【荀攸伝1】猛将絶対殺すマン


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【荀攸伝1】猛将絶対殺すマン

 

 

 

 

若かりし日はアグレッシブ

 

 

荀攸は幼い頃に父を失い、祖父の元に預けられていました。しかし十三歳の時にその祖父が死去。そして叔父が跡を継いだ時、張権(チョウケン)という人物が「荀攸の祖父の墓守をしたい」と志願してきました。

 

これを怪しいと思った荀攸は叔父にそれを報告。叔父が身元を調べると、なんと張権は逃亡してきた殺人犯だったのです。

 

 

この話はすぐに広がり、荀攸は叔父からも信頼されるようになったとか。

 

 

189年に漢の大将軍・何進が名士20人余りを招集した際、荀攸も他の名士と一緒に招かれて中央に出仕。黄門侍郎(コウモンジロウ:勅命を伝達する役職……らしい。水戸黄門の「黄門」部分の語源とされる)に任命されました。

 

が、何進はその後敵対していた宦官により暗殺され、その宦官も何進派の人物らに粛清されるという大混乱が発生。その隙を縫って辺境から軍を率いてきた董卓(トウタク)によって都・洛陽は占拠される事態に陥ります。

 

 

その後反攻組織との戦いのさなか、董卓は都・洛陽を焼いて長安(チョウアン)に強制遷都。董卓の専横によって、漢王朝の威厳はさらに失墜していくこととなったのです。

 

 

この事態を見かねた荀攸は他の名士らと共謀し、董卓暗殺を計画。

 

しかしいよいよ実行に移そうかという直前に、どこからか暗殺計画は露見。荀攸は仲間の一人である何顒(カギョウ)と共に逮捕、投獄され、そのまま死刑を言い渡されてしまいました。

 

この時、何顒は恐怖のあまり自殺したとありますが、荀攸は食事や取り締まりの時も平然としていたとか。

 

 

さて、いよいよ処刑されようかという荀攸でしたが、別の人物が画策した暗殺計画が発動したことにより董卓は暗殺され、荀攸は助け出されて一生を得ました(あるいは他の人に頼んで董卓に命乞いしたため助かった説もあり)。

 

 

ともあれ、董卓の専横下を何とか生き延びた荀攸は、その後官職を辞めて長安を帰郷。太守に任命されたものの赴任しませんでした。

 

 

後に自分から天然の要害に囲まれた辺境の蜀郡(ショクグン)太守に自分で望んで就任しましたが、未知が完全に封鎖されているため赴任できないまま、荊州(ケイシュウ)で足止めを食らう羽目になってしまったのです。

 

 

これによって、中央からの離脱という目論みは完全に絶たれてしまったわけですが……これが最終的に、荀攸にとっては好機として働いたようです。

 

 

 

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天下の軍師?

 

 

曹操が長安から脱出してきた漢帝を保護すると、彼は荀彧の推薦もあって、荀攸に手紙を送ります。その内容は、

 

「天下が大いに乱れた今こそ、策謀の士が働く必要がある。なのに、蜀の地を望んだまま足止めを食らって、随分長いのではないか?」

 

 

早い話が、「中央から離脱なんかせずに、いっそ俺の力になれ」というわけですね。この言葉で荀攸は平穏な地に逃れることをあきらめ、曹操のブレーンとして働くことを決めます。

 

 

召しだされた荀攸は、すぐに汝南(ジョナン)太守、その後尚書(ショウショ:朝廷の文書管理)の仕事を任せることにしました。

 

 

また、かねてから荀攸のうわさを聞いていた曹操は興味津々で、すぐに荀攸と面談。曹操はすぐに彼を気に入り、「並の人物ではない。こいつと組めば怖いものなしだ」と評し、荀攸を軍師に任用。以後、荀攸は曹操軍の軍師として、その鬼謀を振るうことになるのです。

 

 

 

 

 

 

猛将殺すマン・荀公達

 

 

 

建安3年(198)に張繍(チョウシュウ)征伐に赴いた際、曹操は荀攸を随行させます。この時荀攸は張繍と背後の劉表(リュウヒョウ)の協力関係に目をつけ、

 

