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【李傕伝1】恐怖と破壊のヒャッハー伝説

 

 

 

 

董卓配下のヒャッハーマン

 

 

 

李傕が史書に顔を出したのは、初平2年(191)。波に乗って一気に董卓軍を肉薄する孫堅(ソンケン)に対して、董卓は和睦を結びたいと考えていました。そこで使者として白羽の矢が立ったのが、この李傕だったのです。

 

李傕はさっそく孫堅の元に停戦を要請しに行きますが……孫堅はこれをあっさりと拒否。結局洛陽(ラクヨウ)まで攻め込まれることとなり、董卓は都に火を放って逃亡。西の長安(チョウアン)に逃げることになりました。

 

 

 

その後、李傕は董卓の娘婿である牛輔(ギュウホ)の軍に参入。反董卓の気炎を上げる名将・朱儁(シュシュン)を相棒の郭汜(カクシ)と共に打ち破り、その後は各地に進出し略奪を働いたのです。

 

その時の様子はまさに地獄そのもので、男は殺す、女は犯すを比喩表現無しで行うという徹底した破綻っぷりを見せつけています。

 

 

潁川郡の荀彧(ジュンイク)が「ヤバいから逃げよう」と郷里の人々に提案したのもこの李傕らの進撃を予見してのものだったとされており、彼の故郷はこの後李傕らに荒らされています。

 

 

 

さて、そんな好き勝手に暴走していた李傕たち一行ですが……初平3年(192)、とんでもない報告が彼らの元に届けられたのです。

 

 

 

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天下人ヒャッハー

 

 

 

 

――董卓、王允(オウイン)らの謀略により死す。

 

 

この知らせを受け、牛輔らは非常に強い衝撃を受けたことでしょう。

 

反逆者の刺客として派遣されてきた李粛(リシュク)の軍勢を追い返すことに成功した牛輔軍でしたが、トップがいなくなったことによって反乱や逃亡兵が続出。大混乱に陥り、慌てて逃亡した牛輔も随行した部下の裏切りによって殺されてしまったのです。

 

 

各地を荒らしまわっていた李傕らが戻ったころにはすでに牛輔の姿はなく、兵たちも「帰りたい」という思いでいっぱいになっていました。

 

そんな中で、追い打ちをかけるように「王允は涼州人を皆殺しにしようとしている」という話も飛び交い、その証拠とばかりに朝廷からの赦免はいつになっても公表されず。

 

 

そんな絶望的状況下で、その軍中にいた賈詡が一つの提案をしました。

 

「どうせ逃げても殺されるならば、いっそ長安を攻め落として主君の仇討ちをいたしましょう。攻め落とせればそれでよし、無理でもバラバラに逃げるよりは生き延びる目があります」

 

 

その献策を受けた李傕らは、すぐに軍をまとめて出立。董卓軍の残党の多くと合流し、そのまま長安を目指しました。

 

そして攻める事わずか10日で長安を攻め落とし、王允ら董卓暗殺に深く関与した人物を粛清して回り、見事に朝廷に返り咲くことに成功したのです。

 

 

この時、董卓暗殺の実行犯であった呂布(リョフ)を撃破して長安から追い出し、その後老若問わず人を殺して回って街に殺戮の旋風を巻き起こした旨が史書に描かれていますが……まあ李傕からすればそれくらい造作も無い事だったのでしょう。

 

 

 

こうして漢王朝の朝廷を手中に収めた李傕は、車騎将軍(シャキショウグン)に昇格し、地陽侯(チヨウコウ)として領地を拝領。さらに司令校尉(シレイコウイ:首都圏の警備隊長)の仕事と仮節(カセツ:軍規違反者の処罰権限)を与えられ、董卓に代わる群雄として立ち上がったのです。

 

そしてこれが、首都長安の地獄の幕開けでした……。

 

 

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ヒャッハーインフェルノ

 

 

 

こうして群雄として立ち上がった李傕に対して、西涼の馬騰(バトウ)、韓遂(カンスイ)らは一度恭順の様相を見せましたが、李傕が韓遂を鎮西将軍(チンセイショウグン)、馬騰を征西将軍(セイセイショウグン)に任命。

 

馬騰を手元に置くと同時に韓遂だけは涼州に帰らせ、西涼軍閥の力を削ごうと目論みました。

 

 

しかし、馬騰らは朝廷の反李傕派と共謀し、李傕らの排除を画策。韓遂や益州の劉焉(リュウエン)までもが、この計画に乗っかかるという事態になりました。

 

