのが伺えます。

 

 

 

 

実際のところはどうなのか……

 

 

 

実際のところと銘打ちながらも、結局は個人的な意見になってしまいますが……

 

どうにも「漢王朝の威光を利用し、曹操を理想の帝王に染め上げる」といった大方針が、荀彧の本性のような気がしてなりません。

 

 

そしてもう一つの特徴として見えてくるのが、「漢史ヲタ」。

 

司馬光が嘘と断じた話でも出てきましたが、荀彧曹操に求めた覇道には、常に「過去の歴史」に根差したものでした。とはいえ歴史話を持ち出して何かを説くのは当時の基本だけど

 

 

荀彧の場合、持ち出す故事はだいたい漢王朝の設立とか、そんなところ。

 

 

例えば漢室の帝を奉戴することを献策した時にも「高祖・劉邦は、項羽によって当時の帝を殺された際は喪に服して忠義を示し、多くの人の感銘を得ました」などとたとえ話を切り出しており、曹操袁紹との戦いを決める際にもやはり劉邦と項羽の差を説いて話を進めています。

 

 

極めつけは官渡の戦いの際にも、逃げようとした曹操に対し、「劉邦と項羽は天下を争う時に、どちらも自分から逃げようとはしませんでしたぞ!」と強く諫言しています。

 

 

 

ちなみに劉邦はご存知の通り、この後天下を手中に収めて漢帝国を築き上げていますし、曹操を漢から続く新たな時代の始祖に仕立て上げようという野心があったのでしょう。

 

 

 

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その死の真相や如何に?

 

 

 

さて、荀彧の死の真相ですが……正直、よくわかりません。

 

とにかく言えるのは、

 

 

1・曹操の公爵就任に反対

 

2・失脚し憂悶の内に死去

 

 

この2点。

 

 

まず、荀彧の失脚について。

 

 

 

荀彧は実のところ、曹操の戦争に参陣したことというのがほとんどありませんでした。特に漢王朝を奉戴してからというもの、常に中央の朝廷で漢臣として働き詰めで、そこから動いた形跡はありません。

 

 

にもかかわらず、その死の間際は軍の慰労のために中央を離れ、しかもそこから中央に帰れないまま引き留めを食らって、結局寿春で病死。

 

その後、曹操は晴れて魏公に就任したわけですが……。

 

 

 

どう考えても話が出来過ぎています。やはりこれは、魏公就任に賛成した面々、あるいはそんな話が幕僚内で出たことによって荀彧を警戒した漢の直臣のどちらかの手によって完全に失脚してしまったと考えるのが妥当でしょう。

 

 

 

では、なぜ荀彧は魏公就任に反対したのでしょうか?

 

 

これに関しては、もしかしたら先述の「漢史ヲタ」という勝手な推測から考えて、新の王莽(オウモウ)が頭に浮かんだのかもしれません。

 

王莽は前漢と後漢のちょうど境目の辺りに生きたじんぶつで、彼は前漢から帝位を簒奪し、新王朝を建国。しかしわずか1代で漢王朝に帝位を奪い返され、後漢王朝の幕開けの踏み台になったという汚名が長い歴史に刻まれた人物なのです。

 

 

もしかしたら荀彧は、曹操の魏公就任に対し、この王莽の末路を想像してしまい、真っ向から魏公就任に反対していたのかもしれません。

 

 

 

あるいは、もう一つ思い浮かぶ要因としては、自己保身。

 

 

実は漢王朝は曹操の庇護を受けてはいたものの、その実水面下では曹操派と王朝派の熾烈な権力争いが続いており、時には曹操暗殺未遂に繋がるなど必ずしも良好な関係とは言い切れませんでした。

 

 

そんな中で、曹操派の幕僚である董昭(トウショウ)らが曹操の魏公就任の話を持ち掛けたのですから、形の上では漢室の直臣として王朝とベッタリの荀彧としては、身の危険を感じる状況だったとしてもおかしくないでしょう。

 

 

いずれにせよ、荀彧はあのタイミングで死ぬべくして死んだ、あるいは殺されたのは間違いなく、おそらく病死しなくても曹操、あるいは漢室によって獄死という末路が待っていたのではないかと言われています。

 

 

この二人の関係の終わりには、いったいどんな闇があったというのか……。

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