【賈詡伝2】魏軍の神算アドバイザー


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【賈詡伝2】魏軍の神算アドバイザー

 

 

 

 

 

曹操の頼れる謀将

 

 

 

さて、執金吾として曹操軍に身を置くことになった賈詡ですが、同時に都亭侯(トテイコウ)としての爵位も与えられており、さらにその後には冀州(キシュウ)を統括する州牧としての抜擢も受けています。

 

が、賈詡が冀州牧になったころ、まだ冀州は袁紹らの領土であり曹操の影響力はありませんでした。そのため、参司空軍事(サンシクウグンジ:司空の軍事参謀。当時、曹操は司空の地位だった)として曹操の元で勤めることになりました。

 

 

 

そして建安5年(200)には袁紹との間で、官渡の戦いが勃発。

 

 

曹操軍は初戦を制し戦局を優位に進めますが、袁紹軍の数は圧倒的で、曹操軍はたちまち袁紹に包囲されてしまったのです。

 

さらに物資面でも苦しめられた曹操軍は、数ヶ月の包囲の末兵糧が底を尽き、絶体絶命の危機に陥ってしまいました。

 

 

 

そんな状況下で曹操賈詡に「さて、どうしようか」と質問します。

 

すると賈詡は、

 

「殿は聡明さ、勇猛さ、人使い、決断力の四つで袁紹に勝っておられます。後は好機さえ訪れれば、すかさず勝ちを得られるでしょう」

 

と回答。

 

 

そこで曹操賈詡の助言を容れて、軍を一つにまとめて袁紹軍本隊から少し離れた部隊を攻撃。これを撃破したことで、袁紹軍を一気に壊滅状態に追いやり、まさかの逆転勝ちをして見せたのです。

 

 

補足
袁紹軍の参謀の一人である許攸(キョユウ)という人物が袁紹軍の兵糧庫の場所を曹操にバラし、賈詡は荀攸(ジュンユウ)と共に「すぐにその場所を襲撃しましょう」と進言したという記述が荀攸伝でなされています。

 

結果的にこの襲撃が大成功して奇跡の逆転勝利を収めた辺り、おそらく「袁紹本隊から離れた部隊を攻撃」の下りは、烏巣襲撃の一件を表していると思われます。

 

 

この戦いに勝った後、袁紹が病没したうえ息子らが跡取りを巡って争いを行ったこともあり、曹操は無事に袁紹軍の本拠地である冀州を平定。

 

この時冀州牧には曹操自身が付いたため、賈詡は冀州牧の任を解かれ、太中大夫(タイチュウタイフ:皇帝の顧問役)に転任しました。

 

 

その後、建安13年(208)年の赤壁の戦いではそもそも出征前から反対の立場を取り、「まずは荊州の領国を安定させ、軍備を整えましょう。そうすれば戦うまでもなくあちらが降伏します」と曹操を諭しますが、聞き入れられず曹操軍は大敗北を喫することになってしまいました。

 

この時曹操賈詡ら反対派の意見を容れていたらどうなったかは何とも言えませんが……孫権らからすると赤壁で一戦交えるよりも難しい局面になったことでしょう。

 

 

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離間の計

 

 

少し飛んで建安16年(211)、これまで同盟者であった馬超(バチョウ)、韓遂(カンスイ)ら西涼の諸侯が、曹操に危機感と不安感を募らせて連合し叛逆。そのまま潼関の戦いにもつれ込みます。

 

そして一進一退の攻防が続く中、馬超らは曹操に和睦の使者を送って曹操との和解の道を模索。しかし馬超らの提示する条件は、「曹操は領土を割譲し、人質をこちらに送ること」といった内容。

 

 

突きつけられた条約に対し、賈詡は「受け入れたフリをすればいいでしょう」と提案。さらに、曹操に対し計略を献策します。

 

 

この時、賈詡曹操に上奏した策が、世に名高き離間の計。元々独立色の強い馬超ら連合軍の結束を引き裂こうというものでした。

 

内容は、偽りの和議成立の機を見て、曹操は旧知の仲の韓遂と接触。さらには修正ばかりのいかにも意味深な書状を韓遂に送り付け、彼を「曹操の手先だ」と仕立て上げることで孤立させようというもの。

 

 

早速曹操賈詡の策を実行しましたが、見事に成功。馬超らは盟友・韓遂にあらぬ疑念を抱き、日を改めて行われた再戦では連合諸侯の連携が取れないこともあり、曹操は大勝を収めることができたのです。

 

 

 

 

 

曹丕の腹心

 

 

さて、話は少しばかり変わりますが……曹操は嫡子の曹丕(ソウヒ)を後継者として決めていましたが、その弟の曹植(ソウショク)も評判が高く、家臣の間では「曹丕を排して曹植を次の後継者にしよう」という動きも多くみられていました。

 

そんな中、賈詡曹丕派の一人として彼に接近。曹丕に意見を求められると、「ただただ謙虚に粛々と、子としての正しい道に従事してくださればよいのです」と助言を与えました。

 

 

また、後日曹操から後継者問題について意見を求められると、賈詡はひたすら無言を押し通します。

 

曹操が「俺が意見を求めているのに、なぜ黙る?」と訊くと、賈詡はようやくその口を開きました。この時に出た言葉が、

 

 

袁紹や劉表の事を考えていました」

 

 

袁紹、劉表。どちらも一大群雄でありながら、後継者争いで失敗した結果家を滅ぼすことになった英雄たち。

 

そんな面々の名前を賈詡の口から聞いた曹操は、手を叩いて大笑い。「とっくに答えは出ているではないか」と、そのまま曹丕を後継者として確定しました。

 