 

しかし計画がようやく始動したというあたりで、李傕がこの計画を看破。

 

朝廷内の反李傕派は、李傕が派遣した樊稠(ハンチュウ)によって西涼の反李傕軍ともども駆逐され、李傕らを殺そうと目論んでいた朝廷の名士らはすぐに粛清されてしまったのです。

 

 

 

一方、東でも袁紹(エンショウ)を中心とした群雄の連合軍が勢いを増し、すでに李傕らを圧迫しようとしていた事が気にかかり、彼らに敵対する各地の群雄に官位のばら撒きを試行。

 

これによって多くの群雄を味方につけ、袁紹らを天下から孤立させ、そのまま討ち果たしてしまおうとも考えました。しかし、これによって立ち上がった群雄らはことごとくが後に駆逐され、後に袁紹派の連合諸侯はどんどん力をつけていくことになってしまったのです。

 

 

 

さて、そんな李傕政権の政治ですが……まさに最悪と言ってもいいくらいだったようです。

 

 

元々西涼の軍兵には力こそ正義な価値観があったためか、まさに「足りなければ奪えばいい」の弱肉強食な世界を展開。

 

結果として、長安は首都であるにもかかわらず荒廃。民は略奪による飢えと苦しみから人肉を食らうようにもなってしまい、腐乱死体が街の景観の一部になってしまったほどだとか。

 

 

朝廷の役所にも帝の身柄を人質に略奪に押し入り財貨をすべて奪ったほどだという記載もされているほどで、どこまでが真相かわからないものの相当アレな活動をしていたのは間違いないでしょう。

 

 

 

 

 

 

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ヒャッハー政権の落ち目

 

 

 

さて、そんな李傕政権でしたが、実は元々が董卓配下という事もあって連合政権に近い体制だったのです。そのため上下はあれどもほぼ横一列といった力関係。これが欠点となり、李傕は自身の天下を自分で揺るがしてしまったのです。

 

 

というのも、その火種となったのが、同士であった樊稠の処刑。彼は李傕と共に立ち上がった董卓子飼いの一人でしたが、主導権争いの末に李傕に討たれてしまったのです。

 

 

『九州春秋』では、樊稠処断の流れが少し変わっています。

 

少し前に馬騰らの反乱について書きましたが、そこで彼らの討伐を受け持ったのが樊稠。彼は無事に馬騰らの軍勢を撃破し追撃に移りますが、同郷の情けというのもあって、お互い顔を合わせ、戦わずに昔語りをし合ってそのまま別れたのです。

 

それを遠巻きに見ていた血族の李利(リリ)からこの情報を聞いた李傕は、「何やら親密そうに話していた」と琴の次第を李傕に報告。

 

この報告を聞いた李傕は途端に樊稠に疑念を募らせ、会合を開いてその場で殺害したのです。

 

 

 

しかし、リーダーの李傕が主だった同士を殺したのでは、周囲はそれを恐ろしく感じるのは自明の理。ナンバー2であった郭汜が樊稠殺害を機に李傕に猜疑の目を向けるようになり、一方の李傕も「まだ裏切り者がいるのでは」と郭汜を疑うようになったのです。

 

そして李傕と郭汜はいつしか敵同士としてお互い争い合うようになり、数ヶ月で死者が数万に上るほどの殺し合いに発展したのでした。

 

 

結局二人は同じ董卓子飼いの張済(チョウサイ)の仲裁で和睦しますが……李傕の軍は叛逆や逃亡兵が相次いで発生したため、その力は著しく削ぎ落されていたのです。

 

 

しかし、今度はその隙に、李傕らが好き勝手出来た要因にして正義の旗印でもある帝が、ついに長安から脱出。

 

郭汜と合流した李傕は帝を逃したことを後悔し、すぐに軍を率いて追撃し、邪魔をしてきた楊奉(ヨウホウ)らの軍勢と激突し、官人らを殺害して回ったのです。

 

そして大勝の勢いに乗った李傕軍は弘農(コウノウ)の土地まで進出しましたが、帝はさらに東へと逃亡しており、結局錦の御旗を追いきれずに楊奉との和睦を決定。計画は失敗してしまいました。

 

 

 

その後帝は曹操(ソウソウ)によって保護され、大義名分を失った李傕らはその影響力を一気に衰退させ、建安3年(198)には、裴茂(ハイボウ)らが西涼の群雄と共に決起して攻め寄せ、大敗。李傕は処刑され、三族皆殺しにされてしまったのです。

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