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【李傕伝2】世紀末な逸話集

 

 

 

 

 

後漢末のナチュラルボーン

 

 

 

さて、では李傕の性格や内面、そしてそれを証明する逸話について迫ってみましょう。

 

都での暴政やそのほかのヒャッハーな暴れっぷりから見て取れる通り、李傕の内面の狂いっぷりは、やもすれば董卓以上と言えるでしょう。

 

 

一応まともに朝廷を運営しようと思っていた董卓と違い、李傕にとっては都も朝廷も自分ひとりのためのもの。搾取の対象に過ぎなかったようにも見えます。

 

事実、その都の荒廃ぶりとくれば、董卓政権がマシに見えるほど。都も民も朝廷も、すべて己の養分として徹底的に搾取してやろうと言わんばかりのもの。

 

仕方がない事とはいえ、結果として彼を助けたことになった賈詡を批難する声にも納得してしまいそうです。

 

 

 

残念ながら陳寿からのコメントは残されていませんが、世の歴史家で彼の事を評価した人は皆無と言ってよく、むしろ記述内容で無言の最低評価がなされていると言っても過言ではないでしょう。

 

 

 

 

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大好きなのは邪神と巫女

 

 

さて、李傕を語る上での目玉ともいえる特徴は、

 

 

・邪神崇拝

 

・巫女萌えの先駆者

 

 

の2点でしょうか。

 

『献帝起居注』には、その様子の一端が書かれています。

 

 

李傕は鬼神や妖術の類に傾倒し、常に道士や巫女が歌って鼓を叩き、神下ろしをしていた。後に李傕が破格の出世を遂げると「鬼神の加護を得た」と思い込み、巫女たちにねんごろに褒美をくれてやった。

 

とまあ、本格的な鬼神の崇拝者だったというのが見て取れます。

 

まあ李傕は元々武官で荒くれですし、ある意味鬼神の崇拝というのはそれらしい気がしますが……さすがにお守りやお札だらけで本格的に傾倒しているのは、ちょっと見てて怖くなる気がします。

 

 

また、董卓の廟を作ってそこに牛や酒を祭ったりもしていたという忠臣なんだか怖い人だかよくわからないこともしており、これもまた当時の人々に怖がられています。

 

 

巫女を侍らせて常に邪神を祭り続けていた不気味な人物。それが李傕という人なのです。

 

 

 

 

 

 

ヒャッハー政治の申し子

 

 

 

これは本人の来歴でも書きましたが、李傕や郭汜らの軍の信条は「男は殺す、女は犯す」。これで精強な董卓軍を率いてどんどん勝ち進んでいますし、都の長安に入ってからも、その信条は政治体制によく表れています。

 

 

『献帝紀』には、こんな話もあります。

 

官中の女性たちの服が極端に少なかったので帝が服を下賜しようとしたところ、「まだ服あるんだし、なんであげちゃうんですかね?」と因縁をつけて不満そうにしていたとか。

 

また、あまりの周囲の困窮具合に見かねた帝が自立生活が贈れない貧困者に財宝を贈って支援しようとしたところ、「俺の方が貧乏だし!」と言ってその下賜品をすべて自分の家に運び込んだのです。

 

さすがにダメだろと思った賈詡がこれを咎めても、李傕は知らん顔をしていたそうな。

 

 

とにかく、「お前の物は俺の物」とばかりの、シャレにならないレベルのジャイアニズムを発揮していたのはまず間違いないようです。

 

 

 

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帝? それって偉いの?

 

 

 

 

李傕のヒャッハーでバイオレンスな態度は、中国において神にも等しいとされる天子様相手でも一切変わる事はありません。

 

 

これも『献帝起居注』の話ですが、李傕は郭汜と内輪もめをしていた時、刀を数本下げて鞭まで持って帝との謁見に臨みました。

 

当然、武器一切禁制の宮中でそんな恰好で来たのなら大問題。李傕が来た時、常に親衛隊が慌てて帝の周りを守りに向かっていたのです。

 

 

しかし、李傕はそれが気に入らず、「こいつらは俺を殺そうというのか」と鼻息を荒くして怒りをあらわにし、怒りの様相で訴えかけました。

 

 

そこですかさず同郷の李禎(リテイ)という人が「軍中ではこうするのが慣例になっています」と答えたことで、なんとか気持ちを治めたのです。

 

 

 

また、郭汜と帝の取り合いになった結果移住させることになった時にも、国のトップに対してちょっとアレな事をしでかしています。

 

 

まず、甥が率いる数千の兵で宮殿を包囲し、強引に帝を連れ出すところからスタート。

 

強引に宮中から連れ出し、ほとんどの官人を徒歩のまま移動させ、砦に閉じこもって外部との連絡を絶たせたのです。

 

 

そしてそんなころ、帝が「たまにはそれなりのものを皆で食べたい」と、米と牛の骨を要求したところ、李傕は「毎日飯を与えてやってんのにウダウダ言ってんじゃねえよ!」と不満全開で言い放ち、なんと腐った牛の骨を食卓に並べてやったのです。

 

 

当然ながら誰も口にすることができず、帝もこの対応に立腹しましたが、相手はあの李傕。「理屈など通じるはずもない」と周囲が押しとどめたのもあって、結局抗議がなされませんでした。

 

 

この時もおそらく、良い物食べてんだろうなあ、李傕……。

 

 

 

 

さて、そんなわけで李傕のトンデモヒャッハーな性格の一端でも感じていただけましたでしょうか?

 

もはや同情の余地もないくらいにヒャッハーでインフェルノな対応をしまくって歴史に名を刻み込んだ李傕。元々虫の息だった漢王朝に本格的にとどめを刺したのは、李傕一派のこのような暴挙であったのは歴史が物語っている通りです。

 

 

そんな好き勝手の他者から搾取むしり取り放題な、ある意味人間の究極の理想を成し遂げた李傕でしたが、その最期は旗印を失い味方もおらず、かつて共に董卓の下で戦った段煨(ダンワイ)らを中心とした西涼の軍勢によってあっけなく戦死しました。

 

暴虐の果てのその最期に、李傕はいったい何を見たのでしょうね?

 

 

 

 

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