 

 

その後曹操が亡くなり、後を継いだ曹丕が皇帝に即位すると、賈詡は太尉(タイイ:国防長官のような役割。三公と呼ばれる最高級官僚の一つ)となり、さらに爵位も魏寿郷侯(ギジュキョウコウ)に格上げされ、領土も加増。

 

さらに子供たちもそれぞれ官位や領土を分け与えられるなど、かなりの厚遇を受けることとなったのです。

 

 

曹丕が新たな帝位に就き、国が一新したある時、曹丕は「そろそろ統一に向けて動きたい。呉蜀のどちらを併呑すればいい?」と賈詡に質問します。

 

しかし賈詡は、

 

「優れた才覚を持つ劉備、そして事の真偽を見極める力を持つ孫権。いずれも有能な参謀を抱いており、さらには要害を盾に堅固な守りを敷いています。まずは政治と領内の慰撫、そして万全の状況が整ってから攻めるのがよろしいかと存じます」

 

と、曹丕による出征を制止。しかし曹丕は聞き入れず、孫権の守る呉に総攻撃を開始。賈詡の進言通り攻め切ることができず、多数の死傷者を出して遠征は失敗に終わってしまいました。

 

 

その翌年である黄初4年(223)年、賈詡は病気により77歳で死去。諡は粛侯とされ、子の賈穆(カボク)が跡を継ぎました。

 

 

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評価、逸話

 

 

 

 

三国志の編纂者・陳寿は、賈詡についてこう評しています。

 

 

賈詡は荀攸とともに打つ手に失策がなく、事態の変化に通暁していた。

 

まさに、古の天才軍師である張良(チョウリョウ)、陳平(チンペイ)に次ぐ人物ではないか。

 

 

つまり、処世、策略双方に関して間違いのない人物というわけですね。

 

献策に関しては言っている内容は妥当と言う他なく、まさにハズレ無しの規格外と称して間違いないのは本伝からもわかる通り。

 

 

 

一方で処世の方もかなり徹底しており、

 

 

・休日は門を閉ざして引きこもり、余計な交友は持たなかった

 

・プライベートな交流もカット

 

・子供たちの結婚相手も、家格が高すぎる場所は避けていた

 

 

等々、まさに出世でなく保身、とにかく「出世ではなく、無事に乗り切る」ことに特化した考えを持っていたことが伺えます。

 

 

策謀の士というのは何を考えているのかわからず、あらぬ噂を立てられやすいもの。

 

ましてや反発者の多い董卓、さらにその子分らに仕えていた過去や差別的な目で見られる辺境の涼州出身と言うのもあり、とにかく生涯を安全に乗り切ることには神経をかなり使ったことでしょう。

 

 

 

 

しかし、それでも後世から見ると「何とも都合がいい奴」とみられることも多く、特に三国志に注釈を加えた裴松之からは蛇蝎の如く嫌われています。

 

 

まず、サバイバルのための策である「李傕らによる長安襲撃」に関してのコメントが、

 

 

やっと董卓が死んで、長安の平穏が訪れたところだった。

 

にもかかわらずつまらん戯言を述べて逃げ散ろうとする李傕らを呼び止めていらんことをしたせいで、その後余計に長安は有れることになった。

 

こいつは大罪人だ!

 

 

とまあこの時点でわかるたいそうな嫌いよう。

 

 

そんな裴松之の賈詡アンチオーラは留まるところを知らず、赤壁の戦い以前の賈詡の反対意見に対しても、

 

 

この当時は賈詡が言ってるみたいに悠長なことやってる余裕はない。

 

というか赤壁で負けた後曹仁も江陵で負けたじゃん! 防戦に回って勝てる余裕なんてないの!

 

というか領民の「慰撫」で敵国が「頭を下げて服従」とか馬鹿じゃねーの!?

 

 

曹操のやったことは正しい! あの敗北は天運がなかっただけだ!

 

よってここの賈詡の意見は間違い! 失策!

 

 

…………何だろうな、言ってる内容は一理あると思わないでもないのに、単に揚げ足取ってるだけのような気がするこの感情。

 

 

 

とまあ意地でも功績を認めるものかと言わんばかりの裴松之。最後の最後には、賈詡の評に関してはこう総括しています。

 

 

列伝は類似した特徴の人間をひとつにまとめるものだろう。

 

善良な張良と素行に問題ありの陳平も同列にまとめられているが、あれは前漢ただあの二人だけが有名な謀臣だったからそうなったんだよ。

 

そもそも荀攸と一緒くたにしているけど、荀攸と賈詡の人物像は夜光の珠とおがらの灯ほどの差があるからね。照らすという意味じゃ一緒でも、これじゃ性質がまるで違う。

 

こんな性悪、荀彧や程昱辺りと一緒にまとめとけばいいよ。

 

 

うーん、相変わらず所々で核心はつきながらも、「やっぱり単に嫌いなだけじゃねーか」と突っ込みたくなる言い分……

 

 

 

ともあれ、こういった軍師や謀臣は、時に黒い事にも手を染めたり、我が身を知略で守らなければならないのもまた事実。

 

頭脳に頼ったやり方が単に卑怯で根暗に見えてしまう点、そして李傕たちの配下という点でマイナス感情を歴史家に与えてしまう点は、避けようもない事実なのかもしれませんね。

 

当時でも、日食が起きたのは賈詡のせいだという滅茶苦茶理論で罷免を上奏されたりもしていますし……。

 

 

 

ちなみに孫子や呉子の兵法編纂にも手を付けていたようですが……これは『隋書』経籍志にある話。まったく時代の異なる読み物の記述なので、どうにも影が薄いです。

 

 

 

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