「一気に攻めれば彼らは成り行き上連携します。こうなると手ごわいでしょう。が、張繍は遊撃隊として動き、食料の供給は劉表に頼り切り。ならば、劉表からの食糧供給を断ち切って、張繍を離反させるのがいい策でしょう」

 

と献策。

 

 

しかし曹操はこれを聞かずに張繍を攻撃。結果、劉表を刺激することになり劉表は張繍に援軍を派遣。曹操軍は敗北を喫してしまいました。この時曹操は「君の意見を無視したばっかりにこれだよ」と悔しそうにしながらも笑って見せ、再戦では奇襲部隊を活用して勝利をもぎ取ることができたのです。

 

その後、徐州(ジョシュウ)に割拠している呂布(リョフ)の討伐にも参加。連戦連勝する曹操軍は、ついに呂布を下邳(カヒ)にまで追いつめる事が出来ました。が、精強な呂布軍との度重なる戦闘により曹操軍も疲弊しており、曹操は撤退を考えていた時。

 

 

この時も荀攸の目がキラリと光ります。彼は同じく軍師の郭嘉(カクカ)と共に、猛攻撃を主張します。曰く、

 

 

呂布軍は連戦連敗で士気もガタガタです。呂布は強いです頭は悪く、彼自身の気鋭は大きく削がれています。また、参謀の陳宮(チンキュウ)も知恵はありますが決断力がありません。陳宮の計略が定まる前に、速攻をかけて一気に終わらせてしまいましょう」

 

 

曹操は彼らの案を採用し、堤防を切って下邳を水攻め。手も足も出ないままの呂布軍を撃破し、呂布を生け捕りにすることができたのです。

 

 

 

建安5年の官渡の戦いにおいても、その猛将キラーとしての頭脳はいかんなく発揮されています。

 

まず手始めに、現在をして袁紹(エンショウ)軍の二枚看板とまで言われている猛将・顔良(ガンリョウ)を計略を用いて撹乱。客将として参陣していた関羽(カンウ)をはじめとする軍勢を差し向けて討ち取ることに成功します。

 

 

その後、二枚看板の片割れである文醜(ブンシュウ)が攻撃を仕掛けてきた際も、輜重(シチョウ:兵糧などの輸送)部隊を囮にして文醜を誘い出し、陣形が乱れたところを急襲して彼も討ち取ってしまったのです。

 

 

 

とはいえ、これだけでは十倍ともいわれる袁紹軍に勝てるものでもありません。曹操軍は必死の抵抗を見せますが、ある時、ついに蓄えていた兵糧が尽きてしまったのです。そんな折、敵の輜重隊が官渡にもうすぐ到着するという知らせを受けました。

 

 

荀攸はすぐにそれを曹操に知らせ、輜重隊隊長の好戦的な性格を分析。徐晃(ジョコウ)と史渙(シカン)の二人を輜重隊撃破の任務に推薦し、これを許諾した曹操は、荀攸の言った通り二人に部隊を預けて輜重隊襲撃に無わせたところ、襲撃は見事に成功。袁紹軍の輜重は軒並み焼き払われたのです。

 

 

が、これでも袁紹軍の勢いは収まることもなく、まだまだ豊富な物資も尽きる様子はありませんでした。

 

そんな折、袁紹軍の参謀の一人である許攸(キョユウ)が曹操軍に投降。大規模な兵糧輸送部隊が烏巣(ウソウ)に集結しており、ここを攻撃すれば勝てると進言。

 

諸将は許攸の投降を怪しんだのですが、参謀である荀攸と、同じく参謀として参戦していた賈詡(カク)だけは許攸の意見に賛成。官渡城の守りに曹洪(ソウコウ)、そして荀攸を残し、烏巣に襲撃を仕掛けに向かいました。

 

その後、烏巣の攻略に成功すると、官渡を攻撃していた軍の大将である張郃(チョウコウ)と高覧(コウラン)が曹操軍に降伏。防衛部隊大将の曹洪はこの投降を怪しんで城に入れようとしませんでしたが、荀攸が「自身の計略が採用されなかったから腹を立てて降伏したのです。疑う必要はありません」と助言したため、曹洪は納得して二人を城に迎え入れたのです。

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