【荀攸伝2】無敗の軍略家
曹操の軍事的ブレーンとして
建安7年(202)に袁紹が病死すると、曹操はすかさず袁紹量の切り崩しにかかりますが、この時は上手くいかず撤退。
しかし曹操が袁紹領から目を離して、袁紹の盟友であった劉表(リュウヒョウ)を攻撃する姿勢を見せると、安堵したのか袁紹の息子たちの間で後継者争いが発生しました。
袁紹の長子・袁譚(エンタン)が弟の袁尚(エンショウ)との戦いで劣勢に立たされると、曹操との和睦を決意。救援要請の使者を立てたため、曹操は多くの家臣と共に袁譚の和睦を受け入れるかどうかを審議することになりました。
多くの家臣は、「それより劉表が強力なので、袁兄弟など無視したら良いでしょう」という意見でほぼ統一していました。が、荀攸は劉表が領土固持に執着して天下取りの動きを見せないのを理由に、
「袁紹領内で争いが起きている間に、それに付け込んで北を平定してしまいましょう。どちらかが倒れ、袁家の力が一つになってからではまた脅威になり得ます」
と主張。
かくして、曹操は荀攸の意見を採用して袁譚に援軍を派遣。大義名分を得て袁尚の領土に攻め込んで、大きく北に勢力を伸ばしたのです。
その後案の定袁譚が裏切ると、その袁譚の軍も粉砕し、彼を討ち取ることに成功。
結局曹操の北伐は6年もの歳月を要することになりましたが、その後も落ち延びた袁尚やその兄・袁煕(エンキ)、それらに手を貸していた北方の烏丸(ウガン)族の部隊も撃破。無事に河北一帯を抑えることができたのです。
荀攸もまた曹操に多大な感謝を示され、陵樹亭侯(リョウジュテイコウ)、つまり領土持ちの侯爵に封じられたのです。
さらには北方の領土が安定してから大々的に行われた、曹操臣下の褒賞会でも、荀攸は叔父であり曹操軍の大ブレーンである荀彧に次ぐ褒章を受け、領土も加増。中軍師(チュウグンシ)に任ぜられ、軍事策謀家としての栄誉を極めたのです。
魏公国が設立すると、荀攸は尚書令(ショウショレイ:上奏文管理の最高職)に任命され、翌年である建安19年(214)には孫権(ソンケン)との戦いにも参加する予定でしたが、随行する途中で病死。56歳でした。
曹操は荀攸を思い出すたびに涙を流すと言われるほどにその死を悼み、また、彼の策謀を本にまとめようとしていた鍾繇(ショウヨウ)からも大いに悲しまれたのです。
諡は敬侯(ケイコウ)。彼が慕われていたことがよくわかる追号です。
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評価
三国志を編纂した陳寿(チンジュ)からは、こう評価されています。
曹操も荀攸を
外面は愚鈍で臆病、ひ弱に見える。が、内面はその逆で、英知と勇気にあふれた剛毅の人。偽善者ぶることもなければ面倒事は人に押し付けない。その英知には近づけるが、(パッと見「の)愚鈍さには近づけない。その在り方は、過去の高名な儒学者でも彼には及ぶまい
と評しており、息子の曹丕(ソウヒ)にも「あれこそ人の手本だ。礼を尽くして尊敬しなければならんぞ」と伝えています。
また、その曹丕も荀攸には特別な敬意を表し、荀攸が病気になったときには、その場には曹丕一人しかいないのに拝礼をとったとも言われています。
また、荀攸の友人である鍾繇も「何度も練り直し、思いつく限り最善の手を考えてから荀攸に意見を求めたつもりだった。なのに、彼の考えはいつも私の上を行く」と答えていました。
また、この鍾繇だけは荀攸の立てた12の秘策を知っており、その内容を編纂して本にまとめようとしたそうですが、結局出来上がる前に亡くなってしまい、世に伝わることはなかったのです。
くっそ、俺もそれ知りたかったのにくっそ!!
ともあれ、あからさまに「頭がいい」逸話や献策の功績を多く持つ荀攸。彼の秘策の一端は、孫子の「彼を知り己を知る」にある……と思う←
なんにせよ、飛び抜けた情報分析能力と現状打破の作戦能力を持っていた荀攸。ついに無双シリーズへの出演も決まりましたし、ここから一気に有名になることを祈るばかりです。